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奈良の名所・古跡

行ってみたい所があるといいのですが・・・古墳とか建物とか巨樹とかいろいろ・・・

孝女伊麻史跡広場

2009年07月02日 | 史跡
 孝女伊麻は父の長右衛門に孝行の限りを尽くした人です 撮影日;2009.6.14

 本朝24孝の一に数えられる人です

 「孝女の碑」は、天保11年(1840)に孝女伊麻の旧宅の地に建てられました
 明治41年に、碑を保護するため周囲に石柵を設け、有志の醵金によって年々忌日に法要を営むことを計画
 大正9年に「財団法人孝女伊麻旧蹟保存会」を設立 

 鰻の入ったという壷・今市物語(写本)・郡山侯より拝領の夜具・肥前佐賀藩家老武富氏書状・友竹の描いた伊麻糸紡ぎの像等の調査保管を行っています

 碑の「孝女於伊麻旧跡」の七字は郡山藩・柳沢里恭の筆によるものです

 毎年2月27日に法要が営まれます  

★所在地;葛城市南今市461
★交通;近鉄「磐城」駅下車 徒歩15分
★駐車場;無料
★入場料;見学自由
★問合せ;0745-48-2811(葛城市観光協会)

 貞享5年(1688)、竹内の伊麻の家へ松尾芭蕉が訪問しています
 「よろずのたつときも、伊麻を見るまでの事にこそあなれ」
 (貴重なものを数多く拝観したが、結局この竹内訪問は孝女伊麻の姿を見れば足りる旅であった)
 と友人に手紙を送っています


 【うなぎと伊麻】 
 伊麻は俗にお今といい、長兵衛という弟があった。
 父・長右衛門は農夫で、その祖は肥前の国佐賀の藩士であったという。
 伊麻は寛永元年(1624)に生れた。
 幼き時、母を失い、大阪から迎えた父の後妻と、その子二人と、伊麻、弟長兵衛の六人暮しであった。
 伊麻と長兵衛は継母によく仕え、父に孝養をつくしたが、伊麻を弁之庄村の農家へ下女に、長兵衛を大阪の商家へ丁椎に遣った。
 時に寛永13年(1636)伊麻は13、長兵衛は9歳であった。

 寛文11年(1671)夏の頃、疫痢が流行した。
 父の長右衛門は竹内の伊麻の家に居たが、不幸にしてその病にかかり、食物が咽を通らないこと数日の重病になった。
 医者が、うなぎを煮て食べると病が妙に治るという。
 二人は早速うなぎをさがしたが見当らず大いに力を落した。
 その夜深更におよんで、水瓶の中に水のあふれるような音がした。
 二人があやしんで灯を点じてこれを見ると、大きなうなぎがおどっているのであった。
 二人の喜ぶこと限りなく「神仏のわれらを憐み援け下さったものだ」と掌を合せて拝んだ。
 すぐに調理して父にすすめ、父も喜んでこれを食べた。奇なるかな、さしも重かった病もたちまち全快した。
 これを聞いた村人たちも、其の残余のうなぎをもらって食べ全快したものが多かった。


旧普門院

2009年05月29日 | 史跡
 今にも倒れそうな普通の民家の造りで、今は無住です 撮影日;2009.5.23 

 元は聖徳太子の建立と伝わる(聖徳宗)「福貴寺」の一院だったそうです
 平安時代前期に道詮を開基として開創
 本尊は木造彩色の聖観音立像木造彩色(平安時代作)

★所在地;生駒郡平群町福貴1504
★交通;近鉄平群駅下車 徒歩20分
★駐車場;
★入場料;外観のみ見学可
★問合せ;0745-45-1001(平群町役場)



 中央の部屋を仏間にして道詮律師の念持仏であった重文「聖観音立像」を安置しています。
 聖観音は、高さ約1m、檜の一木造で、ずんぐりした身体構成、高く太い宝髻、奥行きの深い体躯、胸部、腹部のくびれに肉感敵な表現が見られ、天衣は飜波式(はんぱしき)と呼ばれる大波、小波を組合せた模様で、貞観(しょうがん、貞観年代)仏の特長をよく示し、平安時代初期(860年頃)の作です


 この辺りは法隆寺夢殿の中興・道詮律師隠棲の地です


 参考;平群町のページ(木造聖観音立像)

定林寺跡

2009年05月04日 | 史跡
 聖徳太子建立七ヶ寺の一つという伝承を持ちます 撮影日;2009.4.18

 現在の定林寺の西側に塔跡をはじめ土壇や礎石などの旧伽藍跡が有ります
 昭和41年に国指定史跡となっています

 創建や寺史については全くわかっていません
 別名を「立部寺」または「常林寺」とも呼ばれたようです

 出土古瓦から7世紀前半に創建されたと推定されています 

★所在地;高市郡明日香村立部(字奥の堂)
★交通;近鉄岡寺駅より
    バスで飛鳥小学校下車 徒歩5分
★駐車場;近くの明日香村健康福祉センターに無料駐車場有り
★入場料;見学自由
★問合せ;0744-54-2001(明日香村役場)

