This is me.

- 無用の用 -

今と昔の若者

2008-10-05 17:10:46 | Weblog
昔の人(団塊の世代と呼ばれる人ら前後)が、今の若者(小・中学生から高校などの学生、または幼稚園に通う幼い子ども)が抱えてる悩みなんかを聞いて、俺らがその時分の頃にはそんなこと考えてなかった、そんなに深く考えてなかった、などと言っているのをよく耳にする。
しかし、昔の人は今の人とは違って、これは前にも書いたかもしれないが、どこか若くして大人な感じだったような気がする。育ちや環境にもよるだろうけど、私の親なんかは中学を卒業してすぐに働き始めた。高校というものに行かなくて、15歳かそこらでいきなり社会人になるわけだ。仕事場ではもちろんそれなりのものを要求されたりする。

若いときにはそんなに物事を考えてなかったという割りには、行動やら言動やらはとても大人な感じがする。この矛盾のようなものは一体何だろう、と考えた。


今よりも寿命が短かったせいかもしれない。それに、若い頃に働き出したために、そんなことを考える暇なんてなかったのかもしれない。考えなくてもやっていけたからかもしれない。考える必要性を感じなかったかもしれない。それはわからない。
もちろん今のように考えている人はちゃんといただろうと思うけど、今みたいに石ころ投げたらそんな悩みを抱えている人にぶつかるというようなことがなかったほど、あからさまに悩み考えている人が少なかったのではないかと私は思う。

60年安保・70年安保なんかを考えてみると、今の人たちが同じ立場や出来事に遭遇した時に、同じ日本人なのに同じように行動するかどうかといえば、私はあそこまでにはならないように思う。
それは今の人たちが大人で、そんなことをしてはいけない、という意見を持っているわけではなく、その頃の情熱やなんかが無くなっていると私は感じる。
とか書いているが、60・70年安保を私自身その内容をよく知らない。少しネットで調べた、その程度だ。知らないくせにこういうことを書くのは無責任かもしれないが。



もう少し色々書きたいのだけど、考えが上手くまとまらない。

考えるところ

2008-10-05 15:18:01 | Weblog
先日書いた記事で、謝ることをしなくなったと書いた。
昨日、そのコメント先の人から「気になっていたんだけど・・・」とまたコメント返しがあった。
やはり相手も気にしていたみたいだった。相手の気になっていた部分は、私の考えていたところとは違ったけど、その、気になっていた、という部分が同じで何故か安心したような気持ちになった。そして、結局私は謝った。
相手もちゃんとわかってくれていたみたいでよかった。結果、謝る必要はなかったことがちゃんとわかった。私の考えで間違ってはいなかったみたいだ。しかし、自分の気にしていることを相手に伝えることが出来てよかった。

やっぱりこうしてやり取りをして初めてわかるものなのだな、と改めて感じた。当たり前のことなんだけど。
話をしないであのまま流されていっても仕方のないことだったし、そんなに大袈裟なことでもなかったが、こうしてもう一度やり取りが出来てよかった。

結局謝ったのかよ、と今書きながら思ったが、すぐに謝る行動に出るのと、こうした経緯による謝るのとでは多少わけが違うと思う。


コミュニケーションとはやはり難しい。おまけに文字だけに頼っているわけだから。
顔文字や絵文字なんかもそこをクリア出来る一つかもしれないが、出来るだけ使わずにいけたらいいなあ、などとまた欲が出てくる。

50『杯(カップ)―緑の海へ』沢木耕太郎

2008-10-05 15:01:34 | 本 2008
沢木耕太郎『杯(カップ)―緑の海へ』


【内容情報】
「最高のもの」に出会う―。自国を応援する楽しみと並ぶ、ワールドカップならではの喜び。自らを「アマチュア」と呼びながらも、W杯サッカーの魅力をそう喝破する著者は2002年、日韓を無数に往還した。東京、ソウル、済州島、横浜、光州…幾多のゲームの興奮を記すと同時に、旅人の視点から両国の土地と人間を深く静かに見つめた、汗と風の香り立つ異色の日韓W杯観戦記/漂流記。



