元気なお爺さんだが左肩の内部が痛くて肩が上がらなくなっている。毎朝のラジオ体操で痛いのを我慢すれば上げることはできる。上げなければ痛くない。右ひじの腫れは大分すいてきたが、肘の突端はまだ、何かは云っているようにコブがある。動かさなければこちらも痛くないがちょっと重いものを持つと痛む、肘を使うなと医者からは云われているが、そんなことは無理である。
右肩については痛さがそのままなので、何とかしなければならないと思っている。原因は、他には無い。ゴルフのやり過ぎである。痛いと思いながらゴルフを止めなかったのです。次第に痛さが増してきていたのに続けていたからです。ゴルフくらいでこんな風にはならないよと、医者は云うが、ゴルフを9日間の内一日休んだだけで、8日間やったのです。その一週間後も土日二日間やった。その間、痛さが増していた。それから、約、三週間やっていない。痛みはそのままで治りもしないがひどくもならない。
今月末にインドネシアで二つのコンペに参加するつもりなので、それまでに、治ってしまうと良いがと思うが、治らないでしょうね。
日本の車の中でインドネシアの古いCDを聞いている。DESI RATNASARI,ANAN dan KRISDAYANTI.MAYAN SARIとGUSANこれらはみんな15年くらい前に買ったものです。当時はまだ、完全にカセットテープの時代で、CDの売り場は10分の1もなかった。一番最初買って聞いた曲はSAMPAI HATIでした。今は司会で忙しいデシ ラトゥナサリの歌でした。彼女、私好みの理性的な美人で、また、声が好きだした。サンパイハティという歌を何回も聞き返しながら、インドネシア語の辞書で単語の意味を調べたものです。失恋の歌なので、苦い思い、ラサ パヒッドとか、私の涙がこぼれる、ジャトゥ アイル マタ クとか、私は待たなければならない、アク ハルス ムヌングゥなどの言葉を覚えた。一般的に普通に使われる言葉ですから、非常に役だったし、インドネシア人に歌って見せれば拍手喝采でした。
思い出と言えば、インドネシアに赴任して、オープニングパーティー、セレモニーが終って、お客さんがいなくなりインドネシア人と日本人数人が残っていたその場で、何かを歌えと云われて、“可愛いあの子は誰のもの“という歌を最初日本語、次にインドネシア語で歌って、やはり、皆さん、大喜びをしてもらった。ノーナマニシャパヤンポーニャンNona manis siap yang peniyaという歌です。小学校の時にインドネシア語とも知らず、キャンプファイアーの回りで歌っていた。
その他にも、クイカイマニマニ ダスキ クイカイコ、正しいかどうかも、何語かも、どんな意味かも知らずに歌っていた歌の一つが、ノナマシャパヤンプーニャンでした。ブンガワン ソロは日本語の歌詞で歌っていたが、インドネシアへ来て初めてCDを買い、インドネシア語で歌う練習をし、今では、完全に最初から最後まで歌うことができますが、古いし、古典的メロディ(クロンチョン)なので、インドネシア人の若い人は殆ど知らない。カラオケで知っているぞ、と、云う風に歌っても、女の子はお世辞拍手をするだけで、場が白けムードになることを感じるので、歌うのは、鼻歌だけである。
ANAN dan KRISDAYANTIは離婚してそれぞれ結婚したり、婚約したりしている。MAYAN SARIは二代大統領スハルトの長男の第二夫人になっている。GUSANは約二年前に亡くなった。
どうでもいいけど、ミーハーっけもある私はインドネシアの芸能界や政界、スポーツ界などのゴシップについても多くの日本人より詳しいと思う。
走って追いかけながら見送ってくれる。アニメに夢中になっている二人。
無茶 届く 涙