デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

愛とロマンの小包(PART 2 OF 4)

2011-02-20 14:11:37 | 食べ物・料理・食材

 
愛とロマンの小包(PART 2 OF 4)



つまり、小百合さんが「心躍る甘酸っぱさのフルーティMINTIAを舐めてスキップしてね!」と書いたので、デンマンさんはウェブカムの前でMINTIAの一粒をお口に入れてスキップして喜んでいるのでござ~♪~ますか?



そうですよう。 ルンルンル~♪~ン。。。ランランラ~♪~ン

デンマンさん!。。。いつまでもバカやっていると、この記事を読んでいるネット市民の皆様方が呆れて他のブログへ飛んで行ってしまいますわよ!

いや。。。そんなことはありません!

どうして、そのように確信を持って断定なさるのでござ~♪~ますか?

あのねぇ、ここまで読んできた人は、当然、小津安二郎監督のお気に入りだった東京築地の「天ぷら おかめ」のことが読みたいのですよ。。。だから、読み終わるまでは他のブログへ飛んでゆきません。

だったら、無駄口をたたかずに、その「おかめ」というお店を紹介してくださいな。

分かりました。。。ここに書き出しますから卑弥子さんもじっくりと読んでみてください。


飲んだあとはさっぱり

小津式“天茶漬け”


ごま油を使わず、綿の実の油だけで揚げる。
油も白いのでかき揚げの色も白く、食べてもまったくしつこくないかき揚げになる。



しらうおかき揚げの“天茶漬け”

『おかめ』は、松竹本社ビルから歩いて約3分という至近距離である。
三上信一郎氏の書いた『巨匠とチンピラ』によると、小津がこの店を訪れたのは、もと小田原芸者で馴染みだった女性が、近くでお座敷旅館を始めたのがきっかけだったという艶話になっている。

真偽の程は定かでないらしいが、現二代目・柴田雅夫さんによれば、「私が小学校へ行く前でしたから昭和30年頃と思います。当時は、週に1度は見えました」と話してくれた。

当時は、8人座れば満席となるお座敷天ぷらスタイルのひと部屋のみ。

 (中略)

天ぷらは、当時も今も客の目の前で揚げる、コース天ぷらだが、最後のかき揚げを“天茶漬け”にしたのは、小津の考案によるものだ。

「通常はだし汁で出していましたが、小津先生が煎茶を勧めてくれたそうです。これなら飲んだ後でもさっぱりいただけると、周りにも大好評。店の看板メニューになりました」

かき揚げが崩れないコツは、ご飯に、本わさびと香り付けの粉わさび少々、粗塩少々を振り、それから煎茶をかけ、その上にかき揚げを載せるという手順によるもの。

かき揚げを、煎茶の入ったご飯に載せたときのジュッという音と、立ち上がる香ばしい匂いが食欲をそそる。

ところで、昭和30年以降の小津作品の料理屋の女将を見ると、柴田さんは母親が浮かぶという。

「小津先生はよく母親の服装やしぐさも見ていたそうです。そして母が当時つけていた割烹着や髪の結い上げ方、下町の口調など、映画にかなり取り入れたと聞いていましたが、いま改めて見ると母がそこに息づいているようで、本当に驚きました」

ここ『おかめ』にも、小津は天茶漬けとともに息づいている。




88 - 91ページ 『いま、小津安二郎』
取材・文: 丹野達弥・田中宏幸
2004年3月1日 初版第3刷発行
発行所: 株式会社 小学館




でも、どうして「バレンタインの小包」に「天ぷら」などを持ち出してきたのですか?



あのねぇ~、僕は高橋治さんが書いた『絢爛たる影絵 - 小津安二郎』という本を何度も読んだのですよ。 小津さんを知っている知人や友人や映画関係者の人たちにインタヴューしてずいぶん詳しく書いている。 その本の中で僕が印象深く読んだのは次の箇所なのですよ。


小津といえば。誰もが頭に思い浮かべるのは“日本的な”という形容だろう。 京都、能、お茶漬け、日本酒、和服、亭主関白、貞淑でありながら家庭内の実権を握る主婦、挙げていけばきりがない。これらの道具立てに客はつい目を奪われる。その結果、小津は最も日本的な作家だと短絡して考えられることが多い。観客のみならず、批評家の間にもこの見方は定着している。 だが、それは大きな誤りだと私は思う。

小津は一見非常に日本的だが、実は大変西洋的で、それが欧米の小津ブームの最大の要因だといったのは、確かドナルド・キーンだったが、卓見である。小津は横書きの文章は勿論、縦書きの場合も左から右へ書いた。その方がペンを持つ手がインクの後をこすらないからである。徹底的な合理主義の面を持っていたのだ。根っから日本的なものにこり固まった人間であれば、左書きなどは出来ない。篠田が小津組の助監督田代幸三から聞いた話だが、母に死なれて一人住まいの頃、小津は万年床の上に座ってバター半ポンドをぶちこんだ雑炊をすすっていたという。 一人分の雑炊にバター半ポンドを入れれば、フォンデュのようなものが出来上がるだろう。 映画の題名にも用いた茶漬けなどは所詮営業用の看板だったような気がする。 トンカツ、鰻、油っこいラーメン、小津が好んで食べたものは茶漬けとはおよそ正反対のものだった。

作品も同様なのである。画面を埋める日本趣味の小道具や衣裳に幻惑されては、小津の真の姿が見えてこない。 『秋刀魚の味』の老いを凝視する姿勢。『晩春』の親子関係をつき破っても愛を打ち明けようとする女の執着。



『麦秋』の家族関係のそれぞれの立場で吹き出して来る自我。 それらを残酷なまでに描いて見せる作家精神は日本的と呼ばれるものとはおよそ対極にある。 ふんわりと着せてある衣裳が日本的であるにすぎない。




239 - 240ページ
『絢爛たる影絵 - 小津安二郎』
著者: 高橋治
2003年3月6日 第1刷発行
発行所: 株式会社 講談社




あらっ。。。「小津が好んだ食べ物は茶漬けとはおよそ正反対のものだった」と書いてありますわね。



そうなのですよ。 確かに高橋さんが言っているように「残酷なまでに描いて見せる作家精神は日本的と呼ばれるものとはおよそ対極的にある。 ふんわりと着せてある衣裳が日本的であるにすぎない」。。。僕もそう思いますよ。 でもねぇ、食べ物に関する限り、小津さんは油っこいものも好きだったけれど茶漬けもそれに劣らないくらい好きだったのですよ。 それは、上の『天ぷら おかめ』を読めば良く分かる。

。。。で、デンマンさんは何がおっしゃりたいのでござ~♪~ますか?


小津は一見非常に日本的だが、実は大変西洋的で、それが欧米の小津ブームの最大の要因だといったのは、確かドナルド・キーンだったが、卓見である。


こう書いてあるけれど小津さんは、日本的な良いものを欧米の観衆にも分かるように表現していたと思う。

でも、欧米で暮らしたこともない小津さんが欧米の観衆にも分かるように映画が作れるものなのでしょうか?

あのねぇ~、小津さんは日本帝国大本営の求めに応じて戦争中シンガポールで国策宣伝映画を作ることになった。 ところが、いざ作ろうとした頃には日本はもう負けるのが目に見えていた。

そうで、どうしたのでござ~♪~ますか?

シンガポールの映画館の倉庫には日本ではまだ公開されたこともない欧米のフィルムが山のように積まれていた。 一般上映が終わった後で小津さんは、そのフィルムを毎晩のように観まくったのですよう。




『嵐が丘 / Wuthering Heights 』
1939年版 (昭和14年)
ウイリアム・ワイラー監督作品


「ジョン・フォード、ウイリアム・ワイラー、ウォルト・ディズニー」
「ああ」
「日本じゃまだ誰も見ちゃいないんだ。ワイラーの真似をしているだけでも、4,5年はやって行けるぜ。 そうしてる中には、シンガポールで仕込んだ肥料がジワジワと効(き)いてくる。 もっとも、帰れての話だがな」

小津は自分が口にした言葉を巧みに引用して見せた。
後年、厚田はこの「肥料がジワジワと効いてくる」という言葉を身にしみて思い出すことになる。
帰国後に、小津は僅か三作目の『晩春』で自分の世界を作り上げ、その死まで、日本映画最高の位置を誰にも譲らなかった。 いや、死後、その10年後、20年後にますます盛名を世界に謳(うた)われるようになる。

小津は戦争の最前線にいながら、魔法のように、戦争そのものを自分の充電期間に使って見せたのだ。




412ページ
『絢爛たる影絵 - 小津安二郎』
著者: 高橋治
2003年3月6日 第1刷発行
発行所: 株式会社 講談社




シンガポールで欧米的な手法・表現をゲットしたのでござ~♪~ますわね?



そうですよ。 だから小津さんの映画は欧米の観衆にも分かるのですよ。

つまり、この事が言いたかったのでござ~♪~ますか?

違いますよ。 あのねぇ、『天ぷら おかめ』の主人は小津さんが誰と来たのか?覚えていないと言ったけれど、たとえ知っていたとしても「小津先生と原節子さんが、よくいらっしゃいました」なんてことは、初めて取材に訪れた人に言わないものですよ。

あらっ。。。小津監督と原節子さんは『天ぷら おかめ』へたびたび訪れたのでござ~♪~ますか?

僕はそう思いますよ。

その証拠でもあるのでござ~♪~ますか?

あのねぇ、小津監督作品『麦秋』には天ぷら屋のシーンが出てくるのですよ。





つまり、『麦秋』の中に天ぷら屋のシーンがあるから小津監督と原節子さんは『天ぷら おかめ』へたびたび訪れたとデンマンさんはおっしゃるのですか?



いや。。。その逆ですよ。 『天ぷら おかめ』は、おそらく、小津さんと原節子さんにとって思い出の場所ではなかったのか?! それで小津監督は、それとなく映画の中に天ぷら屋のシーンを入れたと僕は感じたのですよ。

それは、デンマンさんの個人的な感想でござ~♪~ますわ。

でもねぇ、二人の事をいろいろと調べてゆくと共通することが結構出てくる。

たとえば。。。?

二人とも映画の中で人生を燃え尽きさせたのですよう。 それに、二人とも生涯独身で通した。 つまり、映画と結婚していたようなものですよ。 それでねぇ、二人には興味深いエピソードがあるのです。 卑弥子さんも読んでみてください。


東宝のプロデューサー佐藤一郎が面白いことを話してくれた。

「小津さん、原さんの二人と一緒に飲む機会が二、三度あったけれどね、印象をひと言でいえば、あの二人は夫婦のような感じに見えるんだよ。でも、なんというのかな。あっちの方はもう絶えてなくなってしまった夫婦なんだな。でも、宿命で夫婦のままでいるとでもいうのかな」



原にとっては小津ほど自分を見事に生かしてくれた人間はいない。だが、小津ほど遠い人間もいない。監督と女優であることは、まさに夫婦にも通ずる時間を共有して、相互の人生にとってかけがえのいないものを作り出す。だが、この二人は互いに欠くことのできない両輪の宿命下にありながら、ついに命の歓喜を伴う理解には辿りつけなかった。
ある時夫婦の間ほど遠い人間関係はないように。

昭和26年11月の日記の欄外に小津はこう書いている。
“このところ原節子との結婚の噂しきりなり”
前後に、関連する記述は全く見当たらない。克明な文字で書かれた日記を読み進んでいくと、突然出てくるこの記述は、自分には全く無関係なゴシップを書きとめたかのように読める。

小津の死は頸部(けいぶ)の腮源性癌腫(さいげんせいがんしゅ)によるものだが、二度の入院の間に自宅で病臥(びょうが)していた時期がある。
それを見舞った原が小津の寝ていた煎餅蒲団(せんべいぶとん)に驚いた。翌日、原から御見舞いにと分厚い蒲団のひと組が届けられた。
「こんな馬鹿げたものに寝られるかい」
小津は見向きもしなかった。薄い蒲団に寝るのが好きだったのである。
この話を現実に疎いスター特有の分別の浅さととることは易しい。だが、原の心情を慮(おもんぱか)ってみよう。
自分に永遠の生命を吹き込んだ小津が、煎餅蒲団にくるまって数多い見舞い客に接することは、思うだに耐え難かったのではないだろうか
それにしても人を理解することの難しさを思い知らされて、このエピソードは、ただ、苦い。

小津の死に接してあたりはばからずに号泣したのが杉村(春子)と原だった。
杉村の悲嘆は澄明(ちょうめい)である。
だが、原の泣き声には様々の語りつくせぬものがこめられていたように思える。
釣糸は一度絡み合うと、解き目もわからぬほどによじれる。
原の思いが、私にはそう見える。



そして、それは、小津が原に思う様に泣くことを許した唯一回の機会だったのである
二人の宿命の出会いがどのように訪れたかを明らかにすることは難しい。
小津は死に、原は口を閉ざした。

(注: 写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました)




75 - 76ページ
『絢爛たる影絵 - 小津安二郎』
著者: 高橋治 2003年3月6日 第1刷発行
発行所: 株式会社講談社

『銀幕の愛』に掲載
(2010年8月26日)




あらっ。。。なんだか、とっても悲しいエピソードでござ~♪~ますわ。 でも、天ぷら屋さんは出てきませんわね。



あのねぇ、天ぷら屋さんに注目して欲しいのではなくて原節子さんが小津監督の病床に分厚い蒲団のひと組を届けたことを読み取って欲しいのですよ。

その事をデンマンさんはおっしゃりたかったのでござ~♪~ますか?

