龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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もう一つ補助線を引いておく。

2012年01月07日 18時43分12秒 | 大震災の中で
千葉雅也氏が深夜のネット生中継的しゃべりで
「小人群居してモナドロジー」
と言っていたのが印象的だった。
完璧にア・ポステオリな啓蒙は可能か?
という問題提起にもつながっている。

そこに至るまでの分析で、実はヒトって、自分自身でさえ十分に複数的存在であって、その自己自身における差異を単なるバラバラで収拾のつかないものとしてではなく、むしろそこで日々「共同」し続けているんじゃないかって話が展開していたように記憶。ちゃんとメモを取っておかなかったのでうろ覚えですが。

それは実はそのまま、今月号の雑誌「文學界」の東浩紀『一般意志2.0』の書評を國分功一郎が書いている、その主題ともリンクしていると思われる。

一と多の関係における「政治性」の困難。

公共性の根拠をどのように「担保」するか、といってもよい。

それを垂直軸の課題として取れば「神・仏」の問題にもなる。

隣接性の課題として取れば教育の問題にもなるだろう。

さて、親鸞に戻ります。
ようやく郡山ジュンク堂で

親鸞『教行信証』
ユクスキュル『生物から見た世界』
(いずれも岩波文庫)
をゲット。

若いときは辛気くさくて岩波文庫など手にする気にもならなかったが、最近死ぬまでに読んでおきたい本が目白押し。

逆に新しい本は取捨選択できるようになってきた。

脳味噌が、新しさを受け入れられないほど固くなったと見るべきか、あるいはようやく詰め込んできた知識が脳味噌のバケツを満たし、ここから構造体が立ち上がるのか?

できれば後者でありたいが、いつもこのボケと思考のクリアとさはコインの両面なんじゃないかと思う。

最近物事があまりにもクリアに理解できるようになってきたのは、肝心なことを見落としても平気になったからじゃないか?という恐怖から逃れられない。
まあ、分かるようになるのと分からなくなるのとは実はそんなにちがわないのかもしれないんだけどね。
いずれもそれ以前とは違った「知」の状態が招来されているには違いないわけで。

ヒトは死ぬまで知的に変化生成し続けるってことなんだろうな。
だとすれば自分を単なる価値付の数直線上にプロットせず、変化の予兆に敏感であること、そして変わらないことの手応えを同時に見失わないこと、が大事なんだろうな。




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