龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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村上春樹の新刊『騎士団長殺し』上下を読了。

2017年03月04日 18時12分23秒 | メディア日記
最近は本の中身だけでなく読んだことすらすぐ忘れてしまう。
だから、と言うわけでもないが感想を少し書いておく。
本の題名すらあまりよく覚えていないのだが、2017年の2月に発売された村上春樹の新刊小説は、いろいろあるけど、面白かった。
お話はそんなに劇的な展開を見せるわけではない。

肖像画を描くことを生業にしている中年の画家が妻から別れを切り出され、北海道・東北をセンチメンタルジャーニーした後、小田原にある友人の父親=著名な老齢の画家(本人は施設に入っていて、今は空き家)のアトリエを借りて過ごすことになる、そこでのいろいろな一年足らずの出来事を一人称で語る、という話だ。

系列的には幽霊の話に『海辺のカフカ』をふりかけたような感じ、といったらざっくりし過ぎだろうね。

まあ、中身は読んでもらえばいい。

私は、久しぶりにおもしろい村上春樹を読んだ気がした。



ある意味では、こなれていない中途半端な観念を持ち出した小説、読めないこともない。
私の読みが新しいものを受け止めきれず、昔の体験をそこに重ねてしまっているだけかもしれないが、そのいささか唐突な「観念」と向き合うありようは、石川淳がやりかけて終わってしまったことを、村上春樹はやろうとしたのかもしれない、と、ふと思った。

確かに、物語のオチを求めるとそのあっけなさにあきれてしまいそうだし、加えて聖杯探求と父殺しに胎内めぐり、といった物語の祖型の残骸みたいな話につきあわされている、と思ってしまうと、読むのが辛くなるかもしれない。

しかし、特に下巻の半ば過ぎ以降、二人の登場人物が相次いで失踪する件(くだり)の表現=「語り」は、そこだけが別の中編でもいいのかな、とすら思われるような「力」を感じたのも事実。
語りを共有する、比喩を受け止める、といった「読書」という仕事の「場」にテキストが足を踏みだしてくる感覚、とでもいえばいいだろうか。

二人の脱出に関わる語り=騙りは、実はまったく逆であってもよい。語りである以上反転可能だ。何が本当かもはや分からない。というか、単なる幻想譚から離陸して、なんだか分からない話のテイストになっていく、その語りの手応えだけで物語が進行していくのだ。もはやそれは物語とは呼べない。

石川淳はある時期から、ほとんど手触りの希薄な、ちょっと間違えると「寓意的な」とすら思われかねない「観念的」の小説を書き出す。それについてあんまり納得のいく説明を誰からも聴いたことがなかった。
今回の村上春樹を読んで、そんなことを思い出したのだ。その初期の作品名はもちろん『処女懐胎』。

村上春樹のこの作品は、拾いきれないような伏線でも何でもないような投げっぱなしとも見えるものが点在しているから、ちょっと困ってしまうということはある。東北在住のスバルオーナーとしては特に(笑)。

でも、あんまり動きがないのはいいですね。

最近の彼の作品の中では好き、かなあ。

『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』までの初期先作品のようには、読み返さないだろうけれど。

以上、単なるメモとして。

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