 昭和27年(1952)と28年に、石田茂作氏らによって塔跡と回廊跡の発掘調査が行われました
 塔跡では円形柱座を彫り込んだ心礎が検出され、心礎の上面に塑像菩薩片、瓦片などが発見されました
 回廊については、桁行2.4m、梁行2.7mであることが確認されました



岡寺跡

2009年05月03日 | 史跡
 草壁皇子の宮地に建てられたと伝えられている寺院の跡 撮影日;2009.4.18

 平成17年に国の史跡に指定されています 

 昭和57年の橿原考古学研究所による発掘調査で
 基壇建物の北側を画したと思われる凝灰岩の切石が4.5mほど並び、その東端に階段があったらしいことがわかりました
 南向きに建つ7間×4間の金堂と推定されています
 その他の建物や伽藍配置については不明です
 岡寺所蔵の寛文年間(1661~1672)の絵図には、治田神社付近に金堂や講堂・塔の跡他が描かれているそうです

★所在地;高市郡明日香村岡964
★交通;近鉄橿原神宮前駅より
    岡寺行きバスで終点下車 徒歩3分
★駐車場;有ります(有料)
★入場料;見学自由
★問合せ;0744-54-2001(明日香村役場)

 現在の岡寺「龍蓋寺」の少し西側です

 岡寺(龍蓋寺)は草壁皇子の没後、その住まいの岡宮を義淵僧正が賜り寺としたと伝わります

 治田神社の境内には礎石がいくつか残り、拝殿の地覆石に凝灰岩の切石が使われています
 古瓦の散布もみられます



奥山久米寺跡

2009年02月21日 | 史跡
 7世紀前半に造営された寺院跡です 撮影日;2009.2.1 

 伝承では、聖徳太子の弟の久米皇子の創建とされます

 寺の名前・発願者の名前・寺院の存在などを記録した文献が無く
 沿革不詳です

 昭和62年(1987)の発掘調査で、塔と金堂が一直線に並ぶ四天王寺式の伽藍配置だったことが判明しています

★所在地;高市郡明日香村奥山
★交通;近鉄橿原神宮前駅より 徒歩30分
    明日香周遊バスで奥山下車 徒歩2分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0744-54-5600

 塔跡基壇上に残る10個の立派な礎石は、現在飛鳥に残る礎石の中でも最大のものです
 かって壮大な五重塔が建っていたようです

 金堂跡の基壇の大きさは東西幅23.4m、南北幅約18mと推定されています
 この基壇の規模は、川原寺中金堂の東西約24m、南北約19.2mにほぼ匹敵します

 塔跡には、相輪部分が欠けた高さ約4.8mの十三重石塔が現在立っています
 (鎌倉時代の建造)


 南へ5~6分歩けば飛鳥坐神社安居院「飛鳥寺」が有ります

 東へ5分ほど行くと飛鳥資料館が有ります

行基墓

2008年12月04日 | 史跡
 墓所は笹藪になってます・・・^^;;) 撮影日;2008.11.13 

 墓所は一辺約10mの方形の墳丘、山を削り出すか、もしくは盛土をして造られているようです

 大正10年に国の史跡に指定されました

★所在地;生駒市有里町211-1
★交通;近鉄一分駅又は南生駒駅より 徒歩15分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0743-77-8030(竹林寺)、0743-74-1111(生駒市観光協会)

 行基は、奈良時代に社会福祉事業に尽力した高僧です
 天平21年(749)に平城京菅原寺において82歳で生涯を終え
 遺命により生駒山の東陵で火葬され埋葬
 埋葬された場所が竹林寺の境内にある墓所とされています

 竹林寺の西墓には忍性菩薩の五輪塔があります

 竹林寺参道脇に古墳時代前期(4世紀後半)の前方後円墳があります



大官大寺跡

2008年08月10日 | 史跡
 今は田圃の中に、塔の土壇を残すだけです 撮影日;2008.8.7 

 大正10年3月3日に国の史跡に指定されています

 浄御原朝から藤原朝にかけて、国家の経営する大寺として雄姿を誇っていたようです
 朱鳥元年(686)に天武天皇の病気回復の祈願が行われ、文武天皇の代に九重塔や金堂が完成
 塔は方五間、講堂は正面九間、側面四間もある雄大な伽藍で、伽藍配置は法起寺式だったとされます
 和銅四年(711)に藤原京とともに焼失 

