龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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本棚が空いていく快感

2012年07月06日 20時25分53秒 | iPhone&iPad2
本棚が空いていく快感-書籍電子化の効果-

100冊ちかく裁断&電子化を進めると、本棚が3段近く空いてくる。
部屋にある本棚(横積み縦積み前後重ね等々)の本を数えるとざっと800冊ぐらい。
身近に置く本の量としては主観的には必要最低限、といったところ。

同僚の本好き夫婦に聞いたら「二万冊は超えるけど、数えてない」とのこと。
それに比べれば私の蔵書はおそらく全部合わせても数千冊程度だからたかが知れているのだが、それにしても、本の置き場には苦労してきた。
引っ越しの時に処分してはみるものの、なかなか捨てられない。いちばん問題なのが

「捨てるか捨てないかを分類する」

という作業である。

1,片付けているうちに惜しくなり、気がつくと棄てる本がなくなってしまう。
2,見ているうちに忘れていた本と再開し、片付け途中で読み始めてしまう。
3,整理を忘れて分類に走り、本棚の並べ替えで終わってしまう。
4,途中で飽きて収拾がつかなくなる。

だいたい上のいずれかになる。本に限らない片付けの難しさだ(笑)。

ところが、書籍の「裁断&電子化」の作業は、

1,魂を吸い取って保存するので、棄てるという「惜しさ」に捕らわれずにすむ。
2,本の裁断は1分程度、スキャンも数分あれば終わるので、本を開いて「読み出す」危険が低い。
3,整理は後で電子化されたものにキーワードを割り振ればいいので、その場では整理の必要もない。
4,裁断機や連続スキャナ、ipadなど、ガジェットを扱う楽しみがあるので、途中で飽きない。

というメリットがある。

最大のネックは一度書いたように、本に刃物を当てる瞬間だ。

自分が持っている書籍に対するフェティシズムと、しっかり向き合うことが必要である。

「本の背を切ってバラバラにした挙げ句に棄てるなんて」

本好きなら誰しもそう思うはず。
雑誌ならいざ知らず、単行本の背を裁断するときには確かに、

「ああ、これでおれは地獄に落ちるなぁ」

というか
「ルビコン河を渡ったな、こりゃ」

と、「尻小玉を抜かれる」ような脱力感があった。

まあ、別に無理して書籍の電子データ化をすることもないのだけれど(笑)。

でも、電子データ化を始めてから、軽い本は数十分から1時間程度でざっくり読めてしまうことを知った。

つまり、読み方の手順が変わった印象がある。

一文字一文字リニアに(線状的に)目で追っていくのではなく、ざっくり画面ごとに読む、というのに近い「読み方」になった。

それがいいのか悪いのかは分からない。

たぶん、善し悪しではなく、そういう風になった、ということなのだろう。

その読み方によって情報の「速度」は確実に上がっている。
当然、逆に脳味噌の中における情報の「熟成」度合いは低くなることも予想される。

つまり、そういう読み方ができる本は電子データ(PDF)で読めばいい、ということだ。

私の場合、社会学系の本のほとんどは、その手の本だった。

ちなみにまだ小説は1冊も電子化していない。
小説を裁断する「敷居」は、社会評論より高いらしい。

哲学テキストは、二冊購入していたスピノザの『デカルトの哲学原理』1冊だけを電子化した。
もっと手軽に持ち歩きたいとも思うけれど、「テキスト」としての哲学は、裁断&取り込みした挙げ句、なんだかもう一冊同じ本を買い直ししてしまいそうだ。

小説はためらうけれど、そんな気持ちにはならない。
このあたり、今の自分のテキストに対するフェチ度合いが露わになって、これもまた面白いのだが。

とりあえず、小説は繰り返し謎ときをさせてくれるテキストだし、哲学テキストは繰り返される謎そのもの、に近い。

その二種類は電子化して大量高速にスライドして読むものではなさそうなのである。

喜んで裁断&スキャンをやってはいても、どうやら全てをスキャンしてタブレット(ipad)で読みゃあいい、ってものでもないらしい。

但し、住宅事情の面から言えば本のジャンルなんぞは問題にはならない。
ひたすら本の置いてあった場所が空けばそれが「正義」ということになる。

そこでは、絶対的に電子化が「正しい」振る舞い、ということだ。

どうなんだろうね。

でも、これだけ便利で場所を取らないのであれば、書籍形式で本を購入するという行為は、筆で字を書くことが特殊が芸術や儀礼になったように、特別な意味を帯びていくのかもしれない。
そんなに遠い将来じゃなくて、ね。
でも、だから本はなくならないんだろうね。
書籍はその社会的意義を変質させつつも、世界に対する「裂け目」でもあり「封印」でもあり続けるのかもしれない。

世界とはこのとき、無意識といってもいいし、とりあえずは他者といってもいいのだけれど。