龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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公共性と共同性の差

2011年04月26日 22時20分46秒 | 大震災の中で
学校は、いちおう地方公共団体の管轄下にあるから、お役所の出先現場だ。
だから全ては文部科学省が決めた枠組みの中で動く。
放射線量の安全基準もだから、お上から降ってくる。
それはまあいい。

でも、学校の全てがそのシステムで動くわけじゃない。

原発事故も、文部科学省の基準に従って爆発してくれるわけじゃあない。

このとき、「公共的」なるものは、どこに発現しているのか、という問いを問いたかっただけだ。

学校は役所の手下だから、全てはその通りに動くよりほかにない「社会的制度」に過ぎない。

しかし、保護者は、そして生徒は違う。

人為の共同性を圧倒的な力でまたぎ越して降り注ぐ、原発事故による飛散放射能もまた、違う。

学校は現在、「社会的制度」の産物で、「公共性」とはむしろ遠いところに置かれている側面がある。
「公共性」はむしろ災害の側にあって、学校は「社会的制度」に支えられた「共同性」のお約束の上でしか機能していないように思われるのだ。

だからもどかしい。

今、圧倒的に「公共的なるもの」の源泉は、大震災と原発事故の側にある。

そして、保護者も生徒もその「人為=&≠自然」という「公共的なるもの」と、じかに向き合わされている。

いくら政府の指示を待っていても、それはほぼ遅れてしか立ち上がらない。
だからといって、無視できるわけではない。
私達の目の前の事件は、単なる「社会的事件」ではないけれど、単なる「天然自然の驚異」でもないからだ。

「人為=&≠自然」

とか、

「公共的なるもの」の源泉

とかいったこなれない言葉で敢えて、大震災や原発事故を敢えてすくい取ろうとするのは、人為と自然の裂け目に、私達は今もっと茫然として瞳を凝らすべきだと、真剣に考えるからだ。

答えは、もちろんそこにはない。
問いかけることばも、私達は持たない。
ただ、茫然として見つめる。無視はとうていできない。命がけの出来事なのだから。

そういうとてつもない事件の現場にいるのだということを、啓蒙する義務があるように思うのだ。
誰に頼まれたわけでもないのに、ね。

今日、東浩紀が「原発20キロ圏で考える」という記事を朝日新聞(2011.4.26火曜日 12版 文化欄)に寄稿していた。
記事の末尾ちかくの、二つの言葉が印象に残ったので引用しておく。

(引用その1)
「町を捨てるとは、単なる人口の移動ではない。それら無形の財産を無残に破壊し放棄することを意味している。(中略)、取材を経て、今後原発のコストを巡る議論には以上のような「喪失」を算入する方法を考え出してほしいと、それだけは切に願うようになった。喪失の大きさを忘却したところに、復興も希望もありえない。」

(引用その2)
彼(福島県在住の詩人:FOXYDOG注)がふと漏らした「ぼくたちはどこかでこの事態を予感していたと思う」との言葉が、いまも心にのしかかっている。

二つとも同感。しかし、引用1についていえば、それはどうしてもソロバン勘定には乗らないものでしょう。
「町一つが消える」
っていうのは、ほぼ「小説的想像力」=「妄想」に近い。

この場合、津波自体が町を飲み込んだわけではなく、原発の事故自体が町を焼き尽くしたわけではない。

「人為=&≠自然」

「町一つが消える=町一つを消した」
のだ。

人間の営みが自然の摂理と出会い、引き裂かれて空白の闇、時空間の凍結をもたらしてしまったのである。

引用2については、

むしろ私にとっては、

「いったい福島県に住む者の誰が、この事故を『考えもしなかった』と言えるだろうか」

という反語の方が身に寄り添う表現なのだが、指し示そうとする→については深く同意する。


私達は原発がそこに稼働している限り、今日のように「町一つが消える」という事態を、全く想像しないでいられるほど愚かではなかったと思うし、他方、その想像だけを頼りに原発を否定できるほどナイーブでもなかった。

遠く離れた人なら、本当に「想定外」とか「知らなかった」とかということも可能かもしれない。
原発賛成とか反対とかも議論できよう。

でも、福島県の住民にとって、今日の事態は、そんなに予想だにできなかった天から降ってきたようなあり得ない事故、ではないんじゃないかな。

そういう意味では、詩人の言葉はすこし飾りが過ぎるだろう。

「予感」、じゃなくて「想像の範囲内」だと思うよ。

想像の範囲内なのに、止めることができなかった「人為=&≠自然」の姿を、だからせめて、茫然としてでも、手遅れになりつつも、瞳を凝らそう、と思うのだ。


もし、詩人が本気で「予感」と言ったとしたら、彼は瞳を逸らしていた、というだけのことだろう。
詩人の言葉は、そういう形で力を発揮してはならないと思うのだが、余計なお世話だろうか。

単なる訪問者に過ぎない東浩紀氏が引用してみたくなる気持ちは分からないでもないけれど。

「分かっていたはずなのに
後になってからしか予感できないことがある」

っていうのなら、賛成に一票。








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