龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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尖閣諸島沖中国漁船衝突映像の流出について

2010年11月16日 00時58分57秒 | 社会
尖閣諸島沖中国漁船衝突映像の流出について

今日、逮捕せずに任意事情聴取を続けることになった、と報道されていた。

逮捕はしなくても逃亡・隠蔽の恐れはほぼないようだし、任意聴取が適切だろう。

起訴が可能かどうか、有罪になるのかどうか、は専門家の間でも意見が分かれているぐらいだから、そのあたりはじっくり判断してもらえばいい。

ただ、こういう考え方は時代に取り残されているのかもしれないけれど、検察の幹部とか法律に詳しい専門家たちが、「一般国民」の動向を気にして、と前置きしているのが気になった。

「一般国民」の動向を気にするのは本来検察じゃなくて、政治の仕事じゃないのか?

検察がそういうことを気にするっていうのは、なんか間違いの始まり(っていうかもう終わりに近づいているのかもしれないけれど)のような気がしてしょうがない。

法律の解釈は時代とともに変化したりもするのだろうから、国民の一般的な感覚と乖離した法意識はそれ自体が問題だ、という意見も一理ある、とは思う。

けれど、その映像の中であれだけめちゃくちゃなことをした挙げ句に保釈された中国漁船の船長が中国で一部から英雄視までされている、となると、この事案で日本が「国民の一般的な動向」なんてのを気にして起訴ができるとかできないとか逮捕するしないが決定されるとしたら、なんだか中国と一緒じゃん、っていう感じがしてしまう、のは私だけだろうか。

個人的に公務員の一員として、もし自分がこういう行為に及んだならば、きちんとその罪を法律において問うてほしいと思うだろう。そのとき、「国民」の多数の意見なんて正直どうでもいい。
っていうかあくまで「もし私なら」の妄想の上で、だが、中国漁船の船長なんかのような扱いではなく、きちんと日本の国内法に基づいて有罪か無罪かを、法に則って裁いてほしいと強く願うような気がする。

適当なバランスばかりを考える政治的な決着、とか「国民の動向による」とかいうのじゃなくて、きちんとした「公的な規範意識」に支えられた結論がほしいのです。

変態、だろうか。ま、それでもいいや。

秘密の度合いが有罪に値するほど高くない、ため無罪、という余地はあるだろう。もっと言えば、もう既にその情報は「秘密」とは言えない、という判断だってありえる。
たとえ万一有罪になったとしても、国民の感情からいっても執行猶予が付かなかったらそりゃあおかしい、とも思う。
極めて個人的な望みとしては、無罪になってほしいと思っています。

でも、あっちがうやむやだから、こっちもうやむやで、ってのはどうなんだろう、なにやら釈然としない。
有罪がたとえ難しいと予想されても、それが「国民の動向による」とかいうのだったら、検察はいったんは起訴してほしいなあ。法解釈上の問題で起訴できないなら、それはそれでもちろんいいけれど。

仙谷なんたらとかいうひとが、「公務員」にあるまじき行為だから逮捕が当然だ、とか言ってたけれど、おまえたち政治家はなんとも適当なことを言うなあ、という印象だ。

機密だったらしまっとけ、って話だよねえ。
政治的にはもう破綻していると思う。

でもね。

公務員が公務員の仕事としてその対象の情報を実質的に「機密」たりえていないかどうか、を自分で判断して外に流す、ってのは、やっぱりそれはないだろう、と思う。政治家が「機密だっていったら機密だ」なんていうのがナンセンスなのと同じように。国民もそう。公務員だろうが政治家だろうが国民だろうが、そんな判断はどんなに「公」を考えたものであっても、所詮「私的」なものにすぎないじゃないか、と思うのだ(カント的に、かな?)。

たとえ形式主義的、に過ぎる、と言われても、「規範意識」を問いただすために、できれば起訴して裁判をやったらいい。
もし仮に私なら裁判をしてほしい。
その結果、あぶりだされるのは決して当該海保職員の有罪・無罪だけではないはずだ。

そういう展開をもし望まないで、単に「国民」が知りたいだろうから、ってアップしておいて、悪いことはしていない、ってだけいうのだったら、そしてそれを不起訴・無罪にすることがこの国の国民の「大勢」だとするなら、公務員の「私的義務」と「公的義務」の峻別はぐずぐずになってしまうだろう。

ネットの動画サイトにアップするということ自体、すぐれて「私的」な範疇でできてしまう行為だ。

「私的」とか「公的」とかいうなら、とんでもなく「私的」な形で人は世界と直接接続されてしまっている時代だ、ってことは間違いない。

でもさあ。

自分で公務員の仕事を選んでいるのだから、公務員として秘密を守るのは「私的義務」に決まっている。
仕事だから「公的」だ、なんて私は全然全く思わない。

それがネット「だだもれ」になったらほんと「警察」は要らないって感じになってしまわないだろうか。
あ、もしかしてほんとに警察は要らないのか?

ってか、警察や検察はもう「国民」によって無力化されたのでしょうか?

動画サイトという「私」と「世界」とが容易に直結し得る「場所」が、結果として「公」になっていくのだとしたら……。

それじゃあ、
「公(おおやけ)」=「だだ漏れ」
じゃん、という印象を私はどうしても抱いてしまう。

やっぱり「私」の時代遅れって話で終わってしまうのかしらん。

でも、ここの「ツボ」は、もう少し掘り下げておきたい課題あり、とは感じています。

つまりは「公務員」にとって「公的」であるとは、いったいどういうことなのか、って課題です。
(ひとしきり考えたあとは「公務員」っていう枠を外してさらに考えてもいいかもしれません)

それは経済活動の中で非経済活動としての教育を考える、っていうちょっと前のテーマと、実は重なっていくことでもあると思うし、今年の大きなテーマであるカントの「啓蒙」について考えるっていうこととも遠く響き合っているような気がするなあ……。
(この項、別な形でどこかに接続)