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奈良の名所・古跡

行ってみたい所があるといいのですが・・・古墳とか建物とか巨樹とかいろいろ・・・

墨坂伝承地

2011年02月09日 | 史跡
 古代の墨坂とされる場所に「墨坂伝承地」の石標が立っています 撮影日;2011.01.23

 日本書紀によれば、神武天皇即位4年春、鳥見山中に霊畤(まつりのにわ)を築き、天皇自ら皇祖天神を祭祀され「この地を上小野榛原(かみつおのはりはら)下小野榛原(しもつおのはりはら)という」とあります
 その下小野榛原が墨坂の地だそうです
 
 佐野命の軍が大和菟田に入られた時この墨坂において賊軍がいこり炭(山焼きの意)をもって防戦したため、天皇の軍は苦戦し菟田川を堰き止め消火して進軍した所でもあります
 この墨坂の神(大物主神)は饒速日尊のことと思われ、佐野命東遷時にはすでに祀られていたと伝えられています
 兄磯城(ゑしき)がここに陣を張っていることから、兄磯城も天津神の子孫と考えられています

 近くに『伊勢街道』の小さな標柱があり、人々の往来があったことがしのばれます
 室生山第八十八ヶ所霊場も有ります


★所在地;宇陀市榛原区あかね台1丁目
★交通;近鉄「榛原」駅下車 徒歩*分
★駐車場;なし
★入場料;見学自由
★問合せ;

 万葉の住坂もこの地と言われています
 近くにある小学校のグラウド脇に石碑があります
『君が家に わが住坂の 家道をも われは忘れじ 命死なずは』(巻4-504)柿本人麻呂の妻 


慈光院庭園

2010年06月24日 | 史跡
 大刈り込みが特徴です 撮影日;2010.05.30

 江戸時代初期に大和河内16000余石を有した大名・片桐石州が造ったと伝わります

 書院の低い軒・広い縁・細い柱が造り出す四角い空間の中に、大刈込みの曲線が対照的で際だちます
 
きれいな刈り込みの庭園 大刈込 慈光院の中庭

 枯山水・借景庭園として奈良盆地を取り入れ、青垣の山々が見渡せます
 庭園に石があまり使われていないのも特徴です

 當麻寺中之坊吉野竹林院群芳園と合わせて大和三大名園とされます
 昭和9年に国の史跡及び名勝指定を受けています

 慈光院には重要文化財の手水鉢があります

女ノ字の手水鉢 角ばらずの手水鉢 独坐の手水鉢 つくばい  

★所在地;大和郡山市小泉町865
★交通;近鉄「大和郡山」駅より バスで「慈光院」下車 徒歩1分
★駐車場;有ります(無料)
★入山料;1000円(抹茶接待料込み)
★開館時間;9:00~17:00
★問合せ;0743-53-3004(慈光院



川原寺跡

2010年01月17日 | 史跡
 弘福寺の前に土壇が復元整備されています 撮影日;2009.12.12

 飛鳥の四大寺の一に数えられた大寺院でしたが、建久2年(1191)殆どを焼失して衰退
 川原寺跡は国の史跡に指定されています
 中金堂は、現在の弘福寺付近にあたります

 珍しい白瑪瑙といわれる礎石は、大理石の一種です

 西金堂と塔は、階段跡などから正対する形で建てられていたと考えられています
 塔跡では再建心礎の下層から、創建時の花崗岩製心礎と鎮壇具と思われる無紋銀銭なども出土してます
 中門から発した回廊は、これら二堂を囲み中金堂に取り付き、飛鳥寺や山田寺と同じ講堂を中枢伽藍外に置く形を取っています

