三島が様々な状態で死んでいるところを制作する、幻の薔薇十字社版『男の死』に敬意を表しての私の『椿説男の死』だが、三島が例えば映画『憂国』の撮影中「もっと血を!」と要求したり、歌舞伎『椿説弓張月』で、最前列の観客に血かかかってしまいそうなくらいの血糊を使い(寺山修司との対談で、あそこまでやるつもりはなかったといっているが、あんたがそうしろっていったんじやないか、と関係者は言いたかつたに違いない。)私も三島の御要望に答え、一人分とは思えない出血大サービスをした事もある。また死んでいるということで、つい目を閉じてみるが、考えて見ると、死んでもかっと目を見開いていてこそ三島だ、という気がしてきた。それに死んだからと言って必ずしも出血するとは限らない。三島に対するサービスを大概にしておけば、三島がただ佇んでいるように見えても良いだろう。作者の私が死んでいるのだ、といえば死んでいるのである。三島が町の若者たちと実際神輿を担いでいる写真が残されているが、ボディビル以前の華奢な身体で、あまりにも嬉しそうなのが私には泣ける。 この作品で、三島の回りで担いでいる方々は、実際には存在していないので、肖像権は大丈夫であろう。君のようで僕のようだし、僕のようで君のようだな?目鼻口をシャッフルしてある。案外抜かりのない私である。
【タウン誌深川】〝明日出来ること今日はせず〟連載第17回『引っ越し』