龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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身内のお葬式が続く。

2011年02月07日 00時44分38秒 | インポート
人はいずれ死を迎え、ここから別のところに還っていく。

それが「あの世」なのか「自然」なのか「天国」なのか「西方浄土」なのかは分からないけれど、とにかくこの世界の地平を越えた向こう側、こちらからは手が届かない場所に誰もがいつかは旅立っていく。

それにしても、身近にそういうことが立て続けに起こると、こちらの精神の一部がいつのまにか「向こう側」に近いところに引き寄せられ、いつのまにかこちら側の魂が不安定になっていくようだ。

ここ最近、毎月のように親族が亡くなっている。こういう経験ははじめてのことだ。数が多い、ということが問題なのではないが、やはり連続するとダメージは深い。リタイアして20年以上過ぎた、80歳以上の年配の人が逝くのと、まだ現役の者が無くなるのとでもまた、ひと味違うだろう。

この週末は74歳と60歳の親戚だった。
白血病と動脈瘤破裂。
二人とも急なお迎えである。

90歳を過ぎた父親が、
「若い者が追い越していくなあ。順番が違うだろうに」
とショックを受けた様子で、
「今度こそは自分の番だよ」
と冗談とも本気ともつかぬことを言って笑う。

死それ自体を怖れる気持ちは、子どもの頃とか、青春期、あるいは子どもが幼かったころから比べると間違いなく薄れてきていると思う。
だからといって「死」が怖くないはずもないが、むやみに怖れて絶望するというようでもない。

日常にそういう「死」の気分が近しく漂ってくるのは必ずしも健康な状態とも言えないのかもしれないが。

年寄りを送り出してしまうまでは生きていなければならない、とは思うが、その後いつまでも長生きしたい、とは思わない。苦しまずに死ねれば、と漠然と思うばかりだ。
しかし、そんなことは宝くじが当たれば、というのと同じ根拠のない話で、実際にそうなってみなければ分からない。

ただ、身近な人の死を連続して体験すると、そういうことが自分の身にも起こるのだ、と想像力を働かせずにはいられなくなる。

もうすぐ80になる母は
「そうやって身近な人がどんどんなくなってお葬式を重ねていくうちに、みんな行く道だ、と思って次第に怖くなくなるものなのかね」
と葬式帰りに呟いた。

身近な人に突然死なれてしまうと、残された者の心にその人の元気な印象がずっと残り、いつかどこかでひょっこり還ってきそうな気がしてしまう。

死者と共に生きる、なんて「文学的表現」に過ぎない、と今までは思っていたけれど、そういう想像力は、極めてリアルな「現実」なのかもしれない、と思い始めている。

それこそが、「死」の側に精神の幾分かを引き寄せられている証拠、なのかもしれないが。







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