 昭和32~34年の発掘調査で、伽藍配置は一塔二金堂式の特異なものであったことが判明
 「川原寺式伽藍配置」と称されています

 創建時の瓦は「複弁蓮花文瓦」と呼ばれる、8枚の花びらのそれぞれを2つに分けた形式の複雑なデザインのものです
 これが以後の瓦文様の主流となりました 

★所在地;高市郡明日香村川原1109
★交通;近鉄「橿原神宮前」駅より 岡寺行きバスで「岡橋本」下車 徒歩すぐ
★駐車場;有ります(弘福寺に許可を得てください)
★入場料;見学自由
★問合せ;0744-54-2043(弘福寺)、0744-54-2001(明日香村役場)


 参考;ひとしひとひらのページ

飛鳥歴史公園・祝戸地区

2010年01月13日 | 史跡
 東南麓に稲淵宮殿跡の石碑が建てられています 撮影日;2009.12.12 

 文化的遺産の保存・活用を目的とした「ロ号公園」です
 
 祝戸地区は橘寺の南側にある通称ミハ山(フグリ山)の一帯とそれに続く山麓に位置しています
 研修宿泊所「祝戸荘」があります
 大和三山を背景にして広がる飛鳥古京や、奥飛鳥と呼ばれる稲渕地区の見事な棚田風景を一望の下に望める展望台、芝生広場、石舞台地区に繋がる散策園路などが整備されています
 東側の進入路脇にはマラ石があります

★所在地;高市郡明日香村稲淵
★交通;近鉄「橿原神宮前」駅より バスで「石舞台」下車 徒歩10分
★駐車場;無料
★入場料;タダです
★問合せ;0744-54-2441 (飛鳥歴史公園館

 国営飛鳥歴史公園は5つの地区からなります
 昭和45年12月に閣議決定された祝戸地区(7.4ha)・石舞台地区(4.5ha)・甘樫丘地区(25.1ha)の3地区、昭和51年10月に閣議決定により追加された高松塚周辺地区(9.1ha)及び平成13年3月に閣議決定により追加されたキトラ古墳周辺地区(13.6ha)の計59.7haからなります
 現在、祝戸地区・石舞台地区・甘樫丘地区・高松塚周辺地区の計46.1haが概成開園しています



飛鳥稲淵宮殿跡

2010年01月12日 | 史跡
 国営飛鳥歴史公園祝戸地区の入口付近、飛鳥川の左岸にあります 撮影日;2009.12.12 

 昭和51年(1967)の発掘調査で発見された遺構です
 コの字形に配置された掘立柱 の建物とそれによって囲まれた石敷広場がありました
 7世紀中頃から後半のものと思われる土器と硯が出土しています

 その後の調査で南方に広大な石敷遺構が発見され、関連施設が南に広がる可能性もあるそうです
 瓦が出土しなかったことや建物の配置などから宮殿遺跡と推定されています

 白雉4年(653)に中大兄皇子が難波から飛鳥にもどって一時期営んだ河辺狩宮跡という説があります

 皇極天皇の時代の有名なエピソードに雨乞いの話があります
 皇極元年、旱魃が続き、蘇我入鹿が僧たちにお経を読ませましたが、雨は少ししか降らなかった
 そこで天皇自身が南淵の川上で祈ったところ大雨が降りました
 その「南淵の川上」がこの場所ではないかともいわれています
 (宇須多岐比売命神社がその場所だという説もあります)

 昭和41年に国指定史跡になっています

 万葉歌碑があります
 『明日香川 七瀬之不行尒 住鳥毛 意有社 波不立目』(作者 不詳 巻7-1366)
 明日香川の七瀬の淀に住んでいる鳥も心があるからこそ波を立てずにじっとしているのでしょうに

★所在地;高市郡明日香村稲淵
★交通;石舞台古墳より 徒歩10分
★駐車場;無料(20台程度)
★入場料;タダです
★問合せ;0744-54-5600(明日香村教育委員会)

