龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
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この週末、おもちゃとしてのスマホ情報はiPhone5一色だった。

2012年09月23日 21時05分23秒 | iPhone&iPad2
docomoのラインナップはずれて出てくるのだろうね。

世界的イベントにぶつけてもしょうがないし。
でも、正直iPhone5は、完成形というか洗練形という感じはしたけれど、

「ををっ!?」

というビックリはなかったですね。

それでもiPhoneユーザーとしては超処理速度が速くなった「5」の現物がほしいけれど(笑)。

やっぱり、iTuneとかiPhoneとかiPadとか、機能もそうだけれど、トータルバランスが本当に絶妙で、技術じゃなくて「哲学」というかライフスタイルを売ってる感じなんだよね。

その「哲学」が正しいかどうか、が問題なんじゃない。
技術があるからそれを進歩させました、でもない。

技術をなんのためにどれだけ使い、さらにいえば
「限られた資産の中で、どこに技術を用いないか」

の決定的な判断があるのが、ここでいう工業製品における「哲学」なんだと思う。
デザイン力といってもいいし、それはある意味では「政治」的でもあり「権力」的でもある。
顧客を心地よく「抑圧=教育」する方法、でさえあるのかもしれない。

基本スマホは、一度かったら二年は縛られるから、それに慣れてしまえば多少の操作性の差なんぞは気にしなくなる。
手順さえ分かれば、まあ使えるものだ。
だが、それは目的が限定された使い方になりがちだ。分かっている道筋しか使わななくなる。
若者だったり、情報強者だったりすれば、アンドロイドでもいろいろできるし、その方が面白くもあるのだろう。

それに対して、iPhoneはどのソフトでも安心して「普通」に使え、かつ高水準の楽しみや実用性をもたらしてくれるし、さらには一貫したライフスタイルの魅力までも提案してくれるのだ。

そこが違う。

そういう意味では、細部にまでゆきとどいた技術力で勝負、とやってきた日本の「箱庭」芸が、今少々押されているような気がしてならない。

アップル製品の方が、むしろ細部にまでゆきとどいた心配りがあるような気がしてきちゃうから不思議だ。
そして心配りと同時に、その製品を使う「世界観」の提示がある。

日本は、既に「箱庭」に入っている人へのもてなしは結構まだまだ行けているんだけれど、「箱庭」の外の人を招待するのは、いつのまにか苦手になってしまった。

ソニーでもトヨタでもパナソニックでも、相手にされない外国にいって、軽薄短小を「箱庭」的に実現できる「日本力」で、お客さんの心を掴んできたはずなのにね。

技術と思想、哲学の問題は、ただいま勉強中だけれど、いろいろ考えさせられます。

iPhone5リリースのお祭り騒ぎが一段落したら、アンドロイド系のスマホがそれにどう対抗していくのか、またアマゾンのタブレットがどんな形で日本でリリースされていくのか。

アメリカの方で起こっている雲の上の話ではあるけれど、それは同時に私たちの掌の中の大事件、でもある。

技術と哲学の関係は、原発事故だけの専売特許ではないはずだし。


電話とスマホと書籍リーダーの画面サイズ(悩み)

2012年09月23日 20時43分49秒 | iPhone&iPad2
auのiPhone5に変えようかと考えて、ふと立ち止まった。

では、docomoのスマホじゃだめなんだろうかと。
昨日友人がXi(クロッシー)の大型(5インチぐらいか?)ディスプレイのスマホを見た。
ギャラクシーというのだろうか。

これならまだ私の目でも電子本が読めるかもしれない、と思った。
(時間の問題で、いずれ7インチのブックリーダーが必要になるのかもしれないが)

正直な話、iPhoneでは4だろうが5だろうが、老眼の始まった私の目では、眼鏡を交換しながらでなければ電子化した書籍が読めないのだ。

確かにiPhone5は縦に長くなったから、拡大して1ページ1画面ではなく、縦位1行を限界まで広げて横スライドしていけば、縦書き文庫本もそれなりには読めるかも知れない。
横書きなら横向きで読む手もある。

でも、どうせキャリアをSoftBankから移るなら、4.8インチとか5インチ(もはや既にこれは果たして電話なのか?という大きさだが)のLTE端末に気合いを入れているdocomoも検討の余地があるんじゃないか、と思い始めてしまったのです。

iPad mini も噂され、電子書籍リーダー(多くが7インチか?)の選択もいよいよこれから来年にかけて本格的になるだろう。

そんな中で、自分自身のスマホの守備範囲をどのあたりにしておくかが、目下の最重要課題になってきた。

ただ、iPhoneとiPadのiCloudのデータ連係とか、分かりやすいインターフェースとか、大きすぎないデザインとか、さまざまにアップルの優位性はあるんだよねぇ。

iPhone5を買うなら、iPhone5とiPad3の間の大きさの、電子書籍リーダーも買わねばならなくなりそう。

5インチスマホだったら、7インチを今年来年あたりはパスできるかもしれないわけで。

いや、悩ましいです。

最近、本の裁断による電子書籍化計画を進めている関係上、iPad持ち歩きが必須になりつつある。
ところが、持っている人は分かると思うが、正直なところiPadはどこでもいつでも持ち歩いて本をさくさく読むには、決定的に重いのである。

片手でiPadをずっと空中に把持しつづけて本を読み切る「腕力」のある人は、あんまりいないんじゃないかな。

しかし、iPhoneでは、ちらっと参照するには十分だが、本を読むには決定的に画面が小さいのだ。
去年だったか、『歌うくじら』(村上龍)をiPhoneで読んだ時は、まだ読めた。
1年のうちに、また老眼が進行したらしい。

