とんねるず主義+

クラシック喜劇研究家/バディ映画愛好家/ライターの いいをじゅんこのブログ 

マドンナによるマイケル・ジャクソン追悼スピーチ

2009年09月15日 20時40分34秒 | MJ
MTVビデオ・ミュージック・アワード2009にて
マドンナによるマイケル・ジャクソン追悼スピーチ全文和訳
原文はこちら→http://www.rollingstone.com/rockdaily/index.php/2009/09/13/read-madonnas-vmas-speech-dedicated-to-michael-jackson/


マイケル・ジャクソン。(拍手)
もうちょっとしゃべらせてね。オーケー、始めます。

マイケル・ジャクソンは1958年8月に生まれました。私もです。マイケル・ジャクソンは中西部の郊外の町で育ちました。私もです。マイケル・ジャクソンには8人の兄弟姉妹がいました。私もです。マイケル・ジャクソンがスーパースターになったのは6歳の時でした。彼は世界一愛された子供だったと言えるでしょう。私が6歳の時、母が死にました。きっとマイケルは貧乏くじをひいたのね。私は母を知らず、マイケルは子供時代を知らなかった。人は、決して手に入らないものがあると、それに取りつかれてしまうものです。

幼い頃、私はずっと母親に代わるものを求めつづけていました。時にその願いがかなうこともありました。だけど、(マイケルのように)世界中の眼に虫眼鏡でのぞかれているような人が、どうやって子供時代をとりもどすことができるでしょうか?

マイケル・ジャクソンが世界史上もっとも偉大な才能であることに、疑いの余地はありません。わずか8歳のマイケルの歌には、まるで経験豊かな大人がその言葉で聴く者の心をわしづかみにするかのような円熟味がありました。彼のダンスは、フレッド・アステアの優雅さとモハメド・アリのパンチをかね備えていました。彼の音楽は、言葉では説明できないマジックに包まれていて、誰もが踊り出したくなったし、それに自分も空を飛べるんだと信じさせてくれた。夢をもつ勇気をくれた。なりたいものに私はなれるんだ、と信じさせてくれたのです。なぜって、ヒーローとはそういうものだから。そしてマイケル・ジャクソンは、ヒーローでした。

彼は世界中のサッカー競技場でライブをやり、膨大な数のレコードを売りあげ、世界中の首相や大統領といっしょに食事をしました。女の子たちはマイケルに恋をしました。男の子たちもマイケルに恋をしました。誰もが彼のように踊りたいと願った。マイケルはまるで非現実の存在のようだった---けれど、彼もひとりの人間でした。

たいていのパフォーマーがそうであるように、マイケルもシャイで感受性の強い人でした。私とマイケルは、特別親しい間柄だったとはいえません。だけど、あれは1991年のこと、私はマイケルともうちょっと親しくなろうと決心したの。それで彼を食事に誘った。「おごるわ。運転も私がする。あなたと私とふたりだけで行きましょ」と言ったの。マイケルはOKして、ボディガードを誰も連れずに、ひとりで私の家までやってきたわ。レストランへは私のクルマで行った。外はもう暗いのに、マイケルはまだサングラスをかけてたの。

「ねえマイケル、なんだかリムジンとしゃべってるみたいな気分になっちゃうわ。サングラスを外してもらえないかな?そしたらあなたの目を見て話せるから」

私がそう言うと、彼は一瞬考えてから、サングラスを窓の外へぽいっと放り投げた。そしてウインクをしてほほえみながら私の方を見て「これで僕が見える?これでいいかい?」って言ったの。
その瞬間、マイケルが脆くて同時に愛らしい人なんだってことが、私にはわかった。

食事の間中、私はマイケルにフライドポテトを食べさせたり、ワインを呑ませたり、デザートを食べさせたり、悪い言葉を言わせたりするのに夢中だったわ。そういうことってマイケルは絶対やらないように見えたから。それからまた私の家に戻って、ふたりでソファに座って映画を観たの、子供みたいにね。映画の途中で、マイケルの手がそおっと近づいてきて、私の手を握った。

その感覚は、マイケルがロマンスの相手よりも友達をもとめているという感じだった。私にその資格があると思うとうれしかったわ。あの時、マイケルはスーパースターのようではなかった。マイケルはひとりの人間だったの。

その後、何度かいっしょに出かけて、そしていろんな事情があって、いつしか私たちは連絡をとらなくなりました。それから、あの魔女狩りが始まった。マイケルにまつわるネガティブな話がとめどもなく話題にされました。私には彼の痛みがわかった。町を歩いていても世界中が自分の敵のように感じてしまう、それがどんな気分か私もよく知っているからです。自分をリンチしようとする暴徒の怒号で、自分の声なんて誰も聞いてくれず、心細くてどうしようもない、それがどんな気分か私にもわかるのです。それでも、私には子供時代があった。だから間違いを犯しても許されるんだと思えたし、スポットライトを浴びていない場所でも自分の進む道を見つけることができたんです。

マイケルの訃報を最初に聞いた時、私はロンドンにいました。あと数日でツアーがスタートするという時でした。マイケルは私のライブの一週間後に同じ町でツアーを始めようとしていました。彼の死を知った瞬間、「私は彼を見放してしまった」ということ以外頭にうかばなかった。私たちは、彼を見捨てたのです。かつて世界を熱く燃え上がらせたこの偉大な人間が、奈落の底に落ちてゆくのを、私たちはただ黙って見ていたのです。マイケルが家族をもち、また仕事を始めようと努力していたとき、私たちはみなそれを冷ややかに見ていました。ほとんどの人は彼に背をむけました。

マイケルの記憶を必死にたどろうとして、私はインターネットにむかい、テレビやステージで歌い踊るマイケルの古い映像を見まくったわ。そして思ったの、「ああ、このユニークさ、オリジナリティ、こんな人他にいない。こんな人はもう二度と現れない。彼こそがキングだったんだ」って。

それでも、マイケルはひとりの人間でした。そして---ああ、私たちもみんな人間なのよ。だから、大切なものを失ってからでないとそのすばらしさを理解できない。

せめてこのスピーチを前向きに終わらせたいと思います。9才と4才になる私のふたりの息子は、いまマイケル・ジャクソンに熱中しています。家では子供達が股間をつかむ例のダンスをやったり、ムーンウォ-クをしたりするのに夢中です。こんな風に新しい世代が、マイケルの才能をふたたび見い出し、よみがえらせようとしているように私には思えます。きっとマイケルはそれを見て微笑んでると思うわ。いま彼がどこにいようとも。

そうよ、マイケル・ジャクソンは人間だった。そして彼はキングでした。
キングの生命よ、永遠なれ!


* * *

そしてステージでは、ジャネット・ジャクソンが、兄のいない「スクリーム」を歌い踊ったということです。

ジャネット、ありがとう。マドンナ、ありがとう。

マイケル。

ありがとう。Please forgive us. Please forgive me.
さよならは言えない・・・





(誤訳がありましたらご面倒ですがメールにて一報いただけると幸いです。逐語訳ではないので、後日修正をくわえてゆくかもしれません。)









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