ガルシア・マルケスの長編小説『百年の孤独』をようやく読み切った。
中身を忘れないうちに感想メモを書いておく。
hontoのサイトにはこうある。
https://honto.jp/booktree/detail_00000795.html
[「一般的なファンタジー小説とは一線を画す「マジックリアリズム」をご存じですか?ラテンアメリカの文学で隆盛をきわめたその技法は、ただ怪奇を描くだけでなく、それがその世界での常識として表現されることで、よりいっそう数奇な味わいを感じることができます。さあ、新しい不思議の扉を叩いて、異常な日常をご堪能ください。」
また、『百年の孤独』の紹介文には
「「蜃気楼の村」であるマコンドが、勃興し、隆盛をきわめ、やがて廃墟となるまでの百年間を描いた小説です。開拓者たちの絶望と希望、生と死、そして孤独。明らかに非現実の世界であるのに、圧倒的な現実感を伴う物語は、マジックリアリズムを冠するにふさわしい説得力に充ちています。」https://honto.jp/booktree/detail_00000795.html
とる。
いずれもhontoのサイト。
私も読む前は、その「マジックリアリズム」を体現した、たいそうイメージ豊かな、そしてそれゆえにリーダビリティに難ありの、本格的南米小説という印象を抱いていた。
今回、コロナ禍による自粛GWを奇貨としてプライベートな読書会の課題図書に友人が挙げたこの本を、だからたまたま読んだわけだが……
とにかくめっちゃクチャ面白かった。マジックリアリズムとか、読んだことがないひとの戯れ言か、と思った。
何が「マジック」なものか。
ある意味、これこそ小説ではないか、という思いがわき上がってくる。
確かに、不思議なことはいくつか起こる。
気がついたことは二つあって、一つは不眠症の解決方法であり、もう一つは小町娘の行く末だ。
だが、それは別に「マジック」とかいうほどの話でもない。まさか幽霊が出てくるから「マジック」とか言っているわけではあるまい。そんな物語なら星の数ほどある。
むしろ「誰に幽霊が見えないのか」というのがポイントかもしれないが、それは今は措く。
少佐の一代記であるかのように始まる話が、それで終わらず、むしろ次第に実は軸となる登場人物はウルスラ(イグアラン)<町を開拓した第一世代、ブエンディア家の「グレイトマザー」>であり、ピラル(ネルネラ)<作品の最初から最後まで生き続ける占い師であり売春宿の主>であると気づかされていく。しかしもちろん、男の物語から女の物語へ、とズレていくだけの話でもない。
「マジックリアリズム」という言葉の裏には、北側に「マジックでないリアリズム」があるという前提にたった視線があるだろう。その視線が「読み手=私」の中で解体しはじめてから、作品が本当に楽しくなっていったのだ。
これは個人的な体験なのだろうと思うけれど、そのまた陰には、北(アメリカ)が中・南(アメリカ)に当時強いていた政治的な圧力を考えれば、のんきに「マジック」とか言っている場合じゃないだろう。個人的読書体験で終わらせてはなるまい。
いったいリアルはどちらの側にあるのか、と考えてしまう。
男は女を求め、女は男を求め(あるいは拒み)る当たり前の多様な豊穣さが、そこにはあるではないか。あるときには近親相姦のタブーを拒み、あるときにはその線を越えようとする。あるときには革命に燃え、暴力を行使しあるいは怯え、あるときには内に籠もって夢想する男達に対し、様々なものに縛られつつ支えられ、それから解き放たれようとし、それらさまざまな営みを成就させていこうとする執着を生きる女たちの姿は、本当にここに「生ー性」がある、との手応えを与えてくれるのではないか。
また、『百年の孤独』という題名にも惹かれる。
ネットで検索すると、そのほとんどが焼酎の名前としてヒットするのだが(笑)、そのネーミングはこの小説を多分に意識したものではないかと推測(根拠はないが)してみたくなる。
「百年」は5世代にわたる「ブエンディア家」とマコンドの町の栄枯盛衰を示す言葉だとみてよいだろう。
では「孤独」はどうか。
作品中の「グレイトマザー」ウルスラは、作品の中で、一族の者が抱えるさびしさというか憂鬱のようなものに繰り返し言及している。その一方の極に、この作品の登場人物中おそらくたった一人だけ(読み過ぎかな?)幽霊を見ることがない大佐が位置しているとはいえるだろう。
たとえば三人の次世代についてウルスラが考える次の部分を見てみるとよい。
