孝女伊麻は父の長右衛門に孝行の限りを尽くした人です 撮影日;2009.6.14
本朝24孝の一に数えられる人です
「孝女の碑」は、天保11年(1840)に孝女伊麻の旧宅の地に建てられました
明治41年に、碑を保護するため周囲に石柵を設け、有志の醵金によって年々忌日に法要を営むことを計画
大正9年に「財団法人孝女伊麻旧蹟保存会」を設立
鰻の入ったという壷・今市物語(写本)・郡山侯より拝領の夜具・肥前佐賀藩家老武富氏書状・友竹の描いた伊麻糸紡ぎの像等の調査保管を行っています
碑の「孝女於伊麻旧跡」の七字は郡山藩・柳沢里恭の筆によるものです
毎年2月27日に法要が営まれます
★所在地;葛城市南今市461
★交通;近鉄
「磐城」駅下車 徒歩15分
★駐車場;無料
★入場料;見学自由
★問合せ;0745-48-2811(葛城市観光協会)
貞享5年(1688)、竹内の伊麻の家へ松尾芭蕉が訪問しています
「よろずのたつときも、伊麻を見るまでの事にこそあなれ」
(貴重なものを数多く拝観したが、結局この竹内訪問は孝女伊麻の姿を見れば足りる旅であった)
と友人に手紙を送っています
【うなぎと伊麻】
伊麻は俗にお今といい、長兵衛という弟があった。
父・長右衛門は農夫で、その祖は肥前の国佐賀の藩士であったという。
伊麻は寛永元年(1624)に生れた。
幼き時、母を失い、大阪から迎えた父の後妻と、その子二人と、伊麻、弟長兵衛の六人暮しであった。
伊麻と長兵衛は継母によく仕え、父に孝養をつくしたが、伊麻を弁之庄村の農家へ下女に、長兵衛を大阪の商家へ丁椎に遣った。
時に寛永13年(1636)伊麻は13、長兵衛は9歳であった。
寛文11年(1671)夏の頃、疫痢が流行した。
父の長右衛門は竹内の伊麻の家に居たが、不幸にしてその病にかかり、食物が咽を通らないこと数日の重病になった。
医者が、うなぎを煮て食べると病が妙に治るという。
二人は早速うなぎをさがしたが見当らず大いに力を落した。
その夜深更におよんで、水瓶の中に水のあふれるような音がした。
二人があやしんで灯を点じてこれを見ると、大きなうなぎがおどっているのであった。
二人の喜ぶこと限りなく「神仏のわれらを憐み援け下さったものだ」と掌を合せて拝んだ。
すぐに調理して父にすすめ、父も喜んでこれを食べた。奇なるかな、さしも重かった病もたちまち全快した。
これを聞いた村人たちも、其の残余のうなぎをもらって食べ全快したものが多かった。
本朝24孝の一に数えられる人です
「孝女の碑」は、天保11年(1840)に孝女伊麻の旧宅の地に建てられました
明治41年に、碑を保護するため周囲に石柵を設け、有志の醵金によって年々忌日に法要を営むことを計画
大正9年に「財団法人孝女伊麻旧蹟保存会」を設立
鰻の入ったという壷・今市物語(写本)・郡山侯より拝領の夜具・肥前佐賀藩家老武富氏書状・友竹の描いた伊麻糸紡ぎの像等の調査保管を行っています
碑の「孝女於伊麻旧跡」の七字は郡山藩・柳沢里恭の筆によるものです
毎年2月27日に法要が営まれます
★所在地;葛城市南今市461
★交通;近鉄

★駐車場;無料
★入場料;見学自由
★問合せ;0745-48-2811(葛城市観光協会)
貞享5年(1688)、竹内の伊麻の家へ松尾芭蕉が訪問しています
「よろずのたつときも、伊麻を見るまでの事にこそあなれ」
(貴重なものを数多く拝観したが、結局この竹内訪問は孝女伊麻の姿を見れば足りる旅であった)
と友人に手紙を送っています
【うなぎと伊麻】
伊麻は俗にお今といい、長兵衛という弟があった。
父・長右衛門は農夫で、その祖は肥前の国佐賀の藩士であったという。
伊麻は寛永元年(1624)に生れた。
幼き時、母を失い、大阪から迎えた父の後妻と、その子二人と、伊麻、弟長兵衛の六人暮しであった。
伊麻と長兵衛は継母によく仕え、父に孝養をつくしたが、伊麻を弁之庄村の農家へ下女に、長兵衛を大阪の商家へ丁椎に遣った。
時に寛永13年(1636)伊麻は13、長兵衛は9歳であった。
寛文11年(1671)夏の頃、疫痢が流行した。
父の長右衛門は竹内の伊麻の家に居たが、不幸にしてその病にかかり、食物が咽を通らないこと数日の重病になった。
医者が、うなぎを煮て食べると病が妙に治るという。
二人は早速うなぎをさがしたが見当らず大いに力を落した。
その夜深更におよんで、水瓶の中に水のあふれるような音がした。
二人があやしんで灯を点じてこれを見ると、大きなうなぎがおどっているのであった。
二人の喜ぶこと限りなく「神仏のわれらを憐み援け下さったものだ」と掌を合せて拝んだ。
すぐに調理して父にすすめ、父も喜んでこれを食べた。奇なるかな、さしも重かった病もたちまち全快した。
これを聞いた村人たちも、其の残余のうなぎをもらって食べ全快したものが多かった。