ある記憶

遥か遠くにいってしまった記憶たち

やはり

2011-09-17 20:12:38 | 
どんなにはしゃいでみせようと、どうしても自分から逃げられない。
仕事から逃避したい自分、くだらない日常から逃避したい自分、
家族やしがらみから逃避したい自分、そして、
「自分」から逃避したい自分。
こんな自分を語る僕という自分は、いつもいったいどこに存在しているんだろうと思う。
人間は少なくとも3つ以上の人格を持っているという。
本来の自分、人格を僕はどうやって認知するんだろう。
普段の自分はケースバイケースで自分の「顔」を変えているはず。
もはや意識もしない習慣、処世術、行動や言葉としてずーっと以前から、
息を吸ったり、排泄したりといった体の機能と区別がない。

逆に僕の核となっている自分に戻る瞬間はどんな場合なんだろう。
よくよく考えたとき、思い当たることがひとつある。

逃げ場を失ったとき。

そう、それだ!
逃げ場があり逃げ続けられる内は決してコアの自分は出てこない。
追い詰められて始めてかま首をもたげる。

なぜ本来の自分でいられないの?
社会の諸関係、経済条件、すなわち直面する「現実」と思い切り衝突するから。
自分を取り巻く現実と対峙し、自分を貫くことの非現実性に、
若い一時期の体験からか、悟りにも近い領域で、ずいぶん昔に承知し切ってしまった。
「諦観」。
その途端、それでも生きて行くのだとすれば、
本来の自分を深く沈潜させるより他仕方なかったのだろう。
方便さ。生きるための方便。
それが僕の無意識のうちのいくつかの自分、いくつかの顔を形成させた。
誠実な市民づら、その苦痛ゆえに別の自分は自棄になる。ギャップがかなり酷い。

自分と自分が衝突し均衡が崩れ、
困り果ててはじめて、僕は本来の自分に帰る。
現実世界に自分が登場するのはこんなギリギリの瀬戸際。

いま、本来の自分に帰っている瞬間に僕はいる。
そう、「逃げ場」がなくなった。
いくつかの自分に対しコントロールを失ってしまったのだ。

ろくな生き方をしてこなかったが、僕はきっとろくな死に方をしないだろう。
せいぜい世間に迷惑だけはかけないようにしよう。
そういまの自分は思っている。

けど明日からまた違う自分に支配される自分という、
ひたすらループするパラドックス・・・。

ん!?
こんなことを別の地点から観察しているのは、
いったい誰?

すべての自分を俯瞰する神に近い何ものか・・・

最新の画像もっと見る