ウルスラの、次男アウレリャノ大佐に「愛の能力の欠如の明白なしるし」を見いだし、男を拒み続ける三女アラマンタにその拒否の身振りの中に「底知れぬ愛情と自分ではどうにもならぬ恐れの葛藤」見いだし、そして子供同様に育てたレベーカにこそ「自分が息子や孫たちに望んだ奔放で大胆な心の持ち主」を見いだしている(ガルシアマルケス全小説版P292~P293)。
だがおそらく、ここにあるのは、少佐=孤独、アラマンタ=逆説的な愛、レベーカ=自由、が内面化されているという話ではら、全くない。
ここに描かれているのは、(北)アメリカ(と私たちパクスアメリカ-ナの中で生きてきた現代人たち)がそうであるような近代的個人の孤独や愛、そして自由ではおそらくない。
そうは書かれていない。
むしろ奔放に豊かに生ききる登場人物達が、同じような名前を次々に引き継ぎつつ、同じことを繰り返していく、その繰り返しの中で町が生まれ、繁栄し、衰微し、終焉を迎える……その時空が「孤独」で満たされている、ということであり、「愛」にも満ちているということでもあるのではないか。
あえて言うなら「孤独」(1)ではなく、「孤独」(2)をそこに見る必要がある。
5世代に渡り、血を濃く受け継ぎ、名前も受け継ぎながら模倣し繰り返されるような多層化された一族の人生の「孤独」は、町が広がり、さまざまなシーンを経巡りながらその寿命を閉じていく町の100年の「孤独」と正確に響き合っている。
そこでは「愛」も「孤独」も「自由」も、拒む身振りや革命の流血や、土を食べる奇癖とともにある。それらの人物達に、「愛」なり「孤独」なりの言葉がもたらす原因を尋ねてみても、しょうがないんじゃないだろうか。
人間の諸様態が丁寧に描かれている「幾何学」が見えてくるような気すらする、といえば、スピノザかぶれのおじいちゃんの妄言、ということになるのだろうね(笑)。
だが、この作品は徹頭徹尾丁寧な記述に支えられた律儀な物語だということは言っておきたい。
中身を忘れないうちに感想メモを書いておく。
hontoのサイトにはこうある。
https://honto.jp/booktree/detail_00000795.html
[「一般的なファンタジー小説とは一線を画す「マジックリアリズム」をご存じですか?ラテンアメリカの文学で隆盛をきわめたその技法は、ただ怪奇を描くだけでなく、それがその世界での常識として表現されることで、よりいっそう数奇な味わいを感じることができます。さあ、新しい不思議の扉を叩いて、異常な日常をご堪能ください。」
また、『百年の孤独』の紹介文には
「「蜃気楼の村」であるマコンドが、勃興し、隆盛をきわめ、やがて廃墟となるまでの百年間を描いた小説です。開拓者たちの絶望と希望、生と死、そして孤独。明らかに非現実の世界であるのに、圧倒的な現実感を伴う物語は、マジックリアリズムを冠するにふさわしい説得力に充ちています。」https://honto.jp/booktree/detail_00000795.html
とる。
いずれもhontoのサイト。
私も読む前は、その「マジックリアリズム」を体現した、たいそうイメージ豊かな、そしてそれゆえにリーダビリティに難ありの、本格的南米小説という印象を抱いていた。
今回、コロナ禍による自粛GWを奇貨としてプライベートな読書会の課題図書に友人が挙げたこの本を、だからたまたま読んだわけだが……
とにかくめっちゃクチャ面白かった。マジックリアリズムとか、読んだことがないひとの戯れ言か、と思った。
何が「マジック」なものか。
ある意味、これこそ小説ではないか、という思いがわき上がってくる。
確かに、不思議なことはいくつか起こる。
気がついたことは二つあって、一つは不眠症の解決方法であり、もう一つは小町娘の行く末だ。
だが、それは別に「マジック」とかいうほどの話でもない。まさか幽霊が出てくるから「マジック」とか言っているわけではあるまい。そんな物語なら星の数ほどある。
むしろ「誰に幽霊が見えないのか」というのがポイントかもしれないが、それは今は措く。
少佐の一代記であるかのように始まる話が、それで終わらず、むしろ次第に実は軸となる登場人物はウルスラ(イグアラン)<町を開拓した第一世代、ブエンディア家の「グレイトマザー」>であり、ピラル(ネルネラ)<作品の最初から最後まで生き続ける占い師であり売春宿の主>であると気づかされていく。しかしもちろん、男の物語から女の物語へ、とズレていくだけの話でもない。
「マジックリアリズム」という言葉の裏には、北側に「マジックでないリアリズム」があるという前提にたった視線があるだろう。その視線が「読み手=私」の中で解体しはじめてから、作品が本当に楽しくなっていったのだ。