そのうち眼鏡を買うか、携帯を買うか、みたいな本末転倒のシーンになだれ込みそうだよ(苦笑)。

ジョブズが断固反対していたとかいう7インチサイズ。
噂になっているiPad miniの大きさは、そのまま電子ブックリーダー7インチ画面の市場だ。

iPhon5 4インチ
大画面スマホ 4.8~5インチ
bookreadr 7インチ
iPad3 9インチ


auのiPhone5予約を取り消してきた(爆笑)

2012年09月23日 17時46分44秒 | iPhone&iPad2
SoftBankの思うツボ、だろうか(笑)。

今日の午後、auのiPhone5の予約をキャンセルしてきた。
理由は3つ。

1,とりあえず、地図が実質バージョンダウンしていて使えないのはどうかと思う。
(別にマップファンを入れてあるので不自由はしないが、批判票を1票いれておこうと思った。)
(少なくてもGoogle Mapが出るまで待ってもいいかと)

2,自分の居住地がプラチナバンドカバー地域になり、以前ほどau回線をうらやまなくても良くなった。
(まだ差はあります。先週末も山間の道路沿いでauだけ電波が入って悔しい思いはしました)

3,旧iPhone4の下取りがSoftBankだと1万ほどになる。
(iPod代わりにそのままBoseのWave Music Systemに繋いでもいいが)


以上のことを勘案すると、現状のSoftBankをauに移す面倒なことをするよりは、しばらく様子をみようかと。

そうそう、考えてみたらipadが一台iPhone4にぶら下がっていて、auに変更するとそちらも余計な負担が発生することに気づいたのでした。

iPhone5にすること自体をしばらく様子見すると同時に、auに移るのもちょっと待ってみようかと。
周りの様子を見てからでも遅くないかな。

それから、16Gbyteでもいいかな、とか、黒は塗装がはげやすいとか、いろいろ迷う余地はあるのですね。

結局、予約直前までプランは出さない、ブツの情報は不十分、という中で、「初日で予約200万台突破」というニュースに煽られてしまっていたのでした。iPhone4のホームボタンがいつ壊れるか、っていうところとの兼ね合いもあって、つい浮き足だってしまいました。

壊れたときは壊れたときのこと。

とりあえず、iPhone5フィーバーから少しだけ距離をとって、落ち着いて考えよっと。




週刊読書人9/21「キリスト教から世界が見える」が面白い

2012年09月23日 15時19分48秒 | 大震災の中で
『不思議なキリスト教』の著者の一人橋詰大三郎と、『キリスト教入門』の著者島田裕巳が巻頭対談している。


道具的理性=foxydog的には「理性1」

世界の秩序を思考する理(ことわり)=foxydog的には「理性2」(秩序=神がアプリオリに存在するかどうかはまた別として)

のうち、前者の限界を大震災以降露わに感じ取った私たちが、後者の「理性2」について考え始めるのは、必然性があるというものだろう。

だから、キリスト教にも改めて関心が高まってくるのも納得。
少なくても、私はそういう道筋で、改めて一神教的世界観を参照しておこうという気持ちになっている。

「宗教」を内面化し、「回心」するかどうかは別の話ですが。


結局ムラの掟は前者(「理性1」)に属する。
小さいところで整合性を持たせ、その小さいところをさらに突き詰めていってなんとか解決策を見いだしたり、ある時にはブレイクスルーしたり、「小さな」ところからのイノベーションをもたらしたりさえしてきたのかもしれない。

自民党や民主党の総裁・代表選びを見ていると、そういう意味では「懐かしい」。

しかし、ほんの少し前「原子力ムラ」に批判が集中したというのに、業界内のみに通用する「理性1」をいまだに使い回し、駆使しようとしている政治家の言説には、正直うんざりさせられる。

また、それを批判しようとするとき、それ以上に「定見」を持たず、「間違いを改めるのには素早い」サーフィン型の政治的言説を駆使する政治家に将来を委ねるのも躊躇われる。


結局、学問の業界も、経済の業界も、政治の業界も、その小さな箱庭における整合性を究極的に求める「理性1」に命を賭けてきた。一方、その箱庭的理性1を批判する側もまた、

・原理主義に陥って硬直化する

か、

・理性2(ことわり)を持たずに言説の流動に乗り続ける

か、の二択になってしまっている。


この辺りで、私たちが今ここで拠って立つ世界を可能たらしめ続けている「可能性条件」について、徹底的に見つめ直し、考え続ける世界秩序=ことわりについての粘り強い思考=理性2を求めていきたい、のだ。


「経済成長」という例外的な真空状況、「バブル」というその延長線上の離陸。

それらがしぼんで以後、就職がないから膨大な手間暇のかかる博論に従事する「学問従事者」が登場したように、大震災以後、「理性2」おける根本的な問いを、「理性1」のリミットを超えて探究しえる人材がようやく出てこようとしているようにも思う。

もちろん、キリスト教の理(ことわり)それ自体の中に、答えが容易に発見できるわけではあるまい。

だが、たとえかつて暗黒と呼ばれた中世キリスト教会の「理性」についてであっても、私たちが「理性2」について考える時に必要な参照点が多数存在するのではないか?

「キリスト教から世界が見える」というのは、そういうことで「も」あるだろう。

正直いうと、島田裕巳の「キリスト教入門」(扶桑社新書)自体よりも、この週刊読書人の対談の方が面白かったのですがね。

☆「理性2」を、日本の震災に合わせて「理性1」の中で道具的に「利用」しようというということではない。
☆それじゃキリスト教を日本的「理性1」が再度消費するって話で終わってしまう。
☆「世界」の裂け目=差異という暴力の現れと、どう向き合うか(「理性2」)、っていう話です。