龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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國分功一郎「スピノザ入門」第12回(まとめ)

2013年03月18日 13時17分15秒 | 大震災の中で

國分功一郎センセの「スピノザ入門」いよいよ最終回となりました。

メディア日記に最終回の講義メモをアップしました(日時指定したけれど、もう公開されてるかな?)

國分功一郎「スピノザ入門」第12回講義メモ

メディア日記「龍の尾亭」にアップしました。

http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980421
http://blog.foxydog.pepper.jp/


最終回はスピノザの『エチカ』第5部。
スピノザが最も重視した

第3種認識「直観知」

についてです。

併せて國分さんの読みの現在(課題も含めて)についても聞かせてもらいました。

ドゥルーズがいうように、スピノザの息遣いのぐっと身近に感じられる第5部ですが、最終回の講義は、國分功一郎というスピノザの読み手自身の息遣いもぐっと身近に感じられる「速度」に満ちた講義になりました。

最後に、有限な人間性の側からみると、スピノザはある意味マッチョとも誤解されかねない側面を含んでいる、この哲学はだから、強制されたりするものではない、という指摘に、「教育的」と私が個人的に呼んでいる國分功一郎氏の「スタイル」がしっかり刻印されていました。

有限性を抱えた人間と「永遠の相の下に」考えるというスピノザのスタンスは、確かに埋め難いギャップを抱えています。

確かに「幾何学的様式」で書かれた第2種認識(理性知)がスピノザの基本スタンスだと考えれば、第5部の結論は神秘主義とも東洋的悟り、とも読めてしまいます。

しかし、私は大震災と原発以後、むしろその人間の「人為」の有限性を痛切に感じたからこそ、スピノザの哲学が要請されなければならない、とずっと考えています。

いっけん神秘主義や「悟り」、あるいは逆に「マッチョ」とも見えかねないスピノザの哲学はしかし、彼の哲学の「文体」を國分功一郎氏と共に一年間味わったあとでは、そういう見方ではないスピノザ像がそこにあり得ることを「直観」しました。

大震災以後、なぜ自分がスピノザの哲学を必要としているのかも。

この世界以外に世界がないということ(外部参照不可能性)を認識しつつ、なおこの世界の悲惨さと向き合いながら生きることを選択するとき、むしろ有限性とのギャップにもかかわらず永遠の相の下に「認識」の価値を、それだけを称揚するスピノザの哲学は、「知性」を唯一の私たちに平等に与えられた力能として十全に発揮することの「善さ」を示してくれている、と感じられるのです。

もちろん、それは「ならぬものはならぬものです」という会津的定言命法でもなく、ある種の現状追認的ロマン主義とも違います。
マッチョなゴリ押し合理主義でもなく、ましてや神秘主義とは無縁の営為でしょう。

私が繰り返し語ってきた
「人為の裂け目」から顔を覗かせる「自然」


は認識の閾値を上げて行った結果到達するスピノザの「神=この世=自然」と響き合うものだと「直観」しました。
これからこの「直観」を、誰に強制することもなく、「懸命に語る」こと、が私にとっての
「棲家のことわり」=エチカになっていくのだ、とも。

よろしかったらご覧ください。



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