 石舞台古墳の南、約400mのところです

駒帰廃寺(伝安楽寺)跡

2009年12月16日 | 史跡
 奈良時代の仏教文化について知る貴重な遺跡 撮影日;2009.10.25 

 多武峰談山神社の社家蔵の史料「宇陀旧事記」に「安楽寺、駒帰村、本尊阿弥陀如来、七堂あり」と記されているのがこの寺院遺跡のことと考えられています

 七堂伽藍が建っていたとあることから、かなり大きな規模の寺院だったと考えられています

 発掘調査で、昭和45年に瓦窯跡、昭和46年に金堂の跡と推定される西方の建物と、東方に所在するやや規模の小さい建物遺構が確認されました

 創建時の遺構と瓦窯跡が発見され、五葉複弁蓮華文丸瓦などが出土しています

★所在地;宇陀市菟田野区駒帰字トガクボ
★交通;近鉄榛原駅より バスで菟田野町下車 徒歩20分
★駐車場;有りません
★入場料;見学自由
★問合せ;0745-82-2457(宇陀市商工観光課)



歌姫瓦窯跡

2009年11月16日 | 史跡
 ここで平城宮所用の軒瓦・平瓦・丸瓦を焼いていました 撮影日;2009.10.4

 窯の形式は平安時代に一般化するロストル式の平窯です
 軒瓦の形式は比較的新しもので窯が営まれた時期は、奈良時代末期とされます
 昭和51年4月15日に国の史跡に指定されています

 奈良山丘陵にある瓦窯跡は、奈良市と木津川市の両市域にまたがる国史跡指定済みの「歌姫」をはじめ
 木津川市内の「鹿背山」「音如ケ谷」「上人ケ平」「梅谷」
 奈良市内の「歌姫西」「押熊」「中山」の計8カ所有ります

★所在地;奈良市歌姫町・京都府木津川市市坂
★交通;JR平城山駅下車 徒歩10分
★駐車場;なし
★入場料;見学自由
★問合せ;0742-22-1101(奈良県教育委員会)



毛原廃寺跡

2009年11月02日 | 史跡
 全く記録に残っていない大寺院跡です 撮影日;2009.9.23 

 奈良時代、の大寺院と肩を並べていたと思われる
 堂々とした七堂伽藍が立ち並んでいたことを示す礎石群が多数残ります

 金堂は礎石の配置から唐招提寺金堂並の規模を誇っていたようです
 間口約24m、奥行き約13m、30数個の礎石が確認されています
 大半が民家の庭先や畑で見ることができます
 
 南へ40mほど下った場所には中門跡と思われる礎石が10数個点在
 さらに10m下がった地点にも南門跡の礎石が並んでいます
 塔跡の礎石は地中に埋まっているそうです

 寺に関する文献は皆無です
 寺の名称も分かりませんが毛原廃寺跡として国の史跡に指定されています

 東大寺大仏殿建立のため施入された板蝿杣の境域内中心に位置したことから東大寺の杣支配所とも考えられています
 板蝿杣(いたばえのそま)とは:木を植え育て木材を採る山のこと

 地元では史跡保彰会などを作り顕彰しています

★所在地;山辺郡山添村毛原
★交通;近鉄名張駅より 毛原行きバスで毛原神社前下車 徒歩2分
★駐車場;有ります(構造改善センター前)
★入場料;タダです
  地域住民の生活の場です、マナーを大切に
★問合せ;0743-85-0049(山添村教育委員会事務局)

  毛原は笠間川を眼下に見下ろす緑豊かな山あいの小さな集落です


 参考;毛原の里のページ

文彌麻呂の墓

2009年10月13日 | 史跡
 八滝の米山山中に史跡公園として整備されています 撮影日;2009.9.20 

 天保2年(1831)に銅製の墓誌を納めた銅箱金銅製の壺ガラス製の緑瑠璃壺が発見されました

 墓はその後埋め戻され、出土した品は地元の「龍泉寺」に保管されていました
 明治11年(1878)に帝室博物館(現在の東京国立博物館)に移され、昭和27年(1952)に国宝に指定されました

