ある記憶

遥か遠くにいってしまった記憶たち

大宇宙の法則の前で僕らは

2010-03-14 09:46:47 | 

こんな朝のマラソンはとっても気持ちがよい。
少し肌寒かった先週から今日は春のまろやかな空気に変わっている。
早咲きの桜が咲いているのを見ました。


走りながら今日考えたこと。

大宇宙の法則、地球の法則、国ごとの法則、そして僕ら個人の法則。
大きいものから小さいものへ、小さいものから大きいものへ。
何らかの力で結びついているのだろう。
僕には計り知れない。

宇宙を理解することはできない。
多分僕らの時間からすると無限といってもよいし、
どんな構造でどんな動きをしているのか。その法則など知る由もない。
けれども地球も、世界も、日本も僕らもその一部に過ぎないのだろう。

地球という1個の星に限ってみても僕らには無限に感じる。
過去何億年、これからも数億年という単位で続くのでしょう。

それではこの星に無数に点在する世界は、日本はとなると少しは実感がわく。
無限から有限という感覚。それでも僕らの時間からは遠く隔絶されている。

僕らの一生という時間はせいぜい80年くらいでしょうか。
僕らを貫く法則は「生まれた途端に死に向かっている」こと。
そして「生のバトンタッチ」をするために新たな生を生殖により作り出すことを宿命とされていること。

生と死の連鎖。

そんなことを僕らの日常はほとんど意識させません。
それぞれが喜怒哀楽しながら好きに生きているのでしょう。
それでいいのだと思います。

自分たちは日々死に向かって生きていることを自覚して生きることは多くの人にとって辛い。
それを乗り越えて達観、開眼した人はより良い生を生きられるのかもしれませんが、
そんなことは一部の人が可能なことであって一般化はできません。

多くの人はうすうす気が付きながらどうにもならない死の現実を目先の享楽や瑣事の連続の中で意識下に置くことによりかろうじて生きている。
僕もそのひとりです。

出家する、洗礼を受ける。
宗教に入信することで苦悩から解放されるというのも一つの道でしょう。
僕はそんなきもちはさらさらない。

こんなことで僕らが生の修羅場でもがいていても、
日本や世界は、何にも変わらないし、何も影響を受けないのだろう。
ましてや地球、大宇宙は微動だにしない。

しかしながらそんな大宇宙でも芥子粒にも満たない僕らのような存在の無限の寄せ集めなんだろうと想像していました。

何ともむなしい循環的な思考。
こんなことを考えていました。

こんな春麗な空気の中で変な奴だよねまったく…