龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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大阪市で、透析患者用避難所が利用のないまま閉鎖。

2011年04月28日 20時34分41秒 | 大震災の中で
大阪市で、透析患者用避難所が、総工費1億円以上かけて準備されたけれど、実際には「遠い」ということで1件も利用されないまま閉鎖される、というニュースを昨日見ました。

なんだか切なくなりました。
ムダっちゃムダですよね。
でも
>平松市長は27日の定例会見で、「緊急時、命に関わるという状況でのバックアップを
>させていただいた。結果的にそうだからといって、何もかも無駄にしたのか。
>バックアップってそういうものじゃないですか?」と語りました。

納税者に対する弁明の言葉として十分かどうかは分かりませんが、被災地に住む者としては、その気持ちと準備を心から感謝すると共に、1億円以上のことはとうてい死ぬまでできないけれど、そういう風に「バックアップ」してもらったいっけん「ムダ」に見えるようなことでも、どこかで誰かにバトンタッチしていきますから、とエールを送りたい気持ちになりました。

それで思い出したことが一つ。

福島市から、外国に避難しなくちゃならない人を送り出そうとして新潟周りで大阪まで行き、ようやく1週間かけてオーストラリアに避難する人を送り出した友人がいます。

その友人が、一仕事終えて関西に逗留していたら、避難してきたのか、と堺市の人に問い合わせを受け、
「いや避難民というわけじゃないんだけど」
といいつつ話を聞いてみたところ、堺市では避難民のための住宅を2000戸用意する、というのです。
友人は、その話を聞き、行きがかり上福島市と連絡を取って、避難のコーディネーターみたいなことをすることになったのです。

ところが。

福島市のお役所の担当者は、堺市の避難住宅を、福島市に避難してきた人に斡旋することはできません、という回答を返してきたというのです。

つまり、福島市に避難してきたのに、さらに自分の市から別のところに避難しろといったら、福島市では安全ではないからということになってしまうから、ということなのかな?

理由はともあれ、とにかく堺市の避難住宅への避難民の斡旋は、福島市役所ではできないっつー話になったそうです。
でもさ、福島市は体育館に数百人とかいう避難所なわけですよ。片方は2000戸用意ですよ。
堺市では、迎えにも行く、足も用意するっていうのです。
劣悪な環境に黙って押しとどめるお役所って、なんなんでしょうね。

結局そちらの話は南相馬市長さんの方に個人的な連絡網でつなげたそうですが。


大阪市の透析患者さん用の避難所の利用がなかったっていうのは、もしかすると、友人の話の中の福島市のお役人のように、あるいは私が今日おつきあいさせられた福島県の誰か分からないけれどお役人のように、コーディネートして最適なサービスを避難しておられるフラジャイルな状態の人々に提供しようという気持ちがない輩が、隙間を埋めようとしなかったこととに、原因の幾分かは求められるのではないかな、なんて想像しました。

この案件についてはもちろん空想の域をでません。
でも、需要が全くなかったというよりは、適切な情報もサービスも、末端まで届いていないってことは、非常に高い蓋然性を持って想像できます。

私がここで繰り返し書いている「公共的なるもの」に対する瞳の健康さっていうのは、共同体なり社会制度の「人為」が裂け目を抱えたとき、弱い者からその裂け目・隙間に飲み込まれてしまうから、「公共的なるもの」っていうのは、その裂け目に瞳を凝らさないとだめなんだってことです。

共同体的なるものや、社会的なるものは、「人為」のリミットの中で「自然」と出会った時、決定的に無力だと感じるのです。

「公共的なるもの」に対する視線は、そこでこそ立ち上げられなければならない、と思う。

フラジャイルなもの、その場所に立って支えを失い声を失い「あえか」な状態になってなお「生きる」ことを受動的に選ばされたもの。

「公共的なるもの」はそういう地平を否応なく開いているし、公共サービスは、その「公共性」に対して開かれていなければならない。

公務員の一人として、こういうときに守備範囲を墨守している外野にはなりたくないものです。

むろん、法律をないがしろにしていい気分で権力を私物化した公務員が、スーパーマンよろしく人助けをするようなナルシシズムを推奨しているわけじゃありません。

良質な従僕は、木で鼻を括るような「執事の言」に満足するのではなく、規範をないがしろにするのではなく、しかも「主」の意図を汲みつつ、可能な限りのサービスを探し求めるものでしょう。

大阪市の「バックアップ」の信号に対して、フクシマの「従僕」たちは十分に応えるアンテナを持っていたのか?
本当に無用の長物だったのか?

被災を受けている側のお役所は正直それもまた「戦場」だろうと思います。
いっぱいいっぱいで、「最適解」なんて出せるはずもない。
一つ一つの対応には、悪意があるというより、混乱とむしろそこにも二次三次の被災の「結果」が隠されているのかもしれない、とさえ想像することも必要でしょう。

そういうときだからこそ、隙間を埋める仕事ができればいいんでしょうね。
応えてもらえない不幸を嘆いたり不実を憤ったりすることもあるだろうけれど、何ができるか、どんなサービスが重要なのか、そしてそれをどうタイムリーに届けられるか。

ボランティアのベテランとかサービスの熟練者は、きっとそのあたりのバランスを見ながら仕事を進めていく感覚がプロなんでしょうねえ。

んー、ちと、仕事でいろいろこれから頑張らねば。
実は災害が一段落してからがサービス業の勝負、かもしれませんね。

とにかく大阪市や堺市の「バックアップ」の心意気は受け止めたいです。
震災を身近に肌身に感じるからこそ、反応が早くて適切だったんじゃないかな。
むしろ、震災素人の側が、そのサービスを使いこなせなかったのかもしれません。
その上で空振りはお互い残念だから、どうサービスを提供できるか、もは考えていってもらえたら、と思います。
大阪市も頑張れ、マイペース!







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