そうですよ。

でも、そのお蒲団がバレンタインと関係あるのでござ~♪~ますか?

そうですよ。。。関係あるのですよ。 これまで長々といろいろな話をしてきたのも、このエピソードを持ち出したかったからですよ。

あたくしにはデンマンさんの言おうとなさる事がまだ良く分かりませんわ。

分からないのだったら次の小文を読んでくださいよ。

 (すぐ下のページへ続く)

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愛とロマンの小包(PART 3 OF 4)

2011-02-20 14:10:05 | 食べ物・料理・食材
 
愛とロマンの小包(PART 3 OF 4)







Subj:小百合さん、おはよう!

帰省中の楽しい思い出をありがとう!

きゃはははは。。。




From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date:Wed, Oct 27, 2010 2:53 pm
日本時間:10月28日(木)午前6時53分


1ヶ月の帰省だったけれど経ってみれば本当に、あっと言う間に過ぎてしまったという感じがします。
でも、小百合さんとの楽しい思い出がたくさんできました。ありがとう。
Irish cream-flavored coffee beans を栃木の田舎から、わざわざ持ってきて大長寺の大仏様の前の白いテーブルで小百合さんが入れてくれたコーヒーの味は格別でした。



10月25日はインターネット・コミック・カフェ「自遊空間」で待ち合わせ、近くの「印度市場」で食べた本場のカレー。
それから、さきたま古墳公園へ行ったよね。
休息パビリオンのテーブルで小百合さんがコーヒーを入れてくれた時には生八ツ橋まで持ってきてくれた。
僕は思わず菊ちゃんの事を思い出しましたよ。



小百合さんが菊ちゃんのエピソードを感情移入しながら読んでいたのだと、改めて感慨深く振り返ってみたのでした。

急に思いついたと言って買ってきてくれた「柚子こしょう」
なぜ「柚子こしょう」なのか?
思い出しましたよ。
県道ルート66の「長崎ちゃんぽん」の店で小百合さんと一緒に食べた時に「生姜こしょうドレッシング」と「柚子こしょうドレッシング」があったんだよね。
「柚子こしょうドレッシング」を「長崎ちゃんぽん」にかけて食べたら実に旨かった。
僕がそう言ったのを小百合さんは覚えていたに違いない!

これからはラーメンにも「柚子こしょう」を入れてみます。
そのたびに小百合さんと一緒に食べた「長崎ちゃんぽん」を思い出しそうですよ。


今朝は6時半に目覚めました。
気温は13度。晴れ。
急に寒くなったけれど、バンクーバーに戻るにはお誂(あつら)えの晴天。
成田を午後5時55分に出てバンクーバーに着いたのが日付変更線の関係で同じ日の午前10時。

飛行時間は9時間の予定だったけれど、ジェット気流がいつもより強く吹いたので1時間早くバンクーバーに到着したとパイロットが機内放送で言ってたよ。
バンクーバーも快晴で飛行機がタッチダウンした時は11度だったけれど、現在(午後2時半)は13度。
バンクーバーはめっきり秋らしくなりました。



でも、まだきれいな紅葉は見られません。
とにかく、帰省中の楽しい思い出をありがとう!

ところで、軽井沢タリアセン夫人は軽井沢でスキーですか?
まだ早いかな?
札幌では初雪が降ったと言うから、そのうち軽井沢でも降るでしょう。
風邪を引かないようにルンルン気分で楽しんでね。
じゃあ、また。。。






『ボクシングデー(2010年10月31日)』より

『行田ちゃんぽん(2010年10月7日)』にも関連記事




つまり、小百合さんが上のメールを良く覚えていて、それでバレンタインの小包に「長崎ちゃんぽん」と「柚子こしょう」を入れたとデンマンさんはおっしゃりたいのですか?



そうですよ。でも、それだけではないのですよう。 次の小文も読んでくださいよ。



件名:おはよう!昨日はお袋を見舞った後で、

叔母と「つるや」で手打ち蕎麦を食べました。

きゃはははは。。。♪┌(・。・)┘♪




日付: Sun, 01 Nov 2009 12:32:49 +0900
差出人: "denman@coolmail.jp"
宛先: "sayuri@hotmail.com"
CC: "barclay1720@aol.com"


10月30日の金曜日は盛りだくさんの一日になりました。
僕の実家の近くにある「とんでん」で食べた“茶蕎麦”はメチャうまかった。
10年ほど前に親父がまだ生きていた頃、両親と一緒に食べた茶蕎麦の味でした。



本当に懐かしかった。
小百合さんは伝統的な昔ながらの蕎麦を食べたけれど、今度は、ぜひ僕の好物の茶蕎麦を食べて行田の思い出を懐かしんでね


蕎麦を食べてから「古代蓮の里公園」へ行って直売店で行田市で取れるいろいろな野菜やお土産物を見たけれど、改めて行田の豊かさを感じましたよう。

“ふるさとは遠くにありて思うもの”

うん、うん、うん。。。室生犀星の言葉だけれど、
こうして故郷にやって来ると改めて故郷の豊かさに気づきます。
小百合さんと一緒に古代蓮の神秘的な花を見ながら語り合えたら、さらに幸せな気分に浸ることができたかもしれません。
残念ながら古代蓮の花は咲いてなかった。
8月だけでなく、秋にも咲く古代蓮を作れないものか?





もし、秋に古代蓮が咲いているなら、
今度は古代蓮を見ながら“Hよりも感じるハグ”をして
再会を喜び合いたいものです。

\(^ヮ^)/ ギャハハハハ。。。

「古代蓮の里公園」でのんびりと散策した後で「水城公園」へ行きました。
まさか小百合さんがまた“とうもろこし”を焼いてくれるとは思いませんでした。
簡易コンロを持ってきて、刷毛(はけ)でタレを塗りながら旨そうに焼けた“とうもろこし”は小百合さんの真心の味がしました。
マジで。。。!

\(*^_^*)/ キャハハハ。。。





公民館の前の池の端(はた)で、何も知らない人が見たらホームレスのカップルが貧しい夕食を取っているように見えたかもしれません。
ちょうで池に住む一匹のガチョウのために近所で暮らす30代の女性が餌をやりにやって来ていました。
パンの耳とレタスをガチョウにあげていたけれど、とうもろこしの焼ける旨い匂いがガチョウの食欲をそそるのか?小百合さんがコンロでとうもろこしを焼いている池の端(はた)に寄ってくるのでした。



“チョウ助”も、とうもろこしが食べたいの?”

その女性はそんなことを冗談で笑いながら言っていたけれど、小百合さんが答えて言いました。

“このガチョウは、とうもろこしを食べませんよね(笑)”



そうなんだよね。10月16日に小百合さんが初めて水城公園にやって来た時、Pure Whiteのとうもろこしを僕に焼いてくれたけれど、その前に、生のとうもろこしを COB からとって僕は“チョウ助”に食べさせようとしたのでした。
でも、食べなかった。
たぶん、量が少なかったのでガチョウには良く見えなかったのかも?

水城公園で黄色い“とうもろこし”を食べてから小百合さんと一緒にイオン(eaon)モールへ行きました。
“シナモンメルツが食べたいわ。”
小百合さんは、かなりこだわっているようでした。
僕は、別に食べたいとは思わなかったけれど。。。

でも、モールの中にあるマクドナルドの店でのんびりと語り合うことができました。
カナダで食べるシナモンメルツとは形や感じがちょっと違うんだよね。
ほんの少しだけシナモンメルツを小百合さんが食べさせてくれたけれど、
味はシナモンロールとあまり変わらなかった。



小百合さんによると、サワークリームに砂糖を混ぜてあるらしい。
そう言われて味わってみると、確かにサワークリームのすっぱさが舌に感じられたような。。。
でも、言われなければ分からないすっぱさでした。

マクドナルドでコーヒーを飲んだ後で小百合さんと一緒にお袋を見舞いに行田中央総合病院へ行きました。
小百合さんと再会してお袋も喜んでいましたよう。
小百合さん、ありがとう!
お袋は、小百合さんと再会して元気をもらったようでした。

昨日(10月31日)は、叔母と一緒にお袋を見舞いました。
その後で「つるや」で手打ち蕎麦を食べました。
小百合さんも手打ち蕎麦にこだわっているけれど、叔母も蕎麦にはかなりのこだわりを持っています。



それで、10月30日に小百合さんと一緒に見つけた手打ち蕎麦の「つるや」に行ったのですよう。
蕎麦屋らしい昔ながらのインテリアに、日本に居る事を実感させられました。

「つるや」のあとで行田中央総合病院の近くのBelc の敷地内にある Mos Burger でコーヒーとコロッケを食べながら2時間ほど粘(ねば)って積もる話をしたのでした。

ところで、昨日、行田観光協会のフライマップには出ていないゼリーフライの店を見つけました。
お袋を見舞いに小百合さんと行田中央総合病院へ行ったけれど、まだ小百合さんの記憶にあると思います。
国道125号線からそれて病院の駐車場へ行く、その道の角。
つまり、駐車場の前の道に進入する角のすぐ近くの肉屋さんでゼリーフライを作っていますよ。
一枚60円です。
買って食べなかったけれど、多分、衣(ころも)にはパン粉が入っているかも?
今度、行田へ行く機会があったら食べてみたらいいよ。

大体書き終わったので、これから「ネットカフェ・ミルミル」で牡蠣フライカレーを食べ、その後でウィンナコーヒーを飲みながらブログの記事を書きます。
記事のタイトルは「心のぬくもりを感じさせる医療」
小百合さんと再会した幸せを噛み締めながら。。。



ヽ(´ー`)ノ きゃはははは。。。

ありがとう。

じゃあね。

(V__/)
(+'.'+)
(")_(")







『心のぬくもりを感じさせる医療』より
(2009年11月2日)

 
 (すぐ下のページへ続く)

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愛とロマンの小包(PART 4 OF 4)

2011-02-20 14:09:11 | 食べ物・料理・食材


愛とロマンの小包(PART 4 OF 4)



つまり、小百合さんは上のメールも覚えていて、それでバレンタインの小包に「茶そば」も入れたとデンマンさんはおっしゃりたいのですか?



卑弥子さんも分かりましたか? うしししし。。。

これだけしつこく読まされれば馬鹿でも分かりますわよう。 それで、デンマンさんは自慢したいのでござ~♪~ますか?

いや。。。違います。 小津監督は原節子さんから分厚い蒲団のひと組をプレゼントされたのに、どうして素直に喜べなかったのか?

どうしてでござ~♪~ますか?

明治に生まれた男の羞恥心ですよ。 うれしさを素直に表現することは男の沽券(こけん)にかかわることだった。 小津監督も本音ではうれしかったのですよ。 でも建前として「こんな馬鹿げたものに寝られるかい」と言わざるを得なかった。 それが明治に生まれた男の宿命だった。

それで、デンマンさんは「長崎ちゃんぽん」、「茶そば」、それに「心躍る甘酸っぱさのフルーティMINTIA」を小百合さんからいただいて、どうして素直に喜べたのですか?

戦後生まれの男の夢とロマンが僕を素直な気持ちにさせてくれたのですよ。 うししししし。。。


【卑弥子の独り言】



ですってぇ~。。。
キザですわ。
あなただって、そう思うでしょう?

ところで、あたくしは原節子さんが独身を通したと聞いて考えることがあったのですわ。
ええっ。。。なぜかってぇ~?

あたくしも原節子さんのように独身で通そうかしら?
そう思ったのですわ。
女子学生たちの厳しい視線をどうしたらよいものか?とあたくしは常々考えていたのでござ~♪~ますう。
ええっ。。。どういうことかってぇ~?

あのねぇ~、あたくしは京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義しているのですわよ。
あたくしがが教えているクラスの半分の女子学生は、あたくしを見る視線に哀れみを浮かべているのですわ。

「30過ぎても男に相手にされずに、仕方なく古典を教えているのよね。可哀想に。。。」

このように哀れんであたくしを見ているのですわ。
そして、もう半分の学生は、

「源氏物語などを講義して澄ました顔をしているけれど、あなたの実生活は、かなりすさんでいるのよね。
好色な老女官(ろうにょかん)の源の典侍(げんのないしのすけ)のように、あられもなく若い男に戯れているんじゃないの?!」

そのような厳しい視線を感じながら、あたくしは改めて『愛の形』を読んだのでござ~♪~ますう。



『愛の形』

そして、その結論は、やっぱり女子学生の厳しい視線を避けるために結婚した方が良いのではないかと。。。
うふふふふふ。。。

とにかく、また、あさってが面白くなりそうです。
だから、あなたも読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあねぇ。






ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

ためになる関連記事





■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』


■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』



■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』


■ 『今すぐに役立つホットな情報』

■ 『 ○ 笑う者には福が来る ○ 』




こんにちは。ジューンです。

たまたま日本の英和辞典を引いたらば

次のように出ていたのですわ。


Valentine

①男の名前; 聖ヴァレンチノ (3世紀ローマのキリスト教殉教者)

②ヴァレンチノ祭に選んだ恋人; 同日異性に送るカード・手紙・贈り物など

St. Valantine's Day

聖ヴァレンチノ祭(2月14日)に恋人同士が贈り物・手紙などを交換する風習がある。




三省堂『最新コンサイス英和辞典』より


そうなのですわ。

2月14日には男女にかかわらず

恋人同士が贈り物や手紙を交換する

習慣があるのですわ。

ところで、日本では3月14日がホワイトデーです。

バレンタインデーにチョコレートなどをもらった男性が、

そのお返しにホワイトチョコレートなどを女性へ贈ります。

だから、この習慣は日本・韓国・台湾・中国の一部など

東アジア特有のものです。

欧米ではこういった習慣はありません。

なぜなら、バレンタインデーに恋人同士が

贈り物や手紙を交換するからです。

わたしはデンマンさんにGODIVAの

チョコレートを上げようとしたのです。

そうしたらロブソンストリートのGODIVAのお店が

無くなっていたのですわ。

仕方ないのでピカチューのお弁当を作って

デンマンさんにプレゼントしたのですわ。





ええっ。。。デンマンさんはどのようなプレゼントを

くれたのかってぇ~?

