中断していた藤高和輝の『ジュディス・バトラー』、再開。
どーでもいいことだが、順番が逆だなあ、と思った。
子どもの頃、脱性的というか、性的な振る舞いが理解不能だった私は、むしろナルシシズムの代替(異性の代替としてではない)として同性が好きだったという面もあるかもしれないという思いはあった。
それがもう一度反転して、男性性を疑問に付す、もしくは嫌う女性を二度反転したナルシシズムとして愛するようになったのかもしれない。
(まあそんなどうでもいい自己分析はおくとして)
ジュディス・バトラーとは受容の順番が逆だなあ、とかんじた。
そこが興味深い。
スピノザ→ポール・ド・マン→へーゲル
という否定的であれ肯定的であれ受容の系譜は、自分が歩んできた「脱性的(脱ジェンダー的というべき?)」(イメージですが)であることを基本とした道行きとは逆だった。
マルクス→ポスト構造主義→精神分析→スピノザ
だから。
時代の流行りに流されただけ、ともいえるかな(笑)
しかし、読者の私とは本当にかなり異なった地平を歩んでいるバトラーなのに、藤高バトラーの記述はメッチャメチャ腑に落ちる。胸キュンになる。
これを読むとスピノザの持つ非社会性の手触りのことが、よくわかる。
承認をめぐるへーゲル受容の経緯もぐっと迫ってくる。
スピノザの自殺理解の圧倒的な「浅さ」の説明は、赤ベコ状態。クビが折れるほど頷ける(笑)
スピノザはむしろそーゆーことは神様に丸めたんだよね。
だから『国家論』なんかでも、「社会」という外的なものを操作的にしか記述していない。
民主制についても書いてるのに『君主論』ばかりが有名になったマキャベリにも他人のそら似的にちょっと似ているかもね(スピノザは、民主制について書こうとする前に死んだんだけど、それも必然か)。
オレにとってはスピノザは収斂する虚の焦点みたいなところがあるかもしれない、なんてこともわかってくる。
エチカでいえば多分バトラーが引きつけられた第三章の感情論とかの生き方のところよりも、神の存在証明みたいな荒唐無稽な荒技の第一章とか、光に比される第三の理性の速度の第五章に惹かれるみたいなところもおもしろい。
最高に一点だけ。
注意すべきことがあるとすればただ一点、この藤高バトラーは余りに分かり易すぎる。
この本をよんでいても、ジュディス・バトラーが一筋縄ではいかない面を持っていることは分かる。
もちろんそのバトラーをこれだけクリアに教えてもらえるのは本当に希有のことだ。有り難い。だが。
この藤高バトラーで「分かった」ことは、このクリアなにに切断面による入門でしかないということもまた確かだろう。
私はおそらくその先に足を踏み入れることはないと思う。
ただ、改めてスピノザを読みたくなった。そこかーい、と言われそうだが(笑)
まあしかしとにかく、午後は熟読玩味!