龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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震災以後を生きる(10)

2011年06月15日 02時54分33秒 | 大震災の中で
近海のいわしやサンマと地物の菜っ葉とご飯があれば、なんとか生きていける、と思っていた。
高度経済成長期も、オイルショックのときも、安定成長期と呼ばれたときも、バブル期だって、あるいはバブル崩壊後も、失われた10年(20年?)と呼ばれた時期であっても、それは代わらなかった。

みんながそう考えていたとは思わない。
極めて個人的な感想だ。

コタツを「作る」ために、あるいはご飯を作るために炭で火を熾し、お風呂を焚く前に薪割りを、していた子どもの頃、冷蔵庫もガスも水洗トイレも無かった。

そのころのことを考えれば、たいていのことはどうってことはない。
ずっとそう思っていた。

しかし、海の魚が食べられない。地物の野菜が食えない。
原発事故は、福島県にそういう現実をつきつけている。

イタリアの国民投票が示した脱原発を、自民党の石原幹事長は「集団ヒステリー」と評したとか。
http://news.tbs.co.jp/20110614/newseye/tbs_newseye4751167.html

でもね。
上記の私のような考え方に立つと、

石原幹事長のように、今なお原子力発電所の電力が必要だっていうことは、この基本的な生活の基盤(いざとなったら自然の恵みで生きていけるよという安心感)を、借金の質に入れてまで現在の「豊かさ」を持続させようという方向性に見えてしまう。

もちろん、そちらを選びたいヒトが日本人の中にもいることは分かる。
「産業が衰退して、日本が貧乏になる、失業者が増える」
という危機感もあるんだろうな、とは思う。

そういう危機感を、私のような考え方から逆に「ヒステリー」と言ってしまっては、たぶん「政治」にとっては思うつぼ、なのかもしれない。

福島では、脱原発は単なるヒステリーではなく、冷静に考慮すべき現実です。

石原幹事長の発言は、悪いけれど、

 「福島」のヒトの気持ちは分かるけど現実は別。
 イタリアのヒトの気持ちは分かるけれど、現実は別。

と、「気持ち」と「現実」を一所懸命切り分けようとする欲望に支えられている言説、と見受けられる。

近海の魚と、地物の野菜が食べられなくなっちゃう危険は、日本にとっては経済的損失よりも、大きいと思うんだけどなあ。
都会の発想は違うのかしら(笑)。
いざとなったら福島の産品は買わなければ済む、ってこと?
イタリアから輸入してもいいのか?
うむ。

福島では雇用問題が深刻化しはじめています。
原発のおかげで支えられている雇用と、そのために失った雇用と、どちらが大きいと思いますか?
それも福島という例外的局所的事象、ということで丸められていくのかな……。

つまりさ、ディベートでよく使われる主張の型の一つだけれど、
「起こる可能性は低いが、一端起こったら被害は甚大だ」
ってのが、こういう原発プラント反対側立論の定番。
それが実際起こっちゃったわけですから。

広島・長崎の軍事的被害

福島の平和利用的被害

(           )

上記のカッコに入るのが、いったい何かってことですよねえ。

1,原発の早期再立ち上げと安全運用による経済復興
2,早期脱原発による、エネルギー政策の転換
3,どうでもいいからうまくやってよ
4,経済政策、エネルギー政策に止まらず、日本のあり方について考え直す

私はイワシとかサンマとかと地物の野菜や果物と共に生きたいなあ。
このまま原発事故が収束して、地表の線量逓減化が実現すれば、福島が当たり前に持っていた「豊かさ」を、いつか回復できるのではないか、と望みを持っています。
それは、既存の原発を一刻も早く立ち上げようという方向性とは明らかに異なります。

経済発展は、走り続けなければ成り立たない。
それも分かります。
いったん降りたら、もう戻れないみたいに思うのも分かります。

でも、逆にね、福島県の農水産物という自然の恵みを享受する道から、強制的に下ろされてしまったのです。一端「降りたら」、戻るのは本当に大変なのですね。経済的な「暴走特急」(3/11以後の福島から見ると、そうも見えてきます)から降りるのも勇気が必要かもしれないけれど、それは同時に、福島のような場所をさらに、未来に準備する道、でもある。

「過ちは繰り返しませぬから」

という「倫理的な要請」が、経済発展を続けるためにさえ、いな、むしろ経済発展を私達が支えていくためこそ、必要なのではないでしょうか。
ブレーキのない暴走特急には乗れないということです。
だからといって、全員ただちに特急列車から飛び降りるわけにはそりゃいかねえだろうさ。
突き落とされた福島の住民から見ても、そりゃちょっと無理っぽい。
だから、ここは、もし、持続的に経済発展とか考えるんだったら、むしろ踏みとどまって、考えた方がいいと思う。

政治と企業と官僚と学者とその中にいる労働者
に任せて、そこから下りてくる「お上の声」を、「パターナリズム」的に受け取って「いいなり」になる

のではなく、多少「国」が貧乏になっても、トータルで「豊かさ」をきちんと議論した方がいいんじゃないかな。

報道の側や学者さんの側、政治家や企業も、原発事故が大変だとか、逆に原発再稼働しないと何兆円の経済成長が損なわれるとか、その場のことだけを断片的正しさで報道するだけでなく、私達が判断し、選択できるだけの情報量とシミュレーションを提示してほしい。

平時なら、官僚のコントロールに任せて、日の丸企業の元気に頼っていれば良かったかも知れない。
でも、今は平常の時、でもなさそうだし、個人個人のさまざまな力を伸ばす、絶好の「危機」にしたいなあ。

私は、近海の魚と地物の野菜や果物が安心して食べられる生活ができるなら、「かなりの程度」貧乏になっても、その方がいいと思う。

最初から停電する時間帯さえ分かれば、計画停電だって全然オッケーだし。

そうそう、思い出したけれど、昭和30年代、私が子どもの頃は、断水と停電なんて、日常茶飯事だったんだ。








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