それが、次のようなホットパンツだったのですわ。

うふふふふふ。。。



ところで、卑弥子さんが面白い記事をまとめました。

寒さを笑って吹き飛ばしたかったら

ぜひ読んでみてくださいね。

■ 『笑って幸せな気分になれるサイト』



では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。






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幸せと潤いのある生活

2011-02-20 14:07:35 | 美容・健康・心の病気・ダイエット
 
幸せと潤いのある生活



こんにちは。
いつも元気で陽気なジュンコです。

美しくなりたいですよね。
女性なら誰もが願うことです。
お肌の悩み、スタイルの悩み、
解決しましょうね。
そして、健康で幸せな暮らしを築いていきましょう。


朝のキモチ

2004/12/10 07:33



昔、好きな人と会える日は、

朝、目が覚めた瞬間に、

身体中にしあわせが

いっぱいになって、

踊るように仕度をして、

出かけていったなあ。

あの頃のわたしは、

多分、今の100倍

キレイだったと思う・・・

by レンゲ  




『レンゲ物語 - 愛とせいの美学』より


そうですよねぇ~。
もし、あなたが女なら、こういう気持ちになった事ってあるでしょう?

ええっ?今のわたしですか?
実は、お付き合いしている彼が居るのですわよ。
だから、上のレンゲさんの手記を読むと共感するものがありますわ。

彼はわたしの事をきれいだと言ってくれません。
でも、落ち込んでいるときの自分と比べたら、
きれいになっているという実感がありますよ。

やっぱり、好きな人とデイトする時って心が弾みますよね。
彼のために、もっときれいになりたいと思いますね。
そういうわけで、わたしは次のガイドを覗く事があります。

■ 『あなたのための美容と健康ガイド 若々しく! より美しく!』

でも、健康で美しくなるだけが女性の望みではありませんよね。

最近の女性は男性と比べて欲張りだと思います。
しかも、人生に欲張りな女性たちには、
アクティブな分だけ課題も多いですよね。

わたしは現在デイトしている彼が居ますが、
すぐに結婚して家庭に入る気持ちは無いのですよ。
まだまだ広い世界を見てみようという気持ちがあります。
やっぱり人生に欲張りなんだと思います。

家庭に入っている女性でも、趣味をたくさん持っている人は居ますよね。
ガーデニングにはまっていたり、
ママさんバレーに参加したり
ママさん水泳教室に通っていたり、
市民テニスクラブでプレーしたり。。。

ところで、そういうアクティブな女性を支援するサイトがあるのを貴方はご存知ですか?
そんな女性たちをサポートする本格的な生活情報サイトです。
あなたの暮らしを応援するサイト「tepore(テポーレ)」です。

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おほほほほ。。。。

また現れて、

くどいようでご

ざ~♪~ますけれど…

あたくしも自分を

もっときれいに磨こうと

思うので

ござ~♪~ますわよ。

おほほほほ。。。

どうしてかって。。。?

だって、あたくしも、

こっそりとバンクーバーへ

行こうと思っているので

ござ~♪~ますわよ。

つまり、あたくしとレンゲさんで

勝負する事になると思うのですわ。

もちろん、デンマンさんの前ですわ。

うふふふふふふ。。。。

それで、勝負するためのランジェリーを

探していると言うわけで

ござ~♪~ますのよォ~。

どうでしょうか?こういうのって。。。

おほほほほほ。。。。

もちろん、冗談ですわよゥ~。

うふふふふふ。。。



ところで、この漫画を見てあなたはどう思いますか?

誰にとっても最悪な状態でしょう?うしししし。。。

でも笑えるでしょう?

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実に面白いわよ。

とにあく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。





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よく考えた?(PART 1 OF 4)

2011-02-16 16:51:44 | 日本人・日本文化・文学論・日本語
 
よく考えた?(PART 1 OF 4)




私が、古代の有名人を何が何でも朝鮮半島に結びつけるのではないだろうかと、疑問をもたれる方が居ると思うので、本題に入る前に、一言二言付け加える必要があると思います。先ず、ひと言で言うならば、遠い昔、日本の原住民と考えられている、アイヌ民族でさえ、大陸から渡ってきた人たちです。その当時は、日本と大陸は陸続きでした。

それでは、なぜ、そういうことが言えるのか?それは、ある程度、というよりほぼ間違いない程度に科学的に実証されています。
もちろん、完璧ということは望めないので、今でも異を唱える学者が居ます。しかし、判断を下すのは、あなたですから、以下の説明を読んでもらえば、納得が行くと思います。

The human beings come from the same ancestor. (afroeve.gif-440x360)

上の地図で示されるように、人類が始めて現れたのは、アフリカだと考えられています。もちろん、それまでには、気の遠くなるような年月がかかって、類人猿から進化したわけです。この我われ人類の祖先が、地図で示したように、世界に広まっていったと考えられるようになりました。
それぞれの人種に分かれ始めたのは、10万年ほど前だと推定されています。

どうしてこういう結論が出たかというと、アメリカのカリフォルニア大学、バークレー校の研究者たちが遺伝子を調べることに因って解明したからなんです。

A tree of relatedness (evolute.gif--440x360)

上の表は、我われ人類の人種間において、遺伝子が一体どのように類似しているのだろうか、ということを図に示したものです。これで見ると分かるように、東アジア人とイヌイト、いわゆるエスキモー人は一緒のグループです。

次に東アジア人とよく似ているのが、いわゆるアメリカン・インディアンです。これは、外見だけを見てもよく分かるわけですが、遺伝子の配列が、よく似ているということです。この遺伝子の配列の状態を調べることによって、我われがたどってきた、枝分かれの様子が、上の図に示すように分かってきたわけです。

詳しいことは、このページ (我われ、現代人は同じ祖先から枝分かれして来た。) を見てください。

この流れは、いわば、人類史、言い換えれば人間の歴史の大動脈のようなものであって、この流れを変えるということは我われ人間の『言い伝え』、あるいは、『教え』では可能でも、『科学』に因っては不可能です。
日本でも最近、この遺伝子(特にDNA)の研究が盛んになって日本人が一体どこからやってきたのかを解明しようとしている研究者が出てきましたが、非常によいことです。
そのうち科学的にも、朝鮮半島との関連が裏付けられることと思います。

振り返って、日本史を考えるとき、たとえば、あなたが学校で日本史を教わった時のことを思い出してもらえばよいのですが、「古事記によれば。。。」、「日本書紀によれば。。。」、ということで古代史の勉強が終わってしまったと思うのです。
ところが、この古事記や日本書紀が、当時の支配者の都合のよいように書かれた『教え』であるわけです。
したがって、科学的に授業を進めてゆけば、当然、今まで述べてきたようなことを先ず始めに『教え』なければならないはずです。

ところが、そうしないばかりに、古代日本史には謎が多い。たいてい有名人を調べてゆくと、出生地だとか、いつ誕生したとか、そういうことがぼやかされている場合が実に多いわけです。すでに述べた、継体天皇などはその最たるものです。
時代が古いばっかりに、はっきりとは断定できない場合もあるでしょうが、状況から判断して、明らかに、朝鮮半島から渡ってきたと考えられるような場合にも、そうは書かない。
あくまでも、日本古来の祖先から連綿と続いているかのような書き方をしている。たとえば、これから述べる藤原氏の祖先のように、そこに作為の跡を見ることができるわけです。

何も、このことは、古代に限ったことではありません。何も日本史に限ったことでもありません。時の「支配者」というのは、しばしば作為を持って、歴史的事実を変えようとします。
最近の例を挙げれば、ケネディー大統領の暗殺がよい例です。真相を究明しようにも、この事件の重要証拠や資料が75年間封印されてしまっています。そういうわけで真相が分かるのは、現在生きている我われがほとんど死んでからのことになります。
こういうことを、民主主義の本家といわれているアメリカがやっているのですから、本当に理解に苦しみます。もっと分からないことは、アメリカ市民が、このようなことを見逃しにしているということです。
ケネディー大統領の暗殺の裏に、隠された陰謀があったのかどうか、関心のある方は、このページ (Gemstone File) を読んでください。

だいぶ前置きが長くなりました。ここでは、そういう古代日本の「支配者」の作為の痕をのぞいてみたいと思います。

Fujiwara (nakatomi) kamatari (kamatari.gif--187x187)

聖徳太子と共に、日本書紀において分からない人物は藤原鎌足(614-669)です。
藤原氏の基礎を築いた人だというにもかかわらず、この藤原鎌足、すなわち中臣鎌足という人物についてはよく分かっていません。
一体どんな素性の、どんな生まれの人であるのか、このへんのところが、ぼやかされています。もちろん、この辺りに作為の跡があると言いたいわけです。
何しろ、藤原家というのは、日本の政権に、500年以上もかかわりを持ってきました。世界に例がないほど、息の長い家系だといえます。
しかも武士が政権を取ってからも、家系が耐えることなく続き、昭和になって、近衛文麿という首相を出しているほどです。

Konoe Fumimaro 1891-1945 (konoe01.gif--217x269)

これほどの類まれな家系の基礎を築いた人だというのに、藤原鎌足の生まれはよく分かっていない。
もちろん、いろいろな説がありますが、これといって、決定的なものがないというのが実情のようです。

まず、神話において、藤原氏の先祖と言われているアメノコヤネノミコトは天孫ニニギノミコトの側近第一号であり、藤原氏が祭るタケミカズチ,フツヌシの神は国土平定の大功績をたてたことになっています。
とすれば、当然そういう大功績があった神の子孫が神武帝以後の実際の歴史で活躍するのではないかと、おそらく誰もが期待を持つはずです。
しかし、中臣氏は古事記には全く姿を現さない。

要するに、ここに作為の跡が見えるわけです。もし、本当に、藤原氏が、天皇家と同じぐらい古い家系であったならば、古事記にも登場して、もっと、もっと活躍するはずです。しかし、あまり根も葉もないことを書くと、嘘がすぐにばれてしまう。
それでは、元も子もないわけで、そのぐらいの見識はあったと思われます。書きたくとも書けないという、ジレンマがあったことでしょう。

しかし、日本書紀には、中臣氏は、神話時代を除き、鎌足の父とされる御食子(みけこ)以前に、4度登場します。
その第一番目に、中臣氏の人間の時代における最初の子孫、中臣連大鹿嶋(むらじ・おおかしま)という形で登場します。
『大鏡』には、中臣鎌足は鹿島の生まれであると書かれています。
しかし、これは、中臣連大鹿嶋の鹿嶋と地名の鹿島の音が似ていることから、後になって考え出されたものだと私は思うのです。その理由は、この後述べるように、鹿島ではないという、もっと強力な資料があるからです。

2番目に中臣氏が登場するのは、仲哀紀から神功紀にかけてです。ここで中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)という男が登場します。仲哀9年、突然に仲哀帝が亡くなります。
その時神功皇后は大臣武内宿禰と相談して、この天皇の死を内緒にして天皇を葬ります。この宮が豊浦宮です。今でもこの宮は、一週間の間、忌祭をします。
それは火をたかず、物音を立てず、つまり内緒で行う葬式です。ここで中臣烏賊津連は、この内緒の葬式の命令を承るものとして登場するのです。

この中臣烏賊津連は次の神功皇后紀では、以下に示すように重要な役割を担当します。

「皇后、吉日を選びて、斎宮(いはひのみや)にはいりて、親(みづか)ら神主(かむぬし)と為(な)りたまふ。則ち武内宿禰に命(みことのり)して琴撫(みことひ)かしむ。中臣烏賊津使主(おみ)を喚(め)して、審神者(さには)にす」

つまり中臣烏賊津連は審神者となり、神の託宣の真意を知る役をするというわけです。中臣というのは神と人との間に立って、神の言葉を人に伝え、人の言葉を神に伝える役目です。もちろん、ここで神と言うのは天皇のことです。それゆえ中臣の役割は、天皇の言葉を臣下に伝え、臣下の言葉を天皇に伝える役目をするということです。

ここで神功皇后は新しい神、住吉の神の教えによって新羅征伐を決意します。その意味で、この託宣は、古代日本の運命を決めることになり、この託宣の審神者となった中臣烏賊津連は、実に大切な役割を果たしたはずです。
しかし、不思議なことに、その後の神功皇后紀には、彼の名前は出てこないのです。

