天地を 照らす日月の 極みなく あるべきものを 何をか思はむ 

わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても あはむとぞ思う

廣徳山萬弘寺と御所峠白山神社

2019年05月19日 | 豊の国
毎年5月18日から一週間、今回1435回目になる物々交換市が開かれる萬弘寺。



萬弘寺。手前は坂ノ市神社。



由緒書きと用明天皇腰掛け石。

寺伝では585年10月に皇子(後の用明天皇)が密かに九州を巡幸した際、蓮城寺、満月寺に滞在の後、白山を越え御所峠より尾田川源流沿いに下り、大河内より畠(現在の畑)、 金道川(砂鉄鉱脈)太良砦沿いに日吉邑、王ノ瀬より海路で都を目指す矢先、難病を患い、安万郡日吉邑(現在の大分市坂ノ市)に滞在することとなった。



白山頂の岩鞍岩座(白山神社)にて行脚の途にあった修験者(畠一族)豊国法師(求菩提山修験行者)が祈祷を行った。後に皇子の病状は回復し無事都へと召喚され、皇位を継承し用明天皇(橘豊日命)となる。山岳修験行者の法力に感銘を受けた皇子は豊国法師を都へと召喚した。以来皇室守護となる。

そして、聖徳太子(豊聰耳命)に命じ日吉邑に大伽藍、重搭を含む大寺院を十数年の歳月をかけて建立することとなった。ゆえに萬弘寺は皇室所縁の十六枚菊花紋を拝している。また、豊国法師率いる求菩提修験者(修験僧)も十六枚菊花紋に山を拝した市松柄衣躰(装束)を許される。(求菩提山資料館)(英彦山修験資料館)

用明天皇の死後、聖徳太子が父天皇の菩提を弔う為に萬弘寺大伽藍を建立する(596年造営開始-604年完成)。

聖徳太子は606年に法華経を講じ、615年に法華経の注釈書『法華義疏』を著しています。



御所峠から豊の海。



御所峠、豊国法師修験場には白山神社。



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