やはり沢木さんのこの手の本は面白い。
サッカーには全く興味がない私でも楽しく読むことが出来た。
それは私自身が、沢木耕太郎という人物に興味があるからだと思う。誰かを取材して書いている本よりも、こうして沢木さん自身が移動し、何かに触れ、何かを見、そして何を感じたか、何を思ったか、がとても興味深い。

解説で最後に『沢木さんは色んな「最高」に出会える運と目を持った、選ばれた人なのですから。』と書かれているが、読んでいて本当にこの人はそういう人だと思った。

再会

2008-10-05 01:30:15 | Weblog
何回か前の記事にちらと書いたが、今日、前の会社の先輩二人がこちらに遊びに来た。
思ったのだが、先輩と書いているけど、今はもう私は会社の人間ではない。言ってみれば、ただの前に勤めていた後輩、に過ぎないと思う。それなのに、こうしてこちらに遊びに来てくれた。その事実がとても嬉しかった。

キタで待ち合わせをして、夕食を一緒に食べた。一軒目は炉端焼きのお店。二時間制でお店を出てもまだ時間が早かったので、二軒目に行った。それから一人の先輩は同じ近畿に住む妹さんの家に行ってしまい、残ったもう一人の先輩とお茶をして帰ってきた。

去年、私が会いに行ったときも感じたが、数日前なんであんなに会うのが憂鬱だったのだろうと思えるぐらい、本当にみんないい人で、また会うことが出来て本当によかった。
今日来てくれた人と話をして思った部分もあるが、改めて思った一番の出来事は、今日来てない人からまでお土産をもらったこと。これに一番感動した。今でも気にかけていてくれることがすごく嬉しい。
その人は同じ部署内だったのだけど、違うグループの人だったにも関わらず、すごく面倒をみてくれた。
私が向こうで仕事が出来なくて休んでいたときに、食べ物を持ってきてくれたことがある。
家に着いたら連絡を入れるけど、寝てるようだったら出なくていいからね、と言って、玄関のノブにまるで傘地蔵の様に持ってきたものを置いていってくれた。
私は車の音で先輩が来たのがわかったが、その時は出来るだけ誰にも会いたくなく、結局、寝ている振りをし出なかった。
帰りにその時の様子を思い出しながら歩いていた。
私、なんであの時ちゃんと対応できなかったのだろう、と。
しかし、あの時は仕方なかった。本当に誰にも会いたくなかった。カーテンを閉じたまま薄暗い部屋で一日寝ていた。
会う人と言えば、会社を休むための書類を持ってきてくれる人だけだった。その書類にサインしなければ休めなかったからだ。
それを考えると私は本当に良くなってきたんだなあ、と思った。

今日先輩から「えりちゃんは仕事覚えるの早かったんだ、って思ったよ」と言ってもらえた。嬉しかった。
当時は、その先輩に後輩がそれまでに居なくて(年は5つ上なのだけど女の子の後輩がいなかった)どんなものなのか、基準がなかったらしい。私がその先輩の初めての後輩になり、その基準になったみたいだ。今居る子と比較するとそれが感じられたとのことだった。
自分で希望して異動したので自分なりに努力をしていたつもりだった。それが認められたというのは嬉しかった。

色々話をしていて思ったのが、やっぱり前の会社は楽しかった。すごくしんどくて、大変だったけど、それでも出来たものが見えるということや、やりがいなどがあり、楽しかった。私はあの仕事が好きだった。

世間の風潮や流れ?みたいなのもあるだろう、今はだいぶシステムが変わって以前のように遅くまで残業はしていないらしい。身体的な負担はだいぶ軽くなっているようで、安心した。

もうこんなことは無理だろうけど、もう一度あの人たちとあの仕事がしたいと思った。派遣でもいいから、もう一度あそこであの仕事がしたい、と。
だけど、これは叶わぬことだろうし、私も現実的にチャレンジはしないだろう。
たぶん、ここからこういうふうに思うことでいいのかもしれない。
とにかく、ちゃんとした仕事がしたいと思った。今の仕事がちゃんとしてないわけじゃない。だけど何ていうのだろう。やっぱりフルで働きたい。