先ほど、中臣鎌足の鹿島出身説に触れましたが、それに関連して、ここで『続日本紀』の光仁天皇の天応元年(781)7月の項の次の記事について考えてみたいと思います。

「右京の人正六位上栗原勝子公言す。子等が先祖伊賀都臣(いかつのおみ)は、是中臣の遠祖、天御中主命20世の孫,意美佐夜麻(おみさやま)の子なり。
伊賀都臣、神功皇后の御世に、百済に使いして、彼の土の女を娶りて,二男を生み、名づけて本大臣、小大臣といふ。
はるかに本系を尋ねて聖朝に帰す。
時に美濃国不破郡栗原の地を賜ひて以て居らしむ。その後、居に因って、氏を命じて、遂に栗原勝の姓を負へり。
伏して乞らくは、中臣栗原連を蒙り賜はむと。是に於いて子公等男女十八人請に依って、改めて之を賜ふ」

ここに中臣栗原連の先祖として中臣伊賀都臣が顔を出します。そして、その人を説明して言います。
この伊賀都臣(いかつのおみ)は、中臣の遠祖にあたる天御中主命20世の孫,意美佐夜麻(おみさやま)の子であると。
要するに、神代の天御中主命を持ち出してきて、ここに、中臣氏が、古来から、日本に土着した氏族であることを印象付けています。

しかし、すでに述べたように、古事記において、中臣氏が、いかに古い氏族であるか、しかも天皇家と並ぶほど古い家系であるか、ということを、それとなく述べています。
しかし、具体的にどのようなことをしたかと言うことは、書きたくても書けなかったと言うのが真相でしょう。
変なことを書くと嘘がばれますから。
それでも、そこ、ここで、それとなく、小出しに、日本古来の氏族であることを述べています。
ほとんど、くどいくらいに繰り返されています。20世と言うと、一世代が20年とすると400年、30年とすれば、600年です。
仮に私が、「400年前の私の祖先は加藤清正です」と言ったら、あなたは信じますか?私の知る限りでは、それは事実ではないようです。
わたしの家には、家系図は伝わっていませんから。しかし、誰が一体、確信を持って、私が、加藤清正の子孫ではないと言いきることができるでしょうか?
私の体の中には、400年という年月の間に加藤清正の子孫の血が、一滴か二滴ぐらいは混じっているかもしれません。

上の記述で延べていることは、言ってみれば、そのような程度のことです。
それを、すでに見てきたように、くどくどと言っているわけです。
もちろん、それが、『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』の編集に携わってきた藤原氏の狙いです。

「ここまで書けば、もう大丈夫だろう。
我われが日本古来から連綿と続いている氏族であると認めてくれるだろう。
そろそろ本当のことを書いても、我われが、百済からやってきたとは、もう誰も思うまい」

そういう作為が感じ取れます。

伊賀都臣、神功皇后の御世に、百済に使いして、その土地で現地の女と結ばれて、子供を作った。
その子供たちがやがて成長して、日本にやってきた。その者たちがやがて中臣栗原連と名乗るようになったと、さらりと述べています。
注意して読まないと、読み飛ばしてしまいそうな箇所です。
しかし、この意味は非常に重要だと私は思います。

藤原氏が政治の舞台に踊り出てきたのは、なんと言っても、大化の改新からです。
これが、古代における、一大イベントだということは、おそらく誰もが認めることでしょう。
しかも、このとき以降、藤原氏は、実権を握ってゆくことになります。教科書では、なぜこのイベントが重要かというと、氏族制から、先進国中国で行われている律令制に移行したからだ、という事になっています。
確かに、それは重要だったかもしれません。
しかし藤原氏の、本当の狙いは、このことよりも、その後に行われる新羅征伐にあったと私は信じています。
つまり“祖国”を救うことです。

すでに述べたように、中臣氏というのは、天皇と、臣下の間に立って命令を伝達したり、臣下からの言葉を取り次いだりする立場にありました。
つまり、天皇の側近であり、したがって、天皇に対して、強い影響力を持つことができます。

事実、神功皇后が、住吉の神の教えによって新羅征伐を決意した時の、取り次ぎ役が中臣烏賊津連です。
しかも、実際に、百済へ援助の手を差し伸べ、日本軍が、新羅と唐の連合軍と戦うために、指揮を執ったのは、天智天皇でした。
この天智天皇の知恵袋が、大化の改新を一緒にやった中臣鎌足、後の藤原鎌足です。
おそらく、この時、鎌足の強い説得力がなかったなら、天智天皇は、新羅征伐をやらなかったかもしれません。
なぜなら、あまりにもリスクが多きかったからです。
実際、この時の、白村江の敗戦に因って、天智天皇への批判は強まります。
しかも、初めから、新羅派であった天武天皇へ周囲の者がなびいてゆきました。

そして後で見るように、壬申の乱に因って、この天武天皇が政権を取ることになります。
しかも、これだけの対立があったにもかかわらず、藤原氏は、決して失脚しませんでした。
それはどうしてか?
大雑把に言って2つの理由があったでしょう。
ひとつは、藤原氏の力なくしては、天武天皇には政権が維持できなかった。
そしてもうひとつは、藤原氏には、しぶとく生き残ってゆくための、いわばバイブルが、代々受け継がれていたということです。
それをバイブルと呼んだら、バイブルの方が、きっと迷惑するぐらいに、すさまじい処世術書です。


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?






 (すぐ下のページへ続く)

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よく考えた?(PART 2 OF 4)

2011-02-16 16:50:00 | 日本人・日本文化・文学論・日本語


 
よく考えた?(PART 2 OF 4)


コメント
 
 

投稿日時:Sep 14 2009 / 17:22:23
Pacific Daylight Saving Time
(日本時間:9月15日 火曜日 午前9時22分)

お名前: はぁ?
Emailアドレス: 空白
御評価: 最低

御感想:


韓子(現地女性に産ませた子)がルーツであるとして
「半島から来た」にはならないぜよ。
結局、半島系であるという根拠を何も示してない。


 

投稿日時:Sep 15 2009 / 15:12:10
Pacific Daylight Saving Time
(日本時間:9月16日 水曜日 午前7時12分)

お名前: Akira Kato (a.k.a. デンマン)
Emailアドレス: barclay1720@aol.com
御評価: 空白

御感想:


まずは、コメント書いてくれてありがとう。
このサイトではコメントを書いてくれる人が極めて稀なのだよう。

実は、オマエのことを僕は、てっきり“成りすまし馬鹿”だと思ってしまった。もし、成りすまし馬鹿のことが分からなかったらGOOGLEで検索してみてね。
僕が書いた記事がたくさん表示されます。

ところで、どうしてオマエの事を“成りすまし馬鹿”だと思ってしまったのか?
理由は簡単な事なんだよう。
このサイトで、つい最近、成りすまし馬鹿が2度ほどコメントを書いてくれた。だから、オマエの短いコメントを見て、また成りすまし馬鹿が書いたのだと思ってしまった。(微笑)

でも、大きな違いにすぐに気づいた。
成りすまし馬鹿は、これまでに記事の内容について批判めいた事を書いた事が無い。
たいてい根拠の無い誹謗中傷か、非難めいた事を書くだけだったのだよう。

ところが、オマエのコメントは記事の内容についてコメントしている。
念のために、オマエのIPアドレスを調べたら、次のような事が分かった。


219.106.61.132
nt11-ppp2418.osaka.sannet.ne.jp

ネットワーク名: SANNET
プロバイダー: SANNETインターネットサービス
組織名: SANNET INTERNET SERVICES

上位情報:
株式会社エヌ・ティ・ティ・データ三洋システム
(NTT DATA SANYO SYSTEM CORPORATION)


成りすまし馬鹿の IPアドレスは次の通り。


成りすまし馬鹿の IPアドレス:

122.131.139.184
FL1-122-131-139-184.osk.mesh.ad.jp

プロバイダー: BIGLOBE




『成りすまし馬鹿のふるさと』より
(2009年8月6日)


見てすぐに分かるようにオマエの IPアドレスとは全く違う。もちろん、プロバイダーも違う。ところが偶然にも アクセスポイントが大阪。
オマエも、おそらく大阪市内に住んでいるのだと思う。

どうして、オマエの書いたコメントに対して、このように IPアドレスまで晒して返信を書いているのか?
オマエに分かるか?
オマエはコメントを真面目に書いてないのだよう!

理由は2つ。
まず第一に、僕はかなり真面目に記事を書いている。
その記事に対してオマエは、名前の欄にハンドル名を書かずに、おどけて“はぁ?”と書いている。
愚かなオマエが2ちゃんねるでネットを覚えたと言う事を自分で晒しているようなものだよう!(爆笑)

“文は人なり!”

オマエも聞いた事があるだろう?!
オマエの書き方から、オマエが真摯な態度でコメントを書いているようには全く見えない。
それで、僕は、オマエを“成りすまし馬鹿”のような立派な反面教師にしようと思ってこうして返信を書いているわけ。うししししし。。。
つまり、オマエのふざけたコメントの書き方が、僕にこのような書き方を誘発したわけ。

第2の理由は、オマエは、自分では歴史についてかなり分かっているつもりになっているけれど、文章の読み方も満足に理解していない。
オマエは、愚かにも次のように書いた。

「結局、半島系であるという根拠を何も示してない」

僕はちゃんと根拠を書いている。
ところが、オマエには文章の読解力が無いために、その根拠を見逃してしまった。
そして、愚かにも上のような理解力の無さを自分で曝(さら)け出すようなコメントを書いてしまった。
オマエのコメントは、オマエの愚かさをはっきりと示している。

オマエは自分の書いたコメントに対して自信が持てないから、無意識のうちにオマエはハンドル名を書かずに“はぁ?”なんて、とぼけた事を書いている!
馬鹿丸出しになっているのだよう!(爆笑)
ここは2ちゃんねるではないのだよう!
2ちゃんねるで遊んでいるつもりになって、コメントを書いちゃダメだよう!

分かるよな?
オマエが僕の記事にコメントを書くのは、まだ10年早い!
歴史を勉強する前に、オマエは、まず人生勉強をする必要があるぜよう!きゃはははは。。。

でも、僕もふざけてばかりいては、この記事をここまで読んできた人に対して失礼だから、一応、根拠を示します。
その根拠とは次の箇所です。


「右京の人正六位上栗原勝子公言す。子等が先祖伊賀都臣(いかつのおみ)は、是中臣の遠祖、
天御中主命20世の孫,意美佐夜麻(おみさやま)の子なり。伊賀都臣、神功皇后の御世に、百済に使いして、
彼の土の女を娶りて,二男を生み、名づけて本大臣、小大臣といふ。はるかに本系を尋ねて聖朝に帰す。
時に美濃国不破郡栗原の地を賜ひて以て居らしむ。その後、居に因って、氏を命じて、遂に栗原勝の姓を負へり。
伏して乞らくは、中臣栗原連を蒙り賜はむと。
是に於いて子公等男女十八人請に依って、改めて之を賜ふ」

 

伊賀都臣、神功皇后の御世に、百済に使いして、その土地で現地の女と結ばれて、子供を作った。その子供たちがやがて成長して、
日本にやってきた。その者たちがやがて中臣栗原連と名乗るようになったと。
さらりと述べています。注意して読まないと、読み飛ばして
しまいそうな箇所です。

 

しかし、すでに述べたように、古事記において、中臣氏が、いかに古い氏族であるか、しかも天皇家と並ぶほど古い
家系であるか、ということを、それとなく述べています。しかし、具体的にどのようなことをしたかと言うことは、書きたくても書けなかったと言うのが
真相でしょう。変なことを書くと嘘がばれますから。それでも、そこ、ここで、それとなく、小出しに、日本古来の氏族であることを
述べています。ほとんど、くどいくらいに繰り返されています。20世と言うと、一世代が20年とすると400年、30年とすれば、600年です。
仮に私が、「400年前の私の祖先は加藤清正です」と言ったら、あなたは信じますか?私の知る限りでは、それは事実ではないようです。
わたしの家には、家系図は伝わっていませんから。しかし、誰が一体、確信を持って、私が、加藤清正の子孫ではないと言いきることができるでしょうか?
私の体の中には、400年という年月の間に加藤清正の子孫の血が、一滴か二滴ぐらいは混じっているかもしれません。

上の記述で延べていることは、言ってみれば、そのような程度のことです。
それを、すでに見てきたように、くどくどと言っているわけです。
もちろん、それが、『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』の編集に携わってきた藤原氏の狙いです。「ここまで書けば、もう大丈夫だろう。
我われが日本古来から連綿と続いている氏族であると認めてくれるだろう。そろそろ本当のことを書いても、我われが、百済からやってきたとは、
もう誰も思うまい」 そういう作為が感じ取れます。



大阪の歴史馬鹿のはぁ~ちゃん!
オマエは一体どこに目をつけているのだよう?
僕は上に示した通り、根拠を示している!
藤原氏は次のように後世の我われに語りかけたかったのだよう!
つまり。。。


藤原氏の祖先は、伊賀都臣の時代の500年前に生存していたと思われる天御中主命の血を引き継いでいます。
(建前で、このように藤原氏が日本古来の氏族と結びついているように書いている。でも、言っているだけで、根拠を示してない。)

伊賀都臣と呼ばれた我われ藤原氏の祖先が、神功皇后の時代に、百済に使いして、その土地で現地の女と結ばれて、子供を作った。その子供たちがやがて成長して、
日本にやってきた。この者たちが我われ藤原氏の直接の祖先です。
(本音で、このように藤原氏の直接の祖先が百済から来ていることを書いている。)

では、藤原氏は百済人を祖先に持つの?
このように尋ねられた時の用意に、
「いえ、違いますよう。藤原氏は、伊賀都臣の時代の約500年前に生存していたと思われる日本人の天御中主命の血を引き継いでいます」と書いた。


つまり、日本人の血など全く持っていなかったために、このようにクドクドと20世前の天御中主命を持ち出してきたのですよう。

大阪の歴史馬鹿のはぁ~ちゃん!
オマエは、僕に根拠を示せという前に、『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』の編集に携わってきた藤原氏に向かって


伊賀都臣(いかつのおみ)が20世前(約500年前)の天御中主命の血を引き継いでいる根拠を示せ!


