余震が続くと心が折れる。
今週始めから、また余震が頻繁になった。
一ヶ月過ぎてからの大規模な余震(いわき市は震度6弱)は、心にかなり負担になっている。
そして追い討ちをかけるような再度の停電と断水。
原発も安定した状態になるまでには数ヶ月から数年(首相の言によれば10年~20年 )かかるとか。
普段私たちは、世界を二項対立でとらえ、その一方を一元化してスタンダードとし、その他を残余として捉える思考方法からどうしても抜け出せずにいるのだが、日々「この場所」にいつづけると、
人間VS自然
揺れている/止まっている
安全/危険
サバイバル状態/インフラの安定的提供
という二項対立がここでは「無効」なのだ、ということが身にしみて分かってくる。
地震が起こったり起こらなかったりしているのではない。
揺れ続けている地盤の上に、私たちは常時乗っていて、体に感じない状態が今まで多少長く続いていただけのことだったのだ。
少し前からこだわっている
「人為=自然」
という概念は、そのことを言おうとしているのだった。
それはふたつを対立させ、分けて考えることによって世界を理解し説明しようとするのではなく、断片化してそこにある我々の間に、多層な「人為=自然」が働きとして出現する瞬間がある、ということが分かること、といってもいい。
人為以前にある自然でもなく、人事の果てに隔絶した超越として示される人為以後の自然ということでもなく、波乗りとかスキーとか、サッカーとか、下手くそだとバッラバラな断片化した動きなのに、それがあたかも調和的に存在するかのような一瞬が現出する、プラスとしてよく示されるのはそういう
「人為=自然」だ。
繰り返しになるが、人為を超克することでもなく、自然をコントロール仕切って一元的に管理することとも無縁な営み。
そういう地平が、私たちの日常にも奇跡のように存在したことを思い出させてくれた、ということです。
私はこのことについて、なかなか言葉を見いだせずにいる。
しかし、激しい余震と長引きかつ繰り返される被災、そして原発事故の不安と不透明のために、私たちは今なお繰り返し「この場所」に引き戻され続けている。
だから、日常に戻って忘却装置を働かせることは、もうできないのだと肌身にしみて知ってしまった。
人間の卑小さとか、逆に人為の偉大さとか、何かを見直せばいい、というような、そういう物語に身をゆだねることも難しくなってしまった。
ひとは古来、何度も何度も「この場所」に立って瞳を凝らし、我々自身のなすべき営みを続けてきたのだ。
もう少しで見えそうな気もするし、いつまでたってもそれは見えるものではないのかもしれない。
ただ、誰も愛でるもののいない中で咲くだろう桜たちを想像する瞳と、完膚なきまでにバラバラになった津波の跡の瓦礫たちとを見つめる瞳との中にたち現れるものを、とりあえず
「人為≠自然」&「人為=自然」
といった形で示してみることしかできない。
放射線も、津波も、およそ人為を寄せ付けない自然の圧倒的な力能なのだが、私たちはそれを、おそらく人為という一元的理解の潰滅において知る。
だから、いま「この場所」に立って見つめる自然は、逆説的なようだがあくまで人為において現れているのだ。
壊滅した街をみる衝撃や、原発事故の影響の大きさに圧倒されることは、自然をそのまま感応しているわけではなく、人為に原因を帰するような分析をした結果の残余の大きさに呆れ恐れているのでもないだろう。
それはまたおそらく、表現系の問題、表象の問題ではない。
考えるべきことの中心から少し離れたところを軸として偏心しながらぐるぐるしているばかりなのだが、このことは、もう少しグルグルしながら考えてみます。
今週始めから、また余震が頻繁になった。
一ヶ月過ぎてからの大規模な余震(いわき市は震度6弱)は、心にかなり負担になっている。
そして追い討ちをかけるような再度の停電と断水。
原発も安定した状態になるまでには数ヶ月から数年(首相の言によれば10年~20年 )かかるとか。
普段私たちは、世界を二項対立でとらえ、その一方を一元化してスタンダードとし、その他を残余として捉える思考方法からどうしても抜け出せずにいるのだが、日々「この場所」にいつづけると、
人間VS自然
揺れている/止まっている
安全/危険
サバイバル状態/インフラの安定的提供
という二項対立がここでは「無効」なのだ、ということが身にしみて分かってくる。
地震が起こったり起こらなかったりしているのではない。
揺れ続けている地盤の上に、私たちは常時乗っていて、体に感じない状態が今まで多少長く続いていただけのことだったのだ。
少し前からこだわっている
「人為=自然」
という概念は、そのことを言おうとしているのだった。
それはふたつを対立させ、分けて考えることによって世界を理解し説明しようとするのではなく、断片化してそこにある我々の間に、多層な「人為=自然」が働きとして出現する瞬間がある、ということが分かること、といってもいい。
人為以前にある自然でもなく、人事の果てに隔絶した超越として示される人為以後の自然ということでもなく、波乗りとかスキーとか、サッカーとか、下手くそだとバッラバラな断片化した動きなのに、それがあたかも調和的に存在するかのような一瞬が現出する、プラスとしてよく示されるのはそういう
「人為=自然」だ。
繰り返しになるが、人為を超克することでもなく、自然をコントロール仕切って一元的に管理することとも無縁な営み。
そういう地平が、私たちの日常にも奇跡のように存在したことを思い出させてくれた、ということです。
私はこのことについて、なかなか言葉を見いだせずにいる。
しかし、激しい余震と長引きかつ繰り返される被災、そして原発事故の不安と不透明のために、私たちは今なお繰り返し「この場所」に引き戻され続けている。
だから、日常に戻って忘却装置を働かせることは、もうできないのだと肌身にしみて知ってしまった。
人間の卑小さとか、逆に人為の偉大さとか、何かを見直せばいい、というような、そういう物語に身をゆだねることも難しくなってしまった。
ひとは古来、何度も何度も「この場所」に立って瞳を凝らし、我々自身のなすべき営みを続けてきたのだ。
もう少しで見えそうな気もするし、いつまでたってもそれは見えるものではないのかもしれない。
ただ、誰も愛でるもののいない中で咲くだろう桜たちを想像する瞳と、完膚なきまでにバラバラになった津波の跡の瓦礫たちとを見つめる瞳との中にたち現れるものを、とりあえず
「人為≠自然」&「人為=自然」
といった形で示してみることしかできない。
放射線も、津波も、およそ人為を寄せ付けない自然の圧倒的な力能なのだが、私たちはそれを、おそらく人為という一元的理解の潰滅において知る。
だから、いま「この場所」に立って見つめる自然は、逆説的なようだがあくまで人為において現れているのだ。
壊滅した街をみる衝撃や、原発事故の影響の大きさに圧倒されることは、自然をそのまま感応しているわけではなく、人為に原因を帰するような分析をした結果の残余の大きさに呆れ恐れているのでもないだろう。
それはまたおそらく、表現系の問題、表象の問題ではない。
考えるべきことの中心から少し離れたところを軸として偏心しながらぐるぐるしているばかりなのだが、このことは、もう少しグルグルしながら考えてみます。