龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

10年付き合ったロードスター(NC-VS)を手放しました。

2018年11月05日 16時15分41秒 | クルマ
新車購入から10年半付き合ってきたNCロードスターを手放しました。



12万キロぐらい乗りました。
これでブログ冒頭の写真の阿蘇山にも行ったし(往復4000キロ)、高千穂にも佐渡にも津軽にも房総にも富士山にも道後にも出雲にも伊勢にも行った。

夫婦二人でどこへでもオープンで旅行した記憶は生きている限り消えません。
でも二人とも退職して経済的なことや体力的なことも考え、軽自動車に代替することになりました。

50代の初めにこのロードスターと出会ったことは、人生にとって大きな意味があったとつくづく思います。
スピノザやアーレントに出会ったぐらいの意義はありそうですね。

今後はレヴォーグ1.6とミライース(正確にはプレオプラス)になります。

幸い友人が面倒を見てくれることになったので、どうしても乗りたいときには借りにいきます!

いや、実にオープンカーは気持ちが良かったです。
レヴォークも現行販売車種だし、開発時期もかなり後だから、カーブの限界速度とか加速とか、決してロードスターと比較しても悪くはありません。

でも、ライトウェイトFRオープンスポーツとしてのロードスターは日本人にとって最高の乗り物です。
また機会があったらオープンスポーツに乗りたいと思いつつ、今は我がNCロードスターとの別れを惜しんでおきます。


ハンナ・アーレント『精神の生活(下)』P45~P46が面白い!

2018年11月05日 08時28分28秒 | 大震災の中で
2018年11月3日(土)
佐藤和夫さんとハンナ・アーレントの『精神の生活(下)』を読む読書会に参加してきた。
佐藤さんは最近『<政治>の危機とアーレント』を刊行されており、『精神の生活』翻訳者でもある。
第5回になるこの読書会に、4回目から参加させてもらっている。

今回読んだのは第1章の第5節「思考することと意志することとの衝突=精神活動の調性」。

調性とは元来音楽用語で、

広義には、音楽において、あるひとつの音(主音)を中心に他の音が秩序づけられ従属的な関係をもつこと。狭義には、西洋近代音楽の長・短二種の調からなる和声的な調体系をいう。(大辞林第2版-Weblioより)

トーナリティと呼ぶ。曲の全体あるいは一部に、その曲の基となる音や音階が感じられるもの。(yamaha music media coporation)

とのことだそうだ。

大辞林の意味でいうと、「主音」があるということになる。
ここでは思考が主音という比喩になるのかそれとも意志が主音という比喩になるのかという疑問が湧いてくるがそれはまた別のこととして、忘れないようにメモしておきたいのは、P45の次の部分だ。

(引用開始)
いっさいの意志の働きは、たしかに精神活動ではあるが、投企が現実化される現象界に関係する。思考とはまったく対照的に、いかなる意志もそれ自身のために生じることはないし、その行為自体において自ら充足することはない。

いっさいの意志の働きは、<何かを意志すること>がこの<何かを為すこと>へと変化してしまうと、たんに個別的なことに係わっているばかりでなく-そしてこの点が重要なのだが-、自ら自身の終わりも予期しているのである。

言いかえると、意志する自我の通常の様態は、落ち着かなく、不安で、憂慮(Sorge)しているものなのだが、その理由は、たんに魂が恐怖と希望に満ちた未来に反応するという点にあるだけではなく、けっして保証付きというわけではない<私ができる>を意志の行う投企が前提としている点にもある。意志が憂慮しているという不安は、<私ができ、しかも私が為す>によってのみ、すなわち意志独自の活動と中断と意志の支配からの精神の解放によってのみしずめられるのである。

(引用終了)

改行を入れて3つの部分に分けたが、実際には一つの段落の後半部分である。


(投企とはとりあえず未来に向かって開かれている可能性のことだ、みたいに考えておくと)意志とは、まだ起こっておらずこれから起こる未来の可能性にむかっていて、それ自身のためには存在せず、行為においても充足せず、実際の行動(為す)が起こってしまうと、「不安と共にある」意志も「終わる」、と書いてるように読める。

アーレントの意志は、かなり「微分的」なものに見えてくるではないか。
あるいは、存在しない場所に息づくベクトル、もしくは志向性が内包するものといってもいい。

読書会の参加者(学者の方)から、
「この部分、何をいっているのか分からない」
「アレントは意志を否定しているように読める」
というコメントが出てくるのも納得できる。

佐藤さんからは、この精神の生活の下巻の中心となる関心が意志であることはまず間違いないのであって、アーレントが意志を否定しているとは考えられない、との応答があった。

もう一人のアーレント研究者の方からは
アーレントに意志があるかどうかは微妙だが、あるとすれば「許し」と「約束」においてだろう
という補足があった。

日本語の国語教師から感想を言わせてもらうと(つまり哲学的とか政治学的な意味はよく分からないまま、ということです)、アーレントはかなり「レトリカル」な文章を書く。だから、アーレントがいいたいことをあられもなくガツンと書くと言う感じではない。一読したところ

①古代から連綿と続いてきた哲学における「思考」の優位を現実からの引きこもりとして捉え、
②ここで読み始めているヘーゲル&マルクスをそれに対置しつつニーチェとスコトゥスの主意的な思想にふれ
③なおもアーレント的な「意志」をその関門をくぐり抜けさせることによって
④結果として「救いだそう」としている

ように見える。

國分功一郎氏の『中動態の世界』におけるアーレントの意志論批判から始まった私にとっての「アーレントへの旅」は、ちょっと今面白い局面を迎えつつあるという印象だ。

國分氏が「中動態」概念を適用した方が理解できるとして挙げている例が「謝罪」や「依存からの回復」であり、この読書会で話題の中心になっている「意志」は、「許し」と「約束」という場所に立ち現れるのだとすれば、これらはどちらも

思考と行為の間(裂け目)に瞳が向けられているという感触を私は押さえることができない。

國分氏はアーレントの意志論を批判し、読書会ではアーレントの意志論の記述が「意志の否定」として「読まれたり」、あるいは「読めない」テキストとして指し示されたりする。

単に「ダメ」な論の展開というのではないのは確かで、そこには確実にアレント的テキストの欲望が指し示すアレント的「意志」があたかも幽霊のように立ち現れてきている。

そこが面白い。

境界線の近傍に立ち現れる幽霊のようなオブセッションに形を与えるということを、けっこうみんなやろうとしているのかもしれない、と自分の狭く小さい主題の中に取り込みつつ、感動しながら読書会を「経験」していた。

最近、自分で感じたこと考えたことをあまりにもたやすく忘れてしまうので、誰か他の人に観てもらうということをちょっとだけ意識しつつ、メモしておく。