そう尋ねるべきだったのだよう!
 

 
『藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた』より
(2003年7月14日)


【草加の歴史馬鹿】
(IPアドレス: 114.146.240.83)



デンマンさん。。。オイラをお呼びですか?



そうだよ。 首を長くして待っていたんだよ。

でも、どうしてオイラのことが判ったのですか?

何を寝ぼけた事を言ってるんだよ!。。オマエは、下らないコメントを書いたじゃないか!

あれっ。。。よく判りましたね。 でも、オイラは上のコメントの中に出てくる「成りすまし馬鹿」でも「大阪の歴史馬鹿」でもないですよ。

分かっているよ。 オマエのことは調べが済んでいるんだよ。

マジで。。。? オイラがどこに住んでいるのか分かりましたか?

分かったよ。 オマエは埼玉県の草加市に住んでいるんだな。。。僕と同郷なんだよ。

あれっ。。。デンマンさんも草加市の出身ですか?

違うよ。。。オマエは埼玉県に住んでいる。 僕もかつて埼玉県で生まれて高校まで埼玉県で過ごしたのだよ。 そう言う訳で、僕とオマエは同郷だと言った訳なんだよ。

でも、どうしてオイラが草加市に住んでいると分かったのですか?

オマエのIPアドレスを調べたのだよ。

 (すぐ下のページへ続く)

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よく考えた?(PART 3 OF 4)

2011-02-16 16:48:30 | 日本人・日本文化・文学論・日本語
 
よく考えた?(PART 3 OF 4)




IPアドレス: 114.146.240.83
ホスト名:
p1083-ipbf2303souka.saitama.ocn.ne.jp

接続回線: 光
都道府県: 埼玉県
コンタクトポイント: 草加市
ネットワーク名: OCN
組織名: オープンコンピュータネットワーク

上位情報:
エヌ・ティ・ティ・コミュニケーションズ株式会社
(NTT COMMUNICATIONS CORPORATION)




あれっ。。。よく調べましたね? でも、個人情報を公開するのは良くないと思いますよ。



あのなァ~、ここはオマエが好んで遊んでいる2ちゃんねるではないんだよ。 オマエは2ちゃんねるがインターネットだと思っているようだけれど、2ちゃんねるで書くような落書きは世界のネットでは通用しないんだよう。

つまり、オイラのコメントは落書きだとデンマンさんはおっしゃるのですか?

その通りだよう。 とやかく言うよりもオマエが書いたコメントをここに書き出すよう。 これが何よりの幼稚な落書きの証拠だよ。


Beaverland Net Form Processor
From: servicemail servicemail@bravenet.com
To: barclay1720 barclay1720@aol.com

Date:Wed, Feb 9, 2011 3:01 pm.

MESSAGE SENT THROUGH YOUR WEBSITE

This form was submitted:
Feb 09 2011 / 15:01:39

userid = barclay1720
FreeCity = oldhist-nakatomi-worst
Your_Name =
Your_Email_Address =


Comments:

永遠にノーベル賞に無縁な理由がわかりますわ





2月9日の午後3時1分にオマエは上のようなコメントを書いた。



これがオイラの落書きだとデンマンさんは言うのですか?

人を馬鹿にしたような落書きだろう!? ハンドル名も書いてなければ、オマエのブログやホームページのURLも書いてない。 もちろん、メールアドレスも書いてない。 つまり、名無しのゴンベイが2ちゃんねるで書くような人を馬鹿にした落書きを書いているということじゃないか!

要するにハンドル名とオイラのブログのURLを書かなかったことがデンマンさんには気に喰わないのですか?

いや、それだけじゃない! オマエは、じっくりと僕の記事を読まなかったばかりか、よ~く考えた後でコメントを書いてもいない!

どうして、そんな事までが判るのですか?

オマエは、愚かにも上のコメントを書いてから、書かなくてもよい事を馬鹿丸出しで5分後に、また次のような事を書いた。


Beaverland Net Form Processor
From: servicemail servicemail@bravenet.com
To: barclay1720 barclay1720@aol.com

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Feb 09 2011 / 15:06:40

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何か倭国が百済の植民地だったから白村江の戦いで援助したとか言ってたけど・・・
近い年代の中国の歴史書隋書倭国伝には
新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。
って書いてんだよね。
植民地である倭国を百済も新羅も大国と見なして尊敬していたっての?
ノーベル賞が取れる日も近いね。





5分後に、オイラがまた書いたからデンマンさんはオイラの事を愚か者と呼ぶのですか?



いや、5分後に書いたからオマエが愚か者だと言ってるんじゃないんだよ。 この書き方を見ても、オマエが十分に考えた末に書いたコメントじゃないことが実によく分かる。 つまり、僕の記事もじっくりと読んでいないと言う事も、オマエの愚かな書き方によって十分に類推することができるのだよ。

5分後に書いたことがそれほど愚かなことですか?

あのなァ~。。。そればかりじゃないんだよ。。。2度目のコメントにはオマエの名前として“あ”と書いてある。 オマエ、草加せんべいを食べ過ぎて頭がおかしくなってしまったのか!?

草加せんべいを食べ過ぎると頭がおかしくなるのですか?

やだなあああァ~。。。だから、僕がオマエに聞いているんだよ! オマエ、1度目のコメントを書いた後で草加せんべいを口の中に5枚ぐらいぶち込んだのではないのかァ? うへへへへへ。。。

デンマンさん!。。。馬鹿にしないでくださいよ。 オイラは、そのような行儀の悪いことをしませんよう!

行儀の悪い事をしているじゃないか! つまり、ネチケットをわきまえずに2ちゃんねるで書くような愚かな落書きを書いている! 名前に“あ”と書くようなところが、まさに2ちゃんねる出身であることが実によく判る。 しかも、オマエは十分に調べずに資料を持ち出してきている。

どこか間違っていますか?

「隋書倭国伝」じゃなくて「隋書東夷伝 第81巻列伝46」だろう!?

「倭国伝」も「東夷伝」も同じようなものですよ。

同じじゃないよ! 資料を持ち出すときには、その出所は間違わずに書くべきだよ。

でも、やっぱり、個人情報を公開するのはまずいと思いますよ。

あのなァ~。。。それならどうして下らないコメントを書いたの? コメントと言うよりも落書きなんだよ! 落書きをもらっても誰も喜ばないんだよ。

言論の自由があるから書きたいことを書いたまでですよ。

確かに言論の自由・表現の自由がある。 だから、オマエが落書きを書いても自由だよ。 だけどなァ~。。。自由、自由、と言ってもコインに裏表があるように、自由の裏には責任・義務(ネチケット)がある。 オマエは書きたいことだけを書いて大切なネチケットを忘れているんだよ。 ハンドル名も、まともに書いてないじゃないか!

“あ”と書きました。

だからオマエは愚か者だと言うんだよ! オマエは、町できれいな可愛い子から「お名前を教えてください」と言われたら、“あ”と言うのか?

相手がきれいでかわゆい女の子だったら本名と、住所と電話番号を全部教えてしまいますよ。 うへへへへへ。。。

そうだろう! それなのに僕の記事には、どうして“あ”だけしか書かないの?

書きたくなかったからです。

だから、オマエはネチケットも守れない利己主義者なんだよ! “あ”という名前で落書きがしたいのならば、2ちゃんねるでやれよ! 僕の記事は2ちゃんねるではない。

だから、オイラの個人情報を晒すのですか?

あのなァ~。。。オマエの人格的な欠陥は、まず、文章を読む時にじっくり読まない。 また、書く時に充分に考えた後で書かない。 何事においても衝動的に行動するような傾向にある。 そう言う事がオマエの書いた落書きを見ると実に良く判る。 じっくりと考えて書くような性格ならば、1行の落書きを書いてから、また5分後に下らないコメントを書くような愚かな事はしないものだよ。

でも、やっぱり個人情報をバラすのは悪い事だと思います。
 
 
自業自得(じごうじとく)
 
 
オマエ、上のような格言があるのを知っているだろう?

もちろん、聞いたことがありますよ。

それにも拘(かかわ)らずオマエはIPアドレスを公開された事をぼやくの?

だってぇ、オイラのIPアドレスを公開されることはブラックリストに載るようなものですよう。 これからネットをやるのに、メチャやりにくくなりますよ。

あのなァ~、それがオマエの2番目の人格的な欠陥なんだよ。

どういうことっすかァ?

敵を知り己を知れば百戦危うからず

オマエは『孫子の兵法』の中の上の言葉を聞いたことがあるだろう?

何度か耳にしたことがありますよ。

だったら、上の兵法の常道を実践すればいいじゃないか!?

IPアドレスと「敵を知り己を知れば百戦危うからず」が、どういう関係にあるのですか?

あのなァ~。。。オマエは僕の記事を読んだのだろう?

もちろんですよう!

だったら、分かっただろうに!? 「成りすまし馬鹿」も「大阪の歴史馬鹿」も僕の記事の中でIPアドレスを晒されている。 僕の記事をじっくりと読めば「いい加減なコメントを書くと晒される」ということが分かるはずなんだよ。 つまり、「敵を知る」ということは、そう言う事だよ。 だから、下らない落書きを書くと晒されるのが分かっているから、常識的な人は、僕の記事に、めったに下らないコメントを書かない。

でも、まさか、オイラのIPアドレスが晒されるとは思いませんでしたよ!

僕の記事をじっくりと読まずに衝動的に感情的に落書きを書いたからだよ! つまり、身から出たサビだよ! 自業自得と言うことだよ! IPアドレスが公開された理由が分かっただろう?

つまり、デンマンさんの記事をじっくりと読まなかったオイラの落ち度だとおっしゃるのですか?

そうだよ! オマエも、けっこう理解力があるじゃないか!

妙な所でおだてないでくださいよ。 オイラは落書きをしたのではなく、まともな批判をしたつもりでいるのですよ。 それを落書きと言われるのは心外ですね。

あのなァ~。。。、オマエが独断と偏見で、そう思い込んでいても、オマエの愚かな文章を読むと、とても真面目な批判とは思えない。 衝動的に、感情的に書いた落書きとしか見えない!

どうしてっすかァ?

まず、“あ”というような人を小馬鹿にするような名前を書いている。 更に、ノーベル賞などを持ち出してきて人をおちょくっている! まだある! オマエが引用した資料の出所は「東夷伝」ではなく「倭国伝」と間違えて書いている。 資料の出所は俗説に従うのではなく正確に書くべきだよ! 日本史を理解しているつもりになっているオマエは、実は「歴史とは何か?」について全く理解していない!

それこそデンマンさんの独断と偏見っすよゥ! 人間は不完全だから間違いをすることは誰にでもあります。 「倭国伝」と俗説に従って書いたぐらいでオイラの人格を攻撃することは愚劣で軽率な事ですよ。

オマエも、けっこう、減らず口をたたくんだね。

とにかく、“あ”だとか「倭国伝」がどうのこうのと。。。そんな事は枝葉末節な事ですよ。 デンマンさんが「日本は植民地だった」と書いたことこそ独断と偏見に凝り固まった大きな間違いですよ。 そのような重大な間違いを脇においてオイラの人格攻撃をするのは卑劣なやり方です!

分かった。 オマエがそれ程までに「植民地」に拘(こだわ)るのならばオマエにも良く分かるように説明するよ。 まずなァ~、随書に書かれている当時の日本が独立国だったのか?

随書の中の「倭国」は独立国に決まっているでしょう!

オマエはアインシュタインの次の言葉を聞いたことがあるの?




おほほほほ。。。

卑弥子でござ~♪~ますわよ。

くどいようですけれど、また現れましたわ。

やっぱり、ジューンさんぱっかりに任せていると

退屈するのよねぇ~。

それで。。。つい、つい、出て来てしまうので

ござ~♪~ますわよ。

ええっ。。。?余計な事は

言わなくてもいいから、

さっさと言いたいことを言って消えろ!

あららあああぁ~

あなたはそのような厳しいことをあたくしに

言うのでござ~♪~ますか?

いけすかないことォ~♪~

分かりましたわ。

では、今日の一言を。。。

うふふふふ。。。

The most important thing is not

to stop questioning.

--- Albert Einstein



最も重要な事は質問する事を

止めないことです。


分かるわよねぇ~。

アインシュタインが言うから、意味があるのよねぇ~。

凡人が言うと、キザに聞こえるのでござ~♪~ますわよ。

それに、質問しにくい事もあるのよねぇ~。

でも、いい言葉でしょう?

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね、バ~♪~イ。







『Down And Dirty (2010年5月7日)』より




アインシュタインの言葉など持ち出してきて欲しくないですよ! 全く関係ないじゃないですか!



