大震災は私達の生活の基盤それ自体の揺らぎをもたらし、不安と緊張、興奮と怖れの中でこの二ヶ月を過ごしてきたような気がする。
そして私達はまだ、大震災のただ中にいる。
けれど、一方では生活も始めなければならない。
「被災」だけでずっとそれが引き延ばされるのも辛い。が、将来の着地点がはっきりとは見えてこないにもかかわらず、日常を立ち上げていくのもまた、辛い。
いったん仕事が始まってみれば、止まっていた時間を一挙に動かしていかねばならない「多忙さ」を突然抱え込むことになる。
内面では、緊張しつづけることに耐えられず、どこかで綻びが始まっているのではないか、と少し怖い。
日常的無意識の基盤に支えられたかつての「安定」はすでにない。
人為の裂け目についての感度は確かに上がったと思うけれど、それは決して「強さ」ばかりを意味するわけではないだろう。
自分はいったいどこまで大丈夫なのか?
どこかで薄氷を踏むような思いもあるのだ。
復興などと偉そうな話をしているのではない。
「ふつう」が回復するまで、踏ん張りながらいけるところまで行くしかないのは分かっている。
しかし、最後までもつのだろうか、という不安がよぎる。
「最後」とはだが、いつのことか。
誰に尋ねることもできないまま、日常生活はもう見切り発車してしまった。
会議でも、打ち合わせでも、「非日常」の中に「日常」を再現するための「検討」「調整」「交渉」「合意」が続く。
もはや何が日常で何が非日常なのかもわからなくなりそうである。
詠んだことのない歌にもならないような歌を、半日で30首ちかく吐息のように書き出したのも、そのままでは心の中のバランスが取れなくなっているから、だろうか。
被災とは、生きること全体いたるところに広がり、覆い尽くしているものなのだ、とようやく気づきはじめている。