これは個人的な体験なのだろうと思うけれど、そのまた陰には、北(アメリカ)が中・南(アメリカ)に当時強いていた政治的な圧力を考えれば、のんきに「マジック」とか言っている場合じゃないだろう。個人的読書体験で終わらせてはなるまい。
いったいリアルはどちらの側にあるのか、と考えてしまう。
男は女を求め、女は男を求め(あるいは拒み)る当たり前の多様な豊穣さが、そこにはあるではないか。あるときには近親相姦のタブーを拒み、あるときにはその線を越えようとする。あるときには革命に燃え、暴力を行使しあるいは怯え、あるときには内に籠もって夢想する男達に対し、様々なものに縛られつつ支えられ、それから解き放たれようとし、それらさまざまな営みを成就させていこうとする執着を生きる女たちの姿は、本当にここに「生ー性」がある、との手応えを与えてくれるのではないか。
また、『百年の孤独』という題名にも惹かれる。
ネットで検索すると、そのほとんどが焼酎の名前としてヒットするのだが(笑)、そのネーミングはこの小説を多分に意識したものではないかと推測(根拠はないが)してみたくなる。
「百年」は5世代にわたる「ブエンディア家」とマコンドの町の栄枯盛衰を示す言葉だとみてよいだろう。
では「孤独」はどうか。
作品中の「グレイトマザー」ウルスラは、作品の中で、一族の者が抱えるさびしさというか憂鬱のようなものに繰り返し言及している。その一方の極に、この作品の登場人物中おそらくたった一人だけ(読み過ぎかな?)幽霊を見ることがない大佐が位置しているとはいえるだろう。
たとえば三人の次世代についてウルスラが考える次の部分を見てみるとよい。
ウルスラの、次男アウレリャノ大佐に「愛の能力の欠如の明白なしるし」を見いだし、男を拒み続ける三女アラマンタにその拒否の身振りの中に「底知れぬ愛情と自分ではどうにもならぬ恐れの葛藤」見いだし、そして子供同様に育てたレベーカにこそ「自分が息子や孫たちに望んだ奔放で大胆な心の持ち主」を見いだしている(ガルシアマルケス全小説版P292~P293)。
だがおそらく、ここにあるのは、少佐=孤独、アラマンタ=逆説的な愛、レベーカ=自由、が内面化されているという話ではら、全くない。
ここに描かれているのは、(北)アメリカ(と私たちパクスアメリカ-ナの中で生きてきた現代人たち)がそうであるような近代的個人の孤独や愛、そして自由ではおそらくない。
そうは書かれていない。
むしろ奔放に豊かに生ききる登場人物達が、同じような名前を次々に引き継ぎつつ、同じことを繰り返していく、その繰り返しの中で町が生まれ、繁栄し、衰微し、終焉を迎える……その時空が「孤独」で満たされている、ということであり、「愛」にも満ちているということでもあるのではないか。
あえて言うなら「孤独」(1)ではなく、「孤独」(2)をそこに見る必要がある。
5世代に渡り、血を濃く受け継ぎ、名前も受け継ぎながら模倣し繰り返されるような多層化された一族の人生の「孤独」は、町が広がり、さまざまなシーンを経巡りながらその寿命を閉じていく町の100年の「孤独」と正確に響き合っている。
そこでは「愛」も「孤独」も「自由」も、拒む身振りや革命の流血や、土を食べる奇癖とともにある。それらの人物達に、「愛」なり「孤独」なりの言葉がもたらす原因を尋ねてみても、しょうがないんじゃないだろうか。
人間の諸様態が丁寧に描かれている「幾何学」が見えてくるような気すらする、といえば、スピノザかぶれのおじいちゃんの妄言、ということになるのだろうね(笑)。
だが、この作品は徹頭徹尾丁寧な記述に支えられた律儀な物語だということは言っておきたい。
だから、丁寧に読めば人物を混同するのではなく、むしろ正確に描き分けて豊穣な枝葉が絡み合っている様子が浮き上がってくる仕掛けになっている。マジックはむしろ、単純化してしか物語を読めない私たちの側の「瞳の中」に装着されていた装置の別名ではないのか?そんな風にも思えてくる。
前評判にとらわれず、挫折した何人もの愚痴をとりあえず横において、ゆっくりじっくり、人物の名前と世代のメモぐらいを軽くとりながら読み進めさえすれば十分なんじゃないかな。
前評判にとらわれず、挫折した何人もの愚痴をとりあえず横において、ゆっくりじっくり、人物の名前と世代のメモぐらいを軽くとりながら読み進めさえすれば十分なんじゃないかな。
コロナ禍の自粛騒ぎに終始したGWも、そうでなければ絶対に読まないまま終わっただろうこの小説を読ませてくれたという意味では、ありがたいものだったのかもしれない。
ぜひ、お勧めです。
だいいち、なにかスポーツをやり遂げたような達成感も得られますし(笑)。
#百年の孤独
ぜひ、お勧めです。
だいいち、なにかスポーツをやり遂げたような達成感も得られますし(笑)。
#百年の孤独