オマエだってぇ、全く関係ないノーベル賞を持ち出してきたじゃないか! だから、僕はノーベル賞でインスピレーションが湧いてアインシュタインの上の言葉が思い浮かんできたのだよ。 ちゃんと関係しているんだよ。

つまり、オイラが何事においても疑問を持たないとデンマンさんはおっしゃりたいのですか?

その通りだよ! オマエは、けっこう理解力があるんだね。

また、取って付けたようなお世辞を言わないでくださいよ。
 
 
“馬鹿の一つ覚え”
 
 
昔の人が上のように言ったのをお前も知っているだろう?

つまり、今度はオイラを更に馬鹿にするのですか?

いや。。。馬鹿にしているのではなくて、批判しようとしているのだよ。 オマエは、古い古い日本史を何の疑いもなく信じ込んでいる。 「日本史」は絶対不変のものではない! 時代と共に解釈の仕方や「歴史の真実」は変わってゆく。

それはデンマンさんの独断と偏見ですよ!

いや、違う! 僕が尊敬するカール・ポパーさんは次のように言ったのだよ。


There is no certainty in science

Karl Popper(1902-1994) realized that if the centuries of corroboration received by the Newtonian science had not provided it to be true, nothing was ever going to prove the truth of a scientific theory. So-called scientific laws were not incorrigible truths about the world after all; they were theories, and as such they were products of the human mind.

If they worked well in their practical application then that meant they must approximate to the truth, yet it was always possible, even after hundreds of years of pragmatic success, for someone to come along with a better theory that was closer still to whatever the truth was.

The Open Society

Only after he had worked them out with regard to the natural science did he fully realize that they applied to the social science as well.

(...)

Certainty, he agreed, was no more available in politics than in science, and therefore the imposition of a single viewpoint is never justified.

The most undesirable and indefensible forms of modern society are those in which centralized plannning is imposed, and dissent disallowed.

Criticism is the chief way in which social policies can be improved before they are implemented; and the noting of undesirable consequences is the promptest cause of their modification or abandonment after they have been implemented.

(...)

In politics, as in science, we are continually replacing established ideas with what we hope are better ideas. Society too is in a state of perpetual change, and the pace of that change is increasingly fast.




pp.222-224
"The Story of Philosophy" by Bryan Magee
Published in Canada in 1998
by the Reader's Digest Association (Canada) Ltd.



(すぐ下のページへ続く)

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よく考えた?(PART 4 OF 4)

2011-02-16 16:46:42 | 日本人・日本文化・文学論・日本語

 
よく考えた?(PART 4 OF 4)



つまり、ポパーさんは科学にも、また歴史や社会科学、政治にも“絶対不変の真理”なんてものは無い!と言っているんだよ。 常に批判の目で物事を見ることが最も重要なことだと言っている。 つまり、アインシュタインが言った Don't stop questioning! と同じようなことを言っている。 何事においても批判する態度が大切だと言うことだよ。



要するに、随書の中の「倭国」が独立国家であるということにも疑問を持て! 植民地であったことも充分に考えられる! デンマンさんは、そう主張するのですか?

その通りだよ! アインシュタインが生きていたら、おそらく僕の言うことを応援してくれると思うよ! 「倭国」は純然たる“植民地”では無かったかもしれないけれど、決して現在我々が考えているような独立国家ではなかった。

その証拠は。。。?

ネットサーフィンしていたら次のような掲示板が目に付いた。


倭国(猿の国日本)は

百済(文明人の国朝鮮)の属国


1 :日本人の公式名称=日猿:2007/11/22(木)
23:22:44.56 ID:t6CPeEpx

古代からの東アジアの情勢
九州(野蛮な猿の国)→百済(文明人の国)の属国
本州(野蛮な猿の国)→中国(超大国)の植民地
これが事実。朝鮮の偉人が蛮族の日猿人どもに知恵を授けたわけだ。
文化、儒教、道教、律令制度、貨幣制度、宗教、文字、文学、文明技術・・・・・
つくづく日本って国は朝鮮や中国からの貰い物で出来上がった国だとわかるな。
まさに朝鮮様様、中国様様というわけだ。
アジアの政治・経済・文化の中心であった中国からすれば日本はまさに東の最果ての辺境国だったわけだ日本人が勝手に独自の文化だと思い込んでる伝統芸能や風習や文学なんかもその大半は朝鮮を通って伝えられた中国のパクリだったりするからな
天皇という名称や元号なんかもその典型が・・・




『倭国は百済の属国』より




マジで、こんな酷(ひど)い事が書いてあるのですか?



ウソだと思ったら上のリンクをクリックして確かめてみたらいいよ。

でも、これは証拠にはなりませんよ! 一つの意見に過ぎません! いや。。。独断と偏見ですよ! もしかしてデンマンさんが書いた自作自演じゃないっすかァ?

やだなあああァ~。。。僕が自作自演までしてオマエに反論するわけが無いだろう! 第一、上の文章は2007年の11月に書かれたものだよ! はっきり言うけれど、僕が書いたものじゃない! 弁天様に誓って、天神様に誓って、お稲荷様に誓って、僕はウソをついていないことをここに宣言するよ!

もし、それがウソだとしたら。。。。?

だとしたら、僕に針千本を飲ませてもいいよ!(微笑)

つまり、「倭国」が植民地でなかったとしたら百済の「属国」だったとデンマンさんは主張するのですか?

その通りだよ! そもそも「倭国」という呼び方は日本人が付けた国名じゃない! 中華思想に基づいて当時の中華人が付けた国名だよ! 「随書 東夷伝」を書いた著者の目に、当時の日本は「野蛮な猿の国」以上でも以下でもなかった。 ところが、オマエは中国の史書を鵜呑(うの)みにして次のような文章を引用した。


新羅、百濟皆以倭為大國、

多珍物、並敬仰之、恒通使往來。


新羅・百濟は、みな倭を大国だと見なし

珍しい物が多いと思い

並(なら)びに これを敬(うやま)い仰(あお)いで、

恒(つね)に使いを通わせ往来(おうらい)すと

【デンマン意訳】





このどこが間違っているのですか?



だから、オマエは文章をじっくりと読んでいないと僕は言っているのだよ! オマエは中国の戦国時代の故事を良く理解していないので上のような頓珍漢(とんちんかん)な事を書いてしまった。

その中国の戦国時代の故事ってなんっすかァ?


合従連衡(がっしょうれんこう)

「従」は縦、「衡」は横。
中国の戦国時代、西の強国・秦に対抗するため、南北に連なる六国の連合をめざしたのが、「合従」政策。
これに対抗するために、秦が六国と個別に(横方向に)和平を結ぼうとしたのが「連衡」政策である。
転じて、さまざまに外交政策をめぐらすことを指す。

遠交近攻(えんこうきんこう)

「合従連衡」と同様、中国の戦国時代の外交政策で、遠い国と結んでその国に牽制してもらいつつ、近い国を攻め取っていくというもの。
現在でも通用する戦略の基本である。
秦の宰相・范雎(はんしょ)が唱え、秦がこれを容れて、ついには全土を統一した。




この故事とオイラが書いた事と、どのように関わっているのですか?



あのなァ~、戦国時代の頃の戦略の定石が現在にまで四字熟語として語り伝えられてきた。 オマエが引用した「隋書東夷伝 第81巻列伝46」に書かれた事も、このような時代背景を考えないで表面的に解釈するとオマエのような浅はかな落書きになってしまう。

オイラが表面的にしか理解していないとデンマンさんはおっしゃるのですか?

もちろんだよ。 コインには表と裏がある。 オマエは表だけしか見ていない。 裏を見なければ全貌が分からない! だから、オマエは頓珍漢(とんちんかん)な事だけしか書けなかった。 当時の戦略の常識を考えるならば次のように解釈すべきなんだよ!


新羅、百濟皆以倭為大國、

多珍物、並敬仰之、恒通使往來。


新羅・百濟は、やがて隋に滅ぼされる運命にある。

だから、両国とも悪あがきをしているようだ。

それで新羅・百濟は、倭国を大国だと期待しながら

これを敬(うやま)い仰(あお)いで、

助けを求めているけれど、

すでに隋は「遠交近攻」戦略をとっている。

無駄なことをしても無駄なのだ!

新羅も百濟も隋と倭国の挟み撃ちにあって

滅びる運命なのだ。

その後で隋は倭国を滅ぼすまでよ。

あの国の「聖徳太子」という思い上がった男が

ぬけぬけと次のような国書を持って寄越した。

「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」

【日(ひ)出(いず)る処(ところ)の天子(てんし)

書を日(ひ)没(ぼ)っする処の天子に致(いた)す

恙(つつが)なきや。】

隋の皇帝と倭国の王を同列に並べるなんて

けしからん!

だから、隋にとって、あの男は気に喰わないのだよ。

【デンマンの裏を読んだ意訳】





これは、デンマンさんの考えすぎですよう! とにかく、そういう独断と偏見もあるという事がよ~く分かりました。。。で、「倭国」は一体いつ独立国家になったのですか?



だから、精神的には聖徳太子が上の国書を隋に持って行かせた時だよ。 隋と対等である「独立国家」としての気概が上の国書の一部から読み取れる。

つまり、隋の時代に「倭国」は独立国家になったとデンマンさんはおっしゃりたいのですか?

いや。。。対外的に「倭国」が独立国家になったのは、「私たちの国の名前は“倭国”ではありません。“日本国”です」と宣言した時からだよ。 そして、菅原道真が隋も唐も中華思想に凝り固まっているけれど、すでに唐の国力は衰え、日本が文化的には唐から吸収するものが無くなったから、今後は遣唐使船を派遣する必要はないと朝廷に助言した時からだと僕は思っているのだよ。 それ以降、日本独自の「カタカナ」、「ひらがな」が生まれるようになった。

つまり、その独立の気概が日本文化を生み出すようになった、とデンマンさんは主張なさるのですか?

そうだよ。 その頃の日本の独立性と比較したら現在の日本はアメリカの属国としか言えないと僕は思う。 菅原道真が今生きているとしたら、アメリカ追随の日本の現状を見て嘆くと思うのだよ。

デンマンさん!。。。日本がアメリカの属国だというのは聞き捨てなりませんよ! 必ず、オイラのような奴が、また反論のコメントを書きますよ。

うん。。。実は、それを期待しているんだよ。 うへへへへへ。。。


【レンゲの独り言】



ですってぇ~。。。
日本史の教科書には日本が植民地だったなんて書いてありませんよね。

でも、ちょっと考えてみると、日本が植民地だった、あるいは属国だったと考えた方がすごく納得できるようなこともあります。
たとえば、ある時点で、急に日本で漢字が使われ出したのですよね。
不思議なくらいに文字のない所に急に漢字が使われだした。

イギリスからメイフラワー号に乗ってアメリカ大陸に清教徒の人たちが渡ったように、朝鮮半島や中国南部の人たちが船に乗って九州に渡ったと考えると、日本もそんな風に“植民地化”していったのかな?
そう思えないこともありません。

とにかく、次回も面白くなりそうですわ。
あなたもどうか、またあさって読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。




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こんにちはジューンです。

地球の歴史って、ずいぶん前から私たちは

知っていたと思いがちですけれど、

意外に知らないのですよね。

たとえば、地球はいつごろ誕生したのでしょうか?

1650年にアイルランドの大主教・ジェームス・アッシャーが

旧約聖書などの記述を調べた結果

天地創造が紀元前4004年に成されたとしたのです。

この見解はキリスト教世界で多く採用されたのです。

でも、18世紀から19世紀になって

古い地層や化石が発見され、

地球が誕生したのはもっと古いことになったのです。

現在では46億年前に

地球が誕生したと考えられています。

太陽系の隕石や月の岩石の生成年代から、

この数字が出てきたのです。

月の形成時期は、45億5000万年前とされています。

地球が誕生して間もない45億5000万年前から

44億5000年前のマントルに由来する溶岩が、

カナダ・バフィン島とグリーンランド西部で見つかったと、

米カーネギー研究所の研究チームが

2010年8月に『ネイチャー』に発表しました。

…と言う訳で、もっと古いマントルに由来する溶岩が

見つかることも十分に考えられます。



つまり、地球が46億年前に生まれたという地球誕生説も

より真理に近い仮説に過ぎないのですよね。

カール・ポパーさんが言ったように

“絶対不変の真理”はありません。

常に真理により近い仮説が発見されているのです。



ところで、デンマンさんがレンゲさんの記事を集めて

一つにまとめました。

もし、レンゲさんの記事をまとめて読みたいならば、

次のリンクをクリックしてくださいね。

■ 『最近のレンゲ物語 特集』



 『あなたもワクワクする新世代のブログ』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。






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美しくなる女と鏡

2011-02-16 16:46:00 | 美容・健康・心の病気・ダイエット
 
美しくなる女と鏡



「鏡よ、鏡よ、この世で一番美しい女性はだーれ?」

英語では次のように言うのですよ。

Mirror! Mirror!

Who is the prettiest in the world?

「ここでは王妃様が一番美しいのです、

でも、本当はあなたの娘・白雪姫ですよ。

森の中で生きています」

鏡はこのように言うのです。

この鏡が、このように言うたびに

白雪姫は嫉妬に狂った実母の王妃によって

度重なる不幸に出会うのでした。




こんにちは。ジュンコです。
あなたも、このお話を童話で読んだことがあるでしょう?