 銅製の墓誌板には
 『壬申年将軍左衛士府督正四位上文禰麻呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒』
 と刻まれていました

 この墓誌から、ここが慶雲4年(707)9月21日に亡くなった左衛士府の長官で正四位上の文禰麻呂(ふみのねまろ)の墓であることがわかりました

 文禰麻呂は大海皇子(天武天皇)に仕え、壬申の乱(672)で功績を残した将軍です
 「日本書紀」「続日本書紀」には書首根麻呂と記されています

 昭和57年(1982)に再調査され、一辺が約2.5mの穴とこれを埋めた粘土などが見つかっています

 この墓は奈良時代の上級官人の埋葬方法が明らかになった数少ない例であり
 昭和59年(1984)4月に貴重な遺跡として国の史跡に指摘されました


 文禰麻呂の墓の前面に、次の万葉歌を刻んだ碑があります
≪さを鹿の 来立ち鳴く野の 秋(あき)萩(はぎ)は 露霜負(お)ひて 散りにしものを≫巻8-1580

 作者は文禰麻呂の子の馬養(うまかい)です
 主税頭や筑後守を経て天平宝字元年(757)には鋳銭長官をつとめた人物です
 
 この歌は橘諸兄の邸宅で催された宴の席で馬養が詠んだ2首のうちの一つとされています

★所在地;宇陀市榛原区八滝
★交通;近鉄榛原駅より 神末・上内牧行きバスで八滝下車 徒歩30分
★駐車場;有ります(トイレも完備)
★入場料;タダです
★問合せ;0745-82-2457(宇陀市観光協会)


 参考;Don Panchoさんのページ

比曾寺跡

2009年07月16日 | 史跡
 日本書紀に吉野寺と記述される寺院跡です 撮影日;2009.6.27 

 聖徳太子が建立した48ヶ寺の一つとされます
 用明天皇2年(587)に創建とも伝わりますが、定かでは有りません
 同寺に残っている瓦や伽藍配置などから、少なくとも飛鳥時代(7世紀後半)には存在していたとされています

 創建時の寺は南面する伽藍で、東西両塔をもつ薬師寺式の配置
 中門手前に東西三重塔の基壇があり、礎石が残ります

 =寺伝によると=
 東塔は、聖徳太子が用明天皇のために建立
 その後鎌倉時代に改築されたことが礎石の一部によって分かっています  
 文禄3年(1497)豊臣秀吉によって伏見城に移され
 慶長6年(1601)徳川家康によって大津の三井寺に移築(現在国の重要文化財として残っている)
 西塔は、推古天皇が夫の帝敏達天皇のために建立
 相次ぐ戦乱に災いされ、惜しくも焼失せりと、今昔物語に記されています

 中門をくぐった所に金堂跡があり
 世尊寺の本堂が建つ場所が、かつての講堂跡です(供に礎石が残ります)

★所在地;吉野郡大淀町上比曾
★交通;近鉄「大和上市」駅下車 徒歩30分
★駐車場;有ります(無料)
★入場料;見学自由
★問合せ;0746-32-5976(世尊寺)

 『日本書紀』欽明天皇14年5月の条に次のような逸話が載っています
 河内の国司から「和泉群の茅渟海から地震や雷のように響くほどの雅楽が聞こえる。
 また、麗しく照り輝き日の光のようです。」と知らせてきた。
 天皇は怪しみ、溝辺直を使わし、海の中を探らせた。
 使いは海の中で照り輝く樟木を見つけ、天皇に奉った。
 天皇は匠に命じて、仏像2体を造らせた。
 今の吉野寺に光を放っている樟の仏像である。


 平安時代には清和天皇や宇多天皇が行幸し、藤原道長が参詣するなど大いに栄えたようです
 中世以降は、相次ぐ戦乱などにより荒廃していきました


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