龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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福島は黄昏れるだけか。

2012年12月01日 08時29分43秒 | インポート
技術の問題、経済的エネルギーの問題、復興事業という政治の問題、という種類の問題設定は、今もなお傾きかけ、冷却しつづけなければならない事故現場を抱えたこの場所で思考を続けるためには決定的に不足です。

おそらくそういったいままでの考え方、生き方、基準をそのままあてはめるだけなら、福島は黄昏れていきます。

そして、もしそれだけでよいなら、老人の「人間的」覚悟と処世術、若者の「動物性」でことは足りる。

でも。

寝言を言って済ませるわけにはいかない。

では「私」はどうしたいか。

そのとき、

「どうすればうまくいくか」

はやめておく。

それじゃあ原発でうまいことをしようとした人と同じ発想の「人間的」スタイルだから。

けれど
「どうせこの中で生きていくんだ」

という諦めにも頼るまい。

確かに、絶望的な状況を生きる処世術としてはある時そういう諦念だって大切かも知れない。

けれど、それでは与えられた環境の中だけで、擬似的に「動物」を生きることになってしまう。

それじゃ人間として「生きる」楽しみの切り下げだ。

「オレはどうしたい?」

心の中に聞いてみる。
答えがなければ別の人間に聞いてみる。

対話から始まる広がりを、共同体という私的な輪の中に閉じ込めず、公共的なるモノにアクセス出来るような道に「乗せてあげること」を始めたいのだ。

それはきっと、「人間的」という意味、「動物的」という意味を読み替える作業でもある。

またもしかするとそれは「社会」という次元を「自然」=「世界」という次元で読み直すことなのかも知れない。

それは決して技術や経済やら政治、社会の「外部」にアクセスして答えを探す、ってことではない。

人の中へ。
人の中の「自然」へ。
私たちがこの場所で生きるための可能性条件という「地面」の問い直しへ。

考え続けているのは、おそらくそういうことだ。



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