この母親が怖すぎるので、継母(ままはは)とされていますが、
グリム童話初版本では実母となっています。



王妃は、白雪姫を殺そうと毒リンゴを作り、リンゴ売りに化けて白雪姫に食べさせます。
白雪姫は毒リンゴを食べて倒れ、小人たちは悲しみに暮れて、
白雪姫をガラスの棺に入れます。
そこに王子が通りかかり、白雪姫を一目見るなり、死体でもいいからと白雪姫をもらい受けます。

家来に棺を運ばせますが、家来は途中で疲れて、
やつあたりで棺から白雪姫を出し殴ると
白雪姫はリンゴを吐き出し、生き返るのです。

でも、白雪姫はディズニーの映画ではもっとロマンチックに生き返るのです。
家来が殴るのであはなく王子様が優しくキスすることにより目を覚まします。



白雪姫と王子様はやがて結婚し、
その結婚披露宴で、王妃は真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされ、
死ぬまで踊らされました。
ちょっと怖いお話ですよね。



わたしのお話はちょっと違うのですよ。
聞いてくださいね。

来春、小学校にあがる女の子がいました。
お父さんが転勤のため、引越しの準備をしていました。
女の子もそれを手伝いました。
いつも大切に使っているものをダンボールに入れている時、
女の子はお気に入りの鏡を手にしました。

もうすぐ、小学生になる彼女は、学校がどんなものか少し不安でした。
それで鏡に問いかけました。
「鏡さん、鏡さん、あたしはとても不安なのよ」

鏡は答えて言いました。

「何がそんなに不安なの?」

「小学校がどんなところか不安なのよ。
鏡さん、なにか楽しいことがあるの?」

鏡はやさしい声で答えました。
「お絵書きがもっとうまくなったりね、
みんなとドッチボールをしたりね、
文字を覚えたりしてね、いっぱい本が読めるのよ」

女の子はにっこりと笑みを浮かべました。
そこで鏡はこう言いました。

「でもね、行ってみないとあなたにとって何が楽しいことか?分からないでしょう?」

「ねぇ、鏡さん、小学校が終わったら、今度は中学校があるのよね?
何が楽しいの?」

「すくすく成長して、いろんなスポーツができたり、他の国の人たちとお話ができる言葉を勉強するのよ。
そして、あなたにも好きな人ができるのよ。」

女の子は、ちょっぴり、はにかみました。
そこで鏡はこう言いました。
「でもね、行ってみないとあなたにとって何が楽しいことか分からないわよ」

「でも、鏡さん、あたしきれいじゃないから、あたしを好きになってくれる男の子が居るかしら?」

鏡は答えます。

「心配する事は無いのよ。女はね、どんなにきれいな人でも自分が世界で最も美しいとは思っていないものなのよ」

「でも、白雪姫のお母さんは自分が最もきれいだと。。。」

「そう思えなかったから、白雪姫にイジワルしたのでしょう?」

「でも、あたしもきれいになりたいわぁ~」



「心配する事は無いのよ」

「どうすればいいの?」

「あなたが、もっと自分に自信を持つようになることよ」

「どのようにして。。。?」

「だから、美容情報サイトに行くのよ」

「それなぁ~にィ~?」

「きれいになるための情報がゲットできるのよ。だから、あなたも知ることによって自信を持つ事が出来るのよ」

「本当にきれいになるかしら?」

「小学校に行くのが不安になる事とおんなじよ。行ってみないとあなたにとって何が楽しいことか分からないでしょう?
きれいになる事も、それとおんなじよ。知らないと不安になるものなのよ。」

こういうお話なんですよ。女の子の気持ちがお分かりになりますか?

では、あなたも、この女の子のようにきれいになるために、もし関心があったら次のリンクをクリックして覗いてみてくださいね。

■ 『あなたが美しくなるための美容・健康情報サイト』

ところで、レンゲさんは境界性人格障害に悩んでいるのですけれど、
生き生きと愛ある人生を歩んでいます。

もしあなたが、美しくなるだけではなく、愛とは何か?を考えているならば、
ぜひ次のスレッドを読んでみてくださいね。

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きっと、あなたの参考になると思います。
コメントがあったら、ぜひ書いてくださいね。
レンゲさんも喜ぶと思いますわ。



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おほほほほ。。。

卑弥子でご

ざ~♪~ますよゥ。

また、例によって、

出てまいりましたわぁ~。

ええっ?

鏡と白雪姫のお話に

どうして出てくるのかって…

あたくしだって

恋をしたいので

ござ~♪~ますわよ。

でもね、なかなか

思うように、

すばらしい殿方が

現れないのですわよ。

だから、仕方なく

チョコレートを食べて

その気分を味わっているのですわよゥ。

でもねぇ、太るのよねええええ~~

うふふふふふふ。。。。

あなたもね、あまり食べない方がいいわよ。

ええっ?

どうするのかって。。。?

あなたも、ジュンコさんの話をきいたでしょう?

あなたも上のリンクをクリックして

美容情報サイトへ行くのでござ~♪~ますわよ。

何事もやってみないとわからないものでしょう?

おほほほほ。。。。

それから、あたくしがモデレーターをやっている

次のサイトもよろしくね。

■ 『あなたも笑って幸せになれるサイト』

面白いお話がたくさんあるのでござ~♪~ますわ。

あなたもきっと笑ってしまいますわよ。

中毒にならないようにねぇ~

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。バ~♪~イ



 

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夢とロマンの横浜散歩(PART 1 of 4)

2011-02-11 16:12:16 | 日本人・日本文化・文学論・日本語

 
夢とロマンの横浜散歩(PART 1 of 4)







Subj:小百合さん、おはよう!

元気でバレンタインを迎えてね。

きゃはははは。。。


From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date: 08/02/2011 6:12:12 PM
Pacific Standard Time
日本時間:2月9日(水曜日)午前11時12分
 

小百合さん元気?
今年初めての風邪を引きましたよ。
んもお~~
外に出る機会が多くなると、やっぱり風邪を引きやすくなるんだよね。
去年の12月29日から、ほぼ毎日のようにバンクーバー図書館へ歩いて通っているんだよ。

1月30日の日曜日にも図書館へ行きました。
ロビーが2階にあってエスカレーターの後ろの方に長机に10台ばかりネットに接続可能なパソコンが置いてある。
2階には他に20台ほど同じようなパソコンが配置されている。



7階建ての図書館だから、ネットができるパソコンはすべての階を合わせれば210台ほどになる。
だから、予約しなくても、ぶらりと訪ねて空いているパソコンを見つけるのはそれほど難しい事ではない。

1月30日には長机の片側に5台並んでいる、ちょうど真ん中が空いていたので、そこに座った。
見れば向かい側のパソコンも空いていた。
記事を書き始めたら、そのうち向かい側に大きなカナダ人の女が現れた。



身長が180センチで体重が少なくとも80キロはあるプロレスラーのような女です。
これで長机の10台はすべてふさがれたことになる。

おおおォ~ すっげぇ~ と感心して見ていたら、この女がすごいセキをし始めたのですよう。
体を震わせ、周りの空気も振動させるようなすごいセキです!
僕はモニターに隠れるようにして、この大女のセキをかわしました。

ところが、まったく遠慮のない大女で、立て続けにセキをしまくる!
モニターに隠れるようにしたって、風邪のウィルスはこの女の吐き出した飛沫に乗って長机の周りの空気に浮遊している。
これはヤバイ!

女は1時間ほどネットをやって帰って行ったけれど、僕はさらに1時間続けたから、2時間の間に風邪のウィルスの飛沫を吸い込んだに違いない。

翌日、案の定、喉のあたりが可笑しい。
僕の場合、これまでの風は鼻から来て喉に来るのだけれど、
あの大女の風邪は喉に直接来た。

あの長机に座っていた10人のうち、彼女を除いた9人は、まず間違いなく彼女から風邪を移されたに違いない。
とにかく、タチの悪い風邪を移されましたよ!

僕は薬は一切買わない主義。
もう30年も医者にかかったことがないし薬を飲んだこともない。
栄養のあるものを食べて十分に休養をとる。
これに尽きる!
そう思っているので、風邪退治の食糧を買いに近くのジョーのスーパーマーケットに行きました。
目に付いたのが安売りのMINI Ravioliの缶詰。



425 gram Cdn$1.00
(425グラム カナダ1ドル 日本円で約83円)

MINI Ravioli
Beef Ravioli in
tomato & meat sauce
PRODUCT OF U.S.A.

MINI Ravioli
Ravioli au bœuf en
sauce tomate & viande
PRODUCT DES É-U.A.

(英語・フランス語2ヶ国語表記)



www.chefboyardee.ca

カレーパウダーとガーリックパウダーをたっぷり入れてホットで辛いスープにしようと思い立ったのでした。
もちろん、辛過ぎないように蜂蜜を加えてみました。
そして卵を2つ落として卵とじにしてみました。
これが効きましたよ。

2缶買ってきたので2度作り、4回に分けて食べた。
あの大女のように図書館を揺るがせるような大きなセキはついに出なかった。

充分に睡眠をとっているので、あれから毎日図書館に通っているけれど、回復に向かっています。
喉の辺りがまだすっきりとしないので完治していないけれど、あの大女の酷い風邪は何とか退治できたと思っているのですよう。
きゃははははは。。。



軽井沢タリアセン夫人もタチの悪い風邪にかからないようにルンルン気分でバレンタインデーを迎えてね。
じゃあ、バ~~イ!






デンマンさん。。。風邪を引いたのを向かい側に座ったプロレスラーの女のせいにしていますけれど、薄着で外に出たのではないですか?



いや。。。薄着ではありませんでしたよ。 暖かい格好をして出かけたのですよ。

熱い辛いラヴィオリ・スープ仕立ての玉子とじを食べるのも結構ですけれど、スキーズボンでも買って、暖かくしてお散歩してくださいね。

はい、はい、はい。。。でも、今年はすでに風邪の免疫がついたから、もうタチの悪い風邪にかからないと思いますよ。

そのように過信するのは良くありませんわ。 常に新しいタイプの風邪が出回りますわ。。。で、また夢で横浜を散歩したのですか?

良く分かりますねぇ~。。。



■ 『パリの空の下で』

(2010年12月1日)





Subj:小百合さん、おはよう!

夕べ小百合さんの夢を見ましたよう!

きゃはははは…


From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date: 28/11/2010 5:29:09 PM
Pacific Standard Time
日本時間:11月29日(月)午前10時29分
 



パリの夢を見たと言って記事を書いたでしょう?



小百合さんは良く覚えていますねぇ~。。。

つまり、デンマンさんは記事にするネタに困っているのですわね?

いや。。。決してそう言う訳ではありません。 記事のネタなら数え切れないほど転がっているものですよう。

それで横浜のどこへ行ったのですか?

BankART1929ですよう。 

 (すぐ下のページへ続く)



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夢とロマンの横浜散歩(PART 2 of 4)

2011-02-11 16:11:19 | 日本人・日本文化・文学論・日本語


 
夢とロマンの横浜散歩(PART 2 of 4)


BankART1929





BankART1929は、横浜市が推進する、歴史的建造物や港湾施設等を文化芸術に活用しながら、都心部再生の起点にしていこうとする文化芸術創造の実験プログラムのひとつである。

BankART(バンカート)は旧第一銀行横浜支店(BankART1929 Yokohama)と旧富士銀行横浜支店(BankART1929 馬車道)ふたつの建物を芸術文化に利用するという意味を込めた造語。
ちなみにその舞台となる旧第一銀行と旧富士銀行の建物はどちらも1929年に建てられた。
世界恐慌の始まったこの年はニューヨーク近代美術館(MOMA)が設立された年。
どちらの建物も古代ローマのトスカナ地方独自の建築物の様式「トスカナ式」でつくられている。
 
2003年3月に実験事業としてスタートし、2006年度からは本格事業へと移行。
旧第一銀行を活用した「BankART 1929 Yokohama」と旧富士銀行横浜支店(BankART1929 馬車道)の二カ所を拠点(スペース)として活動していたが、2004年12月31日に「BankART1929 馬車道」の活用は終了、2009年3月31日に「BankART 1929 Yokohama」の活用は終了。
現在は日本郵船の湾岸倉庫を利用した「BankART Studio NYK」を主な拠点として活動を行っている。

また、2006年7月には主にアーティストインレジデンス機能をもつBankART桜荘がオープンしている(2010年4月30日、活動終了)。

BankART妻有は、2006年の大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレに出品されたBankARTが運営(管理)している農家である。

BankART1929ではアートイベントの企画・運営事業以外にも様々な取り組みを行っている。
範囲はアート、建築、パフォーマンス、音楽、会議他あらゆるジャンルに渡る。
スタジオ、スクール、出版、カフェパブ、ブックショップ、コンテンツ制作をベースにしながら、主催、コーディネート事業等、年間650本以上の事業を活発に行っている。

2ヶ月単位でアーティストに制作スペースを貸し出し、2週間に一度程度の一般公開を行っている「アーティストインスタジオ」や、2ヶ月で8コマを基本単位に各ジャンルの第一線で活躍する人たちを講師に迎えて開催している「BankARTスクール」。

その他、アート関係の本やスクール講師の著作などの芸術書籍を扱うBankARTショップの運営に加え、展覧会の内容を出版事業へと展開したり、横浜の地ビールメーカー「横浜ビール」とBankARTを利用するアーティストのタイアップによるオリジナルブランドの開発も行うなど、コンテンツ制作事業も行っている。
これらの事業の売り上げはBankART1929の運営資金として活用されている。

出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




なぜBankART1929なのですか?



