龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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震災以後を生きる(6)

2011年06月11日 01時26分58秒 | 大震災の中で
被災地では全てのモノが引き裂かれている。
何度も繰り返すが、それは大まかな
「人為と自然」
というふたつの区分、つまり二元論的な対立の二極に分裂しているのではない。

そういう大雑把なはなしをしていくと、下手をすれば人為=西洋文明vs自然=日本の精神文化みたいなスットコドッコイの見解を招来することになっちまいかねない 。

原発賛成派と原発反対派
でもいいけど、たのむからそういう単純明快な話は、やめてほしい。

例えばね、私たちが被災地で不便な生活を強いられているってことは、その場所において具体的に幾重にも裂け目が入った
モノ・ヒト・コト・トキ
を多重に生きさせられていることなのです。


例1「トキ」
先に進めばいいじゃないか、くよくよ震災以前を振り返っても仕方がない
vs
なぜ自分だけがここにいるのだろうあのときに失われたモノヒトコトトキをどうあつかえばいいのか

私達はこの二つの「時間」を同時に生きなければならない。
どちらかを選ぶわけにはいかない。

死の中で生を、生の中で死を思うことでしかモノを考えられない。

引き裂かれた生を生きる、というほど大げさなものではないのかもしれないが、単に参照すべき過去の出来事とするにはことが大きすぎ、同時に微細なところまで入り込んでいる。

それは異なった立場の対立関係というより、そのトキのズレをさまざまなレベルで、同時に、身体の「中/外」に抱えつつ生きる、と言った方が実状に近いのではないか。



例2「モノ」
福島県の原乳出荷制限が解かれた。
他産地のものとブレンドされたら分からない、と危惧するTweetがあった。
福島産のものはそんなに危険か?
といいたくなる気持ちと、自分自身も原発事故に伴う放射能汚染を心配している気持ちとに引き裂かれる。
そして、ここが重要なのだが、引き裂かれるというのは、二つの立場があるというのではない。福島の産品に対する思いは、福島の名を生きるものとしては、分裂したり二つの立場になったりはしない。

福島の「名」をもって生きるものそれ自体が
裂け目(=聖痕)
であり、それを生きることにならざるをえないのだ。

原発推進か、反対かなんて話じゃないのだ。それをいえばむろん反対さ。それはそうだ。福島はメチャクチャになっていくのだから、これから更に。

でもね、福島産のモノは、それをいえばいうほど徹底的に排除されるでしょう?
それは私たちが生きること自体が否定されることでもあるのです。

復興というのは私にとって、この
「人為」=&≠「自然」
という二つにまたがった傷を、ブロッコリーも、校庭の砂も、人の暮らしも、全てがその亀裂を刻印されて生きているということを、人々が受け止め直せるようになる、と言うことを意味している。

そんな日が果たして来るのだろうか。忘却装置が作動するのを待つほうが手っ取り早いのではないか?
そういう思いさえ胸をよぎる。






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