最近、考えていた。これからどうするか。
今年いっぱいで今の仕事を辞めて、来年から新しい仕事を探そうと思っていたけど、やはりもう少し様子をみてみようと思った。2年半ほど休んだから、やはり今の仕事を2年は続けてみる。と言っても、来年の6月で2年になるから、もうすぐなのだけど・・・・・・。
今の状態が楽だからではなく、今の状態でも少ししんどいからだ。
最近やはり調子が悪く、昨日は母に「最近しんどそうやな」と言われてしまった。
普段母は気付いても言わない(と私は思っている)。その母に言われて、自覚していたのだけど、やっぱり少し疲れているのだと思った。
一体何に疲れているのだろう。
最近仕事はたいして行ってない。週2ぐらいが続いている。
その代わりと言ってはなんだが、自分のペースでないことが起きている。今日のことなんかもそうだが、それはいわゆる、遊び、に属するものだと思うけど、それさえにも乱されるらしい。その時はすごく楽しく過ごすことが出来るのだけど、どうやら疲れのようなものが蓄積されていっているようだ。遊びで何故疲れるのか。本当に嫌になる。
以前と比べると疲れが取れるのは明らかに早くなっているのは確かだ。
しかし。
この状態をどうするべきか。いずれにしても焦りはいけないのだろう。

謝るということ

2008-10-03 01:00:16 | Weblog
まあ、なんだかんだと書いておきながら、つらつらと書いてみる。



最近やめたこと。
ちゃんと言うと、やめるようにしてること。もっと詳しく言うと、その前に少し考えてから言うようにしていること。
それは、ごめんなさい、という言葉。
私はこれまでにこの言葉を結構使っていたように思う。だがしかし最近、ほとんど何も考えずただその場凌ぎで謝っているのに過ぎないのではないか?と思うようになってきた。
考えてみると、悪いわけじゃないのに謝っていることが結構ある。
ここ最近だけで3回ほど、この言葉を飲み込んだ。その代わり、お礼を言うようにしている場合もある。
「ごめんなさい」と「ありがとう」が代われるのか?
代われる場合もある、ということ。

ついさっきも謝ろうとしたけど、やめた。
ネットである記事を読み、それに共感する部分があったからコメントを書いた。
しかし、相手はそれに触れて欲しくなかったようなことを書いていた。
触れてしまったことは悪かったな、と思い、すぐに謝りのコメントを入れようとしたが、やめた。
ここは私が謝るべき場合だろうか?と考えた。
別に謝る場合じゃないだろう。
ネットという場所に何かを書くということは誰からも見られるということ。そして、何らかの反応があるかもしれないということは、当然予測が出来ることだ。そもそも、そうしてコミュニケーションをするのだし、それがあって当たり前なのだから。
とかとか何とか書いてるけど、なんだかただの言い訳のようにも思えてきたなあ。ここはやっぱり謝るべき場合かもしれないかも。
はーぁ。わからんなあ。
こういうことがあると、もうコメントとか残したくなくなる。どれが相手の何に触れるかがわからん。それによって気を悪くしてしまうぐらいなら、もういっそのこと何も言わないほうが、当たり障りのないことだけ言ってる方がましじゃないかとさえ思えてくる。まあ、これは言いすぎだろうけど。相も変わらず極端な性格。




最近、目から鱗的な感じがあったこと。
怒る振りをする、ということ。
一つは森さんのブログかな。もう一つは今読んでいる沢木さんの本なのだけど、自分の意志を伝えたいためにわざとこうする場合があるということが書かれてあった。
なるほどなあ、と思った。
見る角度を変えるといやらしいかもしれないけど、これって重要で、且つかなり高度な技なんじゃないだろうか。
でも、時には怒るということも大事だ、ということなんだろうなあ。

まだこれも相も変わらず考えている、私がなぜ相手に怒れないかということ。
一瞬ムッとする。しかし、その後、その自分がムッとしたことに対するフォローの考えが浮かぶ。そうじゃないかもしれないじゃない的なことを。そうすると、怒る自分が間違っているんかな、と思えてくる。
怒る、怒ると書いているけど、私の場合はなんていうのだろう。怒るというか、全般的に伝えるという行為を指すのかな。
見方によったらいい場合もあると思う。だけど、自分自身にストレスのようなものを感じるのはいけないだろうなあ。
フォロー的な考えが浮かぶのだけど、結局それを飲み込めてないんだろうな。
だから、いつまで経っても悶々としているんだろう。




