龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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たとえば「プライム・ムーバー」という単語

2010年05月30日 12時20分07秒 | インポート
たとえば「プライム・ムーバー」という単語が、アリストテレスの「神様」的存在に付けられた名だ、というのを最近初めて知って、びっくりした。
私がこの言葉を初めてしったのは小学生時代、
アイザック・アシモフのSF、ファウンデーションシリーズ(全3巻<当時>)
だったからだ。
ファウンデーションという、人類の銀河文明崩壊を防ぐべく天才博士が密かに作った「集団」の、会議における第一発言者(ま、首相みたいなものかなあ)を作中、プライム・ムーバーって呼んでいて、それをわざわざ訳者が指摘して読者の注意を喚起していたのです。
40年たって、それがアリストテレスが説く、世界の根本動因(第一動者)のことだったなんて、SFのレトリックはなんてまあ哲学好きなのだろうと改めて思った。
wikiで調べていくと
ヴァン・ヴォークトの『非Aの世界』のAは「アリストテレス」のことだ、とかあって、これもびっくり。

私個人としては、山田正紀のデビュー作『神狩り』の冒頭、ヴィトゲンシュタインの有名な言葉
「語り得ないものについては、沈黙しなければならない」
が書いてあって、これはたぶん中学生ぐらいの時だったけれど、明らかに「哲学」って「謎~」と惹かれていくきっかけになった記憶がある。

だからなんだ、ということはありません(笑)。
しかし、世界を問い直す、という身振りをエンタテインメントとして選ぶか、ガチでやるか、の違いはあっても、そういう場所、人、身振りが好きです。

一ついえること。
それは、用語を「正しく」定義しようとしたり、「歴史」的な配置に腐心したりする「正しい」学問(むろん、学問はホラ吹きとは違いますから、そうでないと困りますが)に興味があるのではなく、むしろ「間違えること」=「誤謬」を完全には回避しえないという前提を持ちつつ、自分の立っている状況においていかにその「見直し」をし続けるか、ということに興味が収斂しつつあるなあ、ということです。

でも、理性の行使としての「学問」には岡惚れしてるんですがね。たぶん、評論とか哲学の本を読む動機なんてそのあたりにしかない。

他方、エンタテインメントを読まずにいられないのは、「誤謬」について学問は注意深すぎるのよね。
大風呂敷なしに正しいことを言われても、ほとんど蛸壺状態になるわけで。

啓蒙をエンタテインメントとして消費する、っていうのは、だからある意味でとても分かる。
学問的にはかなり居心地の悪い面を持つであろう啓蒙的言説。
(確かに自分も多少なりと専門の分野に関わってくると、「早わかり」的言説は困るなあ、ミスリードだよ、と思うことは多い)
でも、その生産と消費をもふくめて「誤配」「誤謬」は必然なのですよねえ。

哲学→SF
の確信犯的誤配と、雰囲気だけちょうだいするエンタ精神を入り口にして、どこまで哲学に遡行できるというのか。
ま、生きているうちにはたどり着かないと思うけれど。でも、それでも哲学に岡惚れしていないエンタテインメントは、ちょっと悪いけれど読む気がしないです。つまり、世界像がやわなフィクションは、もう、初老期以降の私には不要ってことかな。