明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昨年より、三島が台本を書いた『椿説弓張月』の武藤太に聖セバスチャンを見付けた、とはしゃいでいた私であったが、上演が死の前年、昭和44年だと知ったのは、実は昨日ブログを書いている時であった。例によって年月日に疎い私である。となると、三島が未完の英雄と呼んだ源為朝に翌年死ぬ自身をなぞらえていたであろう事は想像に難くない、三島をむしろ為朝にすべきではないか?と考えないではないが、本来私がいの一番に手掛けるはずの聖セバスチャンの殉教を三島本人にやられてしまっていた、という私から創作の快楽を奪った三島への恨み?が晴らせない。では両方やれば良いかというと、江戸川乱歩に明智小五郎と怪人二十面相の二役をやって貰うようなもので、あまり様子が良くない。それはともかく、そんな事より。 『椿説弓張月』が死の前年であった事を知り、一年後の市ヶ谷の“バルコニーの場”で「もはやこれまで。」踵を返して割腹。悲劇的な死の演出のために自衛隊員の轟々たる野次も、三島の計算であったことを改めて確信した。そう思って起筆日が11月25日の『仮面の告白』を読むと、この主人公は、この後、あらゆるものを利用し、自分の絵図通りに死ぬために着々と準備を進めながら生きたのだな、と戦慄する。 腹を切ることはなんとかなるとしよう。介錯はいくら親友でも頼めない。頼めたとしても、そのための心得、練習をした友など何処にいる。しかも三島が愛したバチカンの“アンテイノウス像”を想わせる、かつ“理智に犯されぬ肉の所有者”がベストである。となれば、三島以外の方法があるだろうか? 老人となった現在はともかく、当時盾の会自体が、理智に犯されぬ肉の所有者の集団であった。鈴木邦男さんにお会いした際、盾の会について、ある質問をした。その答えが「連中は本なんか読みませんから。」であった。


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