よく考えてみたら、結局自分のことしか考えてない。当たり前の話なんかな。だけどなあ、もっとこう他に何かあるだろう、とも思う。



まとまりがなく書き散らかした感があるな。

過剰

2008-10-02 00:44:15 | Weblog
今日は友達の結婚式場の展示会(というのかな)に付いて行った。
引き出物の展示や、披露宴会場にお花や食器で飾りつけとかがしてあった。
置くものによったら全く違う雰囲気になりますが、だいたいこういう感じですよ、という、なんていうのだろう、まあ展示会に行ってきた。

ああいうとこへはもちろん初めて行ってきたのだが、なんかあれ、雰囲気が全然違う。色んな人が座ってプランナーさんと話し合ってるのだけど、みんなの出してる雰囲気というかオーラというかが違う。
やっぱり場違い的な匂いを感じずにはいられなかった。
友達はデジカメを持ってなかったので、母のを借りて、それで色々取って、さっきそれの整理をして彼女に送ってあげたのだけど、それを見ながらやっぱりなんだかなーという気持ちになった。
やっぱり羨ましいんだよな。
結婚式に向けてとか、一緒に生活を始めたとか、もうたくさん色んなことでもめたりなんたりしてるみたいだけど、やっぱり羨ましいと思っている自分がいる。
あー私にもこんな所に訪れる機会はあるのかしら、と思ってしまう。と、いうか式を挙げる気は全くないのだが。じゃあそもそも訪れる機会はないだろうなあ。というか、そもそものそもそもだよなあ、とか考える。うーん

結局今日も何も話さず帰ってきた。
まあ主役は彼女だったからあれなんだけど。
でも、なんだろう。私のしょーもない話をする間がないというか。
でも別に特に話することなんかないんだけど。と言ったら終わりで。
これはただの強がりみたいなもんじゃないかと一人で苦笑い。


少し前に東京に行ったときにも誰にも言わずに行った。
たまたま友達が母にメールをして、それで私が東京に行っていることを知った。
先日友達とご飯を食べに行ったら「沖縄に行ってきたから」と言ってお土産をくれた。今までにも何度かもらっている。
しかし、私は何も言わず、何も買わず、帰ってくる。
これってどうなんだろうなあ、と思った。
そして、彼女たちは日曜日だったっけかな。一緒に買い物に行ってたみたいだった。まあ誘われないことなんてしょっちゅうで、今更気にはしてないんだけど。と書いていること自体がきっと気にしているということなんだろうな。
しかし、私は日曜には一人で演劇を観に行ってたわけで、当然買い物には付き合えなかった。
それに、何にでも3人で行動しないといけないわけじゃないし。今日だってまあ二人で行ってきたわけだから。というか、一人は仕事だから来られないから、私に声をかけてくれただけの話だと思うが。
それと、日曜日の買い物の話のあとで自分が演劇を観に行ってきたこととかを話そうと思ったけど、結局それが言葉になることはなかった。

こういう思考がいけないんだろうなあ。

私はブログに書くことによって人に話せなくなっているのかもしれない。とふと思いついた。
ここに書いてしまったらそれで私からその出来事は一時的にでも離れていく。
そうするともう誰かに言ってしまった気になってるのかもしれない。かもしれないじゃなくて、そうなんだと思う。

ブログに色々書くのやめてみようかな。
しかし、だからといって誰かに電話をしたりして取り留めのない話をするかと言えばそうじゃないだろうし。
さりとて。





全然違う話になるが、最近Unknownでコメントを頂く機会が前より多い。
3つほどあったと思うが、一人は書き方でだいたいわかった。確認はしてないが多分間違いはないだろう。もう一人は、この人かな?と思う人がいたのだけど、聞いてみたら違うかった。でもあの書き方って、と若干気になっている。
まあ、でも考えてみたら名前なんてネットではほとんど意味がない。偽名で、その偽名だっていくらでもあるんだし。
さりとて。





あーいかん。このままではちょっといかん。