イギリス料理を抽出したものがそろそろ満杯になってきたので、
勢いに任せて書いた個人的な感想はこちらに移動させてしまおうと思う。
(ついでにハミ出た料理もここにリンクしていこう)
↓
※全部が全部完全に正しいという訳でもないだろうが、こうして並べてみると見えてくる事もある。
やっとスタートラインが見えたような。
ここにない英国風カレーライスや本物のアップルソース(←まだシナモンが苦手で)・本物のハギス(←材料が手に入らないか?)を付け加えればほぼ自分で出来る入門編により触れられる感じか?
ただ、こうして抜き出してみると自分の弱点と気付かなかった部分が浮き彫りになってきて、特に足りない部分や新たなそびえ立つ大きい壁が目の前に見える。
何かの突破口になれば。
サラダを作っている時に気付いたのだが、ドレッシングを多めに作り、全部かけず別の容器に入れたドレッシングで自分で足りない分かけるカタチの方が断然、相手や食べる人の事や味覚を気遣って優しいと気付けた。
自分の味覚や感覚に他人を合わさせようとする事は年齢に関係なく成熟をしていないエゴだし、逆にイギリス料理はそういう部分が食べる人間側を尊重している。
自分の好きな味付けにすることで自身のPersonalityを再確認出来る要素があり、
調理から食事、更に食べながら味を作る過程から、素材や料理とも対話出来る。
素材の長所を活かしつつ自分が納得して食べる感じ。
それにイギリス人は他人の立てる風評にいちいち腹を立てるほど子供ではないという。
他人同士、指紋の様に全く同じ味覚と感性なんて絶対に有り得ないから
子供だろうと立場の弱い者だろうと人間として相手を尊重し
相手の味覚と感性を尊重する余地を残してあげる事が、年齢や立場に関係なく提供する側の大人の成熟した対応、それは飲食業のサービスや接客にも通じる。
他国との料理を比較し考えさせてくれることも、極端なイギリス料理の必要なポジション。
最初のケルト人やバイキングや、支配が及んでいたローマ人が残した文化もベースにはあると思うけれど、鎖国していた日本と違い(←占領されなかった良い点はあったけれど)、イギリスは植民地政策や探検で諸外国へ出て行き、他国の文化を持ち帰り、自国でアレンジと熟成させ、それを更に又諸外国へ伝える事を繰り返したので、
実は美味しいものを知り尽くすと、結局最後に行き着く所、極限まで無駄なものをそぎ落としたシンプルな味や姿になったり向かったりしていくのだろう。
又、その素材を活かした素朴さが人間の温みともシンクロをしている。
私が子供の頃、料理雑誌でイギリス料理を見た時「世界中の調理法の原点を【解り易く】観た」気がした。
外国の料理を勉強していると・・・、えっ?こんな料理法があるの!!?と、たまに驚く時があるのだけれど、今でもイギリス料理を作ると、世界中の料理方法の基礎みたいなものが作っている過程で垣間見れる時が結構ある。
それが素材を活かしている味付けだから、最終的ゴールに直結するような気がして。
味を付けていないのではなく冒頭にも書いた様に食べ手に択ばせる余地を残す、相手のPersonalityを尊重するというか・・・、
それは食べる側も素材の味と自分自身の嗜好をきちんと把握していないと出来ないこと、
作り手と食べ手共にお互いの精神が成熟していないと成立しない。
↑
これを説明しない事もイギリスらしさなのかもしれないが、イギリスから見ると外国人である日本人の私は、このように勝手に解釈をしている。
それにしてもやればやるほど、新しい発見はあるな。
勢いに任せて書いた個人的な感想はこちらに移動させてしまおうと思う。
(ついでにハミ出た料理もここにリンクしていこう)
↓
※全部が全部完全に正しいという訳でもないだろうが、こうして並べてみると見えてくる事もある。
やっとスタートラインが見えたような。
ここにない英国風カレーライスや本物のアップルソース(←まだシナモンが苦手で)・本物のハギス(←材料が手に入らないか?)を付け加えればほぼ自分で出来る入門編により触れられる感じか?
ただ、こうして抜き出してみると自分の弱点と気付かなかった部分が浮き彫りになってきて、特に足りない部分や新たなそびえ立つ大きい壁が目の前に見える。
何かの突破口になれば。
サラダを作っている時に気付いたのだが、ドレッシングを多めに作り、全部かけず別の容器に入れたドレッシングで自分で足りない分かけるカタチの方が断然、相手や食べる人の事や味覚を気遣って優しいと気付けた。
自分の味覚や感覚に他人を合わさせようとする事は年齢に関係なく成熟をしていないエゴだし、逆にイギリス料理はそういう部分が食べる人間側を尊重している。
自分の好きな味付けにすることで自身のPersonalityを再確認出来る要素があり、
調理から食事、更に食べながら味を作る過程から、素材や料理とも対話出来る。
素材の長所を活かしつつ自分が納得して食べる感じ。
それにイギリス人は他人の立てる風評にいちいち腹を立てるほど子供ではないという。
他人同士、指紋の様に全く同じ味覚と感性なんて絶対に有り得ないから
子供だろうと立場の弱い者だろうと人間として相手を尊重し
相手の味覚と感性を尊重する余地を残してあげる事が、年齢や立場に関係なく提供する側の大人の成熟した対応、それは飲食業のサービスや接客にも通じる。
他国との料理を比較し考えさせてくれることも、極端なイギリス料理の必要なポジション。
最初のケルト人やバイキングや、支配が及んでいたローマ人が残した文化もベースにはあると思うけれど、鎖国していた日本と違い(←占領されなかった良い点はあったけれど)、イギリスは植民地政策や探検で諸外国へ出て行き、他国の文化を持ち帰り、自国でアレンジと熟成させ、それを更に又諸外国へ伝える事を繰り返したので、
実は美味しいものを知り尽くすと、結局最後に行き着く所、極限まで無駄なものをそぎ落としたシンプルな味や姿になったり向かったりしていくのだろう。
又、その素材を活かした素朴さが人間の温みともシンクロをしている。
私が子供の頃、料理雑誌でイギリス料理を見た時「世界中の調理法の原点を【解り易く】観た」気がした。
外国の料理を勉強していると・・・、えっ?こんな料理法があるの!!?と、たまに驚く時があるのだけれど、今でもイギリス料理を作ると、世界中の料理方法の基礎みたいなものが作っている過程で垣間見れる時が結構ある。
それが素材を活かしている味付けだから、最終的ゴールに直結するような気がして。
味を付けていないのではなく冒頭にも書いた様に食べ手に択ばせる余地を残す、相手のPersonalityを尊重するというか・・・、
それは食べる側も素材の味と自分自身の嗜好をきちんと把握していないと出来ないこと、
作り手と食べ手共にお互いの精神が成熟していないと成立しない。
↑
これを説明しない事もイギリスらしさなのかもしれないが、イギリスから見ると外国人である日本人の私は、このように勝手に解釈をしている。
それにしてもやればやるほど、新しい発見はあるな。