何の記念日でしょうか。私の記念日です。子供のころから、夢だった、海外で仕事を教えることが実現した日でした。太平洋戦争で父親の世代が大変迷惑をかけたことは子供のころから知っていた。その償いを少しでも肩代わりしなければならないと思っていた。1996年の今日、インドネシアへ赴任してきました。もう、14年になります。昨日の写真のPT.KITAGAWAでした。以来、インドネシアから出たり入ったりしましたが、インドネシア滞在は正味でも10年は超えているでしょう。
名古屋空港、当時は小牧からバリ経由でジャカルタ入りをした。ジャカルタへ着いて町を通り抜ける時、タマンアングレックの手前の高架を通過中、ジャカルタの夜景が素晴らしかったことを感じた。既に大都会だった。しかし、何日か後に、汚い、臭い町だと感じ直すことになった。何カ月か後には、住みたいと思わなくなった。
ジャカルタを通り越し、ブカシを通り越し、三人(射出、経理、押出)が、リッポチカランのクラウンコートへ案内された。その他の四人はチトライン(当時のロータリーを左折すればEJIPですが、そこを真っ直ぐ行った右側のホテル)どちらも、今でも健在。いきなり、地方でした。一台のキジャンに七人乗って会社へ行き、今の月山の辺りにあった飯場でミーティングをした。トイレは簡易でした。
工事が始まったばかりで、荒涼たる風景の中、乾季だったので、砂塵が舞い、その向こうにヤギや牛や羊が草を食む姿が見えていた。すごいところへ連れてこられたな、もう少し(二三カ月)後の方が良かったのではないかと感じた。初代の現地社長さん、私より5才年上でした。その他の6人は30~40歳と若かった。私は52歳でした。社長さんの張り切りようは異常と思えた。トヨタのフィリピン工場を立ち上げたという経験の持ち主で、英語がペラペラ、現地の人にいきなり英語で怒鳴りつけているところに出会った。そのごも、一緒に赴任した若い日本人に怒鳴り声が飛んだ。そして、私にも、飛んできた。すごい人が世の中にいるものだと、インドネシアへ来て初めて知った。
その後も、インドネシアで、“ジキルとハイド“そっくりな人と多く接することになる。PT.AFのN、PT.KIのHとI、PT.TAのKなど、すごい人たちに接することになってしまった。社長をしていた時にはこういう人種が世の中にいることを全く知らなかった。プッツン病を抱えた可哀そうな人たちが多いことを知った。外の顔と内の顔が極端に違う人、あの人が?と思うくらい丁寧な人が、自分のほうが地位が上だと思えば、ヒドイ、乱暴な言葉で怒鳴る。逆らったら、相手を震え上がらせる。殺されるのではないかという恐怖を感じさせる。
その間にも、インドネシア人や取引先の人々に押出のことを伝えてきたし、実際、多くの人や会社の手助けをしてきたと思っている。
ただし、その会社の運営者としては私の存在は邪魔だったのでしょう。オーバーにいうと、支配者は、支配する対象の人たちが、他の人のことを信じてしまい、付いていってしまうことを恐れる。キリストが迫害され、日本でも、信長がキリシタンを弾圧したり、比叡山を焼き払ったりしたのと同じ理屈と心理だと思う。
そんなこんなで、今も、インドネシアにいて、追い出された会社に堂々と戻っているわけで、巡り合わせというか、運命というか、人生いろいろだと思う。もうしばらく、インドネシアにいるでしょうが、年も年だから、今後は、肩の荷を軽くして、張り切らないで、あまり、出る釘にならないで、経営の人から疎外されないようにおとなしくしようと思うが、インドネシア人の私への親しみは他の日本人がどんなに色々な方法を使おうとしても、私に並ぶことはできないでしょうから、そう長くいない方がいいと思う。
主がいないKURSI SOMBONGです。この机の前に立たされて、ふんぞり返った十歳年下のおバカさんから「無責任でしょ、」と、怒鳴られた場所です。原因は、手前の机に席にいた秘書兼通訳の根も葉もないゴシップの告げ口でした。自分で確認する能力を持ち合わせていないので、変な通訳のいうことを信じてしまって人を恨んだり、阻害したり、評価をしたりする人でしたから、インドネシア人は気の毒でした。それらのインドネシア人の殆どを呼び寄せて、今、一緒に仕事をしている。全員が、私がインドネシアならどこでも行く処へ付いてくるのです。最期(7月末)まで、PT.KITAGAWAいた、通訳以外の人たちも今月末から、私の元へ来てもらうことにした。
PT.NANBU2(旧PT.KITAGAWA)から、PT.NANBU1を望む。背丈ほどの雑草はつい一週間ほど前に刈られた。
記念 転機 人種
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