★所在地;高市郡明日香村小山
★交通;近鉄橿原線「畝傍御陵前」駅より 徒歩25分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0744-54-2001(明日香村役場)

 聖徳太子が平群地に建てた熊凝精舎(現額安寺?)を、舒明天皇の代に、百済川べりに移し百済大寺吉備池廃寺が有力)となります
 天武天皇二年(672)に移転して高市大寺となり、大官大寺に改称されました
 高市大寺は別の場所にあったとする説も有り、紀寺跡が有力視されています
 その後、平城遷都とともに平城京に移り、大安寺と改称されました
 
 礎石は明治時代に橿原神宮の建造の際に運び出されました


 参考;大官大寺跡

 香久山の真南に有ります


御蓋山「春日山」

2008年07月26日 | 史跡
 御蓋山(みかさやま)は太古からの霊山でした 撮影日;2008.7.10

 「春日山原始林」として、世界遺産(「古都奈良の文化財」)の一部に登録されています

 若草山の南にあり、別称「春日山」
 標高は294m

 山頂に、春日大社第一の祭神・武甕槌命(たけみかづちのみこと)が768年に白鹿に乗り天降ったとされている神跡があり、「本宮神社」が祀られています 

★所在地;奈良市春日野町
★交通;近鉄奈良駅より 徒歩30分~
★入場料;入山不可
★問合せ;

 承和8年(841)に神山として狩猟と伐採が禁止され、以来春日大社の聖域として保護されています

 国の特別天然記念物に指定されている「春日山原始林」(約300ha)は
 カシやシイ類などの常緑広葉樹林を主体とした原始林です

 貴重な植物やシダ、コケ類、珍しい鳥類、1000種以上の昆虫が生息しています
 町に近い為、動物の種類はそれほど多くはないのですが、モリアオガエルやカスミサンショウウオなどの珍しい生物も生息しています


 参考;世界遺産 infoのページ

 西麓には春日大社が有ります

源氏三代の墓

2008年07月20日 | 史跡
 源頼信・頼義・義家三代の墓が、通法寺跡を中心に点在しています 撮影日;2008.6.13

 【源頼義の墓】は通法寺の境内に有ります

 源頼義は源頼信の長男、永延2年(988)~承保2年(1075)

 父頼信に従い平忠常の乱を鎮圧し、早くから坂東の武士に名声を得た
 前九年の役の勝利により東国での源氏の棟梁としての地位は確固たるものとなった

 墓前の灯籠(奥の方)は、元禄15年(1702)再建の際、柳沢吉保が寄進したもの
 晩年剃髪し伊予入道と称されたそうです 

 
 【源義家の墓】

 源義家は頼義の長男、長暦3年(1039)~嘉承元年(1106)

 八幡太郎と号し
 前九年の役では父とともに安陪貞任を討ち、出羽守に任ぜられた
 後に陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役を平定

 【源頼信の墓】

 源頼信は源満仲の三男で頼光の弟、安和元年(968)~永承3年(1048)

 晩年には従四位上・河内守に任ぜられ、この壺井の里に本拠を構え土着
 河内源氏の祖となっています

★所在地;羽曳野市通法寺
★交通;近鉄上ノ太子駅より 徒歩20~25分
★駐車場;有りません
★入場料;参拝自由
★問合せ;072-958-1111(羽曳野市教育委員会)


 通法寺跡から約200mほど東の丘の上り口に「源頼信 源義家墓」の石碑が建っています
 この丘を登っていくと、頂上付近に源義家の墓があり、頼信の墓は更に数10mいったところに有ります

通法寺跡

2008年07月19日 | 史跡
 河内源氏の菩提寺だったそうです 撮影日;2008.6.13 

 明治初年の廃仏毀釈で廃寺となりました
 建物の一部が残っています
 寺跡は国指定の史跡です

 境内に源頼義の墓があります

★所在地;羽曳野市通法寺41-12
★交通;近鉄上ノ太子駅より 徒歩20分
★駐車場;
★入場料;見学自由
★問合せ;072-958-1111(羽曳野市教育委員会)

 「通法寺」は石丸山と号し、かつては壺井八幡宮の神宮寺でした

 長久4年(1043)河内国司だった源頼義が千手観音を本尊とし、居館の南側に観音堂を建立したのを始まりとされます
 前九年の役(1051~62)の時、東北地方で活躍した頼義は浄土宗に帰依し、阿弥陀仏を本尊としてからは、河内源氏の菩提寺となりました
 南北朝から戦国時代にかけて、度々兵火に遭い荒廃しましたが
 元禄13年(1700)に、源氏の子孫多田義直が5代将軍徳川綱吉に上表し、復興・再建
 寺領200石が与えられたそうです


 寺跡の東側に源氏の居館があったそうです

 参考;大阪再発見のページ