ローマに居るような気分を味わったのですよ。 バンクーバー図書館はローマのコロシアムを思い出させる建物ですよう。





分かるでしょう? BankART1929は比較的小さな建物なんだけれど、壮大なバルコニーと4本のトスカナ式の列柱の迫力はコロシアムにも匹敵しますよ。



。。。で、中に入ってみたのですか?

もちろんですよ。







こうして仲良く小百合さんとコーヒーを飲んだのですよ。



中にはコーヒーショップがあるのですか?

いや、ありません。 セルフサービスのコーヒーカウンターがあるだけです。

無料ですか?

もちろん二人で200円のカンパをしましたよう。 うししししし。。。

その後、どこに行かれたのですか?

横浜へ言って山手を見ないでは帰れないので、小百合さんと自家製のケーキを食べようと「えの木てい」へ行ったのですよう。





日に照り映える真っ白い外壁。 赤い洋瓦の屋根。 ワインカラーの軒周り。 窓縁とのコントラスト。 テラスに小百合さんと座りながら自家製ケーキを食べて紅茶を楽しんで僕は満足しましたよう。



デンマンさんは何が何でもロマンチックに演出しないと気がすまないのですわね。

そう思いますか?

ちょっとわざとらしいですわ。

あのねぇ、夢を見る時ぐらい僕の自由にさせてくださいよう。 うしししし。。。 それで、さらにロマンチックに盛り上げようと僕は小百合さんを中区日本大通にある「Alte Liebe(古い恋人)」へ連れて行ったのですよ。







あらっ。。。なんだか素敵なお店ですわね。



そうでしょう?!。。。クラシック音楽を生(なま)で聴けるのですよ。

デンマンさんは、いつからクラシック音楽にハマッタのですか?

いや。。。別にクラシック音楽にハマッタわけではないけれど、たまには小百合さんと格調高く横浜でクラシック音楽を聴きながらディナーを楽しみたいなあああァ、と思ったわけですよ。 うししししし。。。







あらっ。。。マジでクラシック音楽を聴かせるのですか?



もちろんですよ。 室内はウィーンの工房が手がけたというインテリアで占められているのですよう。 なんとなくオーストリアの音楽の都に居るような気分に浸れるのです。 しかも、ヨーロッパから招いた音楽家たちによる生演奏ですよ。

これがデンマンさんの夢のメイン・イヴェントなのですか?

いや。。。違うのですよう。 次の写真を見てください。





あらっ。。。学校のようですわね?



そうです。 山手にある「横浜共立学園」の本校舎ですよ。

どうして学校などを持ち出してきたのですか?

あのねぇ~、この校舎を設計したのが、なんとヴォーリズさんなのですよ。


ウィリアム・メレル・ヴォーリズ

William Merrell Vories




1880年10月28日 - 1964年5月7日

アメリカのカンザス州レブンワース生まれ。
日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家。
建築家でありながら、ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の一人としてメンソレータム(現メンターム)を広く日本に普及させた実業家でもある。
そしてまたYMCA活動を通し、また「近江ミッション」を設立し、信徒の立場で熱心にプロテスタントの伝道に従事した。
よく「宣教師」と紹介されるが、彼はプロの牧師ではなくキリスト教徒伝道者である。
讃美歌などの作詞作曲を手がけ、ハモンドオルガンを日本に紹介するなど、音楽についての造詣も深かった。

英語教師として来日後、日本各地で西洋建築の設計を数多く手懸けた。
学校、教会、YMCA、病院、百貨店、住宅など、その種類も様式も多彩である。
1941年(昭和16年)に日本に帰化してからは、華族の一柳末徳子爵の令嬢満喜子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗った。
「米来留」とは米国より来りて留まるという洒落である。

近江商人発祥地である滋賀県八幡(現:近江八幡市)を拠点に精力的に活動したことから、「青い目の近江商人」と称された。
また太平洋戦争終戦直後、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーと近衛文麿との仲介工作に尽力したことから、「天皇を守ったアメリカ人」とも称される。

略歴

1880年 - 米国カンザス州レブンワースで生まれる。

1802年 - この頃から教会の礼拝に出席するようになり、後日、幼児洗礼を受ける。

1900年 - イーストデンバー高校を卒業。コロラドカレッジ理工系課程に入学し、YMCA活動を開始する。
当初は建築家志望でマサチューセッツ工科大学への入学が決定していたが、家庭の経済状況を考えて近くのコロラドカレッジに入学している。

1905年 - 滋賀県立商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)の英語科教師として来日する。

1919年 - 子爵令嬢一柳満喜子と結婚。結婚式は自らが設計した明治学院の礼拝堂で挙げた。

1920年 - ヴォーリズ合名会社を解散し「W・M・ヴォーリズ建築事務所」および「近江セールズ株式会社」を設立する。

1941年 - 日本国籍を取得し、一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と改名。ヴォーリズ建築事務所を一柳建築事務所と改称する。

1945年 - マッカーサーと近衛文麿との仲介工作をおこなう。

1951年 - 藍綬褒章を受章(社会公共事業に対する功績による)。また、「失敗者の自叙伝」を「湖畔の声」に連載(1957年まで)。

1957年 - くも膜下出血のため、軽井沢で倒れ、療養生活に入る。

1958年 - 近江八幡市名誉市民第1号に選ばれる。

1961年 - 黄綬褒章を受章(建築業界における功績による)。

1964年 - 近江八幡市慈恩寺町元11の自邸(現ヴォーリズ記念館)2階の自室にて永眠。83歳。近江八幡市民葬および近江兄弟社葬の合同葬が行われ、遺骨は近江ミッションの納骨堂である恒春園(近江八幡市北之庄町)に収められる。没後、正五位に叙され、勲三等瑞宝章を受章する。

出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




あらっ。。。もしかして「睡鳩荘」を設計したヴォーリズさんと同一人物ですか?



そうですよ。 偶然と言えば偶然だけれど。。。偶然と言うには。。。

やっぱり、偶然ですわよう。

小百合さんは冷静に考えすぎるのですよう。。。もう少しロマンチックに考えてみたらどうですか?

私は専業主婦ですから、どうしても毎日の日常茶飯事に追い回されてロマンチックどころではありませんわ。

だから、惰性の日常から自分を見つめ直す意味でも夢を見るのですよう。

デンマンさんのようにですか?

そうです。 うしししし。。。そう言っても小百合さんはすぐに夢を見るわけにも行かないだろうから、小百合さんのために懐かしいメールを持ち出しますよ。 読んでみてください。

 (すぐ下のページへ続く)

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夢とロマンの横浜散歩(PART 3 OF 4)

2011-02-11 16:10:15 | 日本人・日本文化・文学論・日本語


夢とロマンの横浜散歩(PART 3 OF 4)




う~♪~ん!。。。

読み応えがありましたよう!

小百合さんが軽井沢で

十分に楽しんできたことが

良く分かりますよう。

「私の軽井沢物語」も読んだしね。





投稿日時: 2008/08/22 12:30 (ロンドン時間)
日本時間: 8月22日 午後8時30分
バンクーバー時間: 8月22日 午前4時30分





朝吹 登水子さん の「私の軽井沢物語」は
23年くらい前 に出版だったかな?
私が20歳 ?

地理的、場所の名前、軽井沢を好きでない人にはつまらないかも。
登場人物も 有名な人ではあるけれど昔の人で こんがらがって 読みずらいかもね。

でも 名前をみて ん~ あの人の家系のお祖父さんかも?
とかと想像して 話を頭に入れていきました。

翻訳(フランスの本)をしていたそうですが、そっちは 全然 覗こうと思いません。

本は小説でなく まったく あの方の思い出をそのまま 本にしてあった。
軽井沢はまだ120年ぐらいの歴史です。
その前の武士の時代のちょんまげの所は知ろうと思いません。


(アレキサンダー・クロフト・ショー)


(日本聖公会・ショー記念礼拝堂)

1886年 ショー氏が軽井沢を避暑地として 暮らし始めた明治から 自分なりに 知りつくしたかったのです。
本の中で初めて 聞いた場所 知った事が新鮮で 次の日はその場所に 行ったりと…
楽しかったですよ。





横浜のニュー グランドホテル が軽井沢にあって演奏会や ダンスパーティ が開かれていた。
そんな大昔に 朝吹さんは青春時代を軽井沢で過ごせた。
なんて 幸運な人。

戦争で 大変な食糧難の時も流通の悪い
軽井沢で疎開した不幸な場面も読んだ。


僕も調べてみましたよう。
朝吹 登水子さんがどんな本を書いていたのかと思って。。。
僕は、彼女の本は一冊も読んでないのですよう。
名前は聞いたり見たりしたことはあったのに。。。

もしかすると、知らずにこの人の訳した本を読んでいたかもしれません。
僕はフランス文学にかぶれていた事もありましたから。。。

調べた後『本と映画』のサイトで次の記事を書きました。
読んでみてね。

■ 『私の軽井沢物語 - 朝吹登水子』
   (2008年8月20日)




本を読み終えた日 ちょうど諏訪神社の花火の日
夜8時でなく 夕方はやく 4時ごろ行きました。



仙台の七夕のように ストリートを全部飾った、派手さもなく、隅田川の花火のように 広い河原でみる ワイドな花火でなく、神社の庭 入口 鳥居にかけて 並ぶ 夜店30軒ぐらい。
昔の町のお祭りって感じがした。

諏訪神社は軽井沢の中で 別荘地帯と違う日本的な場所と言ってた 気がする。
それを 確かめたくて4時頃行った。

確かに ケヤキ イチョウ 桜 ブナ科の大木でミズナラ。
言われてみれば 本当だ。
一人では 手で囲えない 3人位かな~。
きっと 樹齢200年もっと?
軽井沢の避暑地が始まる前から そこに立っていたでしょう。


うん、うん、うん。。。
小百合さんって、結構、好奇心が旺盛なんだよねえ~♪~。
中学生のときに『エマニエル夫人』を観たほどだからね。。。



うしししし。。。


でもねぇ、人間って、男も女も、年齢に関係なく好奇心が旺盛じゃないとダメだ!と言うのが僕の持論ですよう。
一生なんて短いものです!
どうせ、この世に生まれたからには、せいぜい広い世界を見て、いろいろな事を経験して満足して死んでゆきたいものです。

そうでないならば、生まれてすぐに死んでしまったのと変わりがないのですよう。

どちらの人生を選ぶか?
決まってますよね。
好奇心旺盛で、さまざまな人と出会い、世界のさまざまな場所で人生を楽しむ。
それこそ人間らしい人生だと僕は信じていますよう!

僕と小百合さんの出会いは、カナダのブリティッシュ・コロンビア州のバーナビーの“山の家”でした。







もしも、小百合さんが小さな小さな女の子で、
好奇心もなく栃木県の田舎しか知らない女の子だったら、
僕との出会いはなかったのですよね。

そういう意味でも、小百合さんの好奇心と行動力は、実に素晴しいのですよう。
そうです!

小百合さんは朝吹登水子さんに勝るとも劣らないほど素晴しいのですよう!



小百合さん万歳!



夢とロマンの女神、万歳!


そうです!そうですよゥ!

これが偽(いつわ)らざるデンマンの気持ちですう~♪~。






本の事で勉強になった なんて 子供みたいな事
私が言って、
デンマンさんが 「何が?」と検索している
と思いました。 


そうですよう。ずいぶんと調べてみました。








朝吹さんの 別荘を塩沢湖のほとりに移築したそうです。
睡鳩荘(すいきゅうそう)
本にでてくる リビングや イスに会えると
うれしい 気持ちですが…
次回いきます。
長々 ごめんね。


うん、うん、うん。。。そうですか?
小百合さんと一緒に行ってみたいですね。



投稿日時: 2008/08/22 12:51 (ロンドン時間)
日本時間: 8月22日 午後8時51分
バンクーバー時間: 8月22日 午前4時51分




こんなの ブログに引用しなくて いいですよ。
知ってる人は大勢で、
私なんて 知ってる場面 まだまだ・・・・

同年代で軽井沢の本を出してる人います。
びくつきながら 読みました。
自分は軽井沢に居ていいのかな~? と…。


人それぞれですからねぇ~。
他の人と比べる必要はないですよう。

でも、小百合さんを一人の女として見て、
これまでの小百合さんの歩いて来た世界を見れば、
決して他の女性と比べても見劣りがしないのですよう!





『エマニエル夫人』を観てタイのバンコクにも出かけたし、
アメリカにも、そしてカナダにもやって来た。





そして、バーナビーの山の家で僕との出会いがあった!
うしししし。。。


お互いに世界が広がったという意味で素晴しい事ですよう。
小百合さんも、そう思いませんか?

だから、その感激をネットでこうして永遠のものにするのですゥ!
うしししし。。。

誰がなんと言おうが、バカだチョンだ!いいきなものだ!と言われようが
踊った方が楽しいのですよう!



えらいやっちゃ♪、えらいこっちゃ♪、

よいよいよいよいィ~♪~ 

踊るアホ~にィ♪、見るアホ~♪

同じアホなら踊りゃにゃソン損~♪~

えらいやっちゃ♪、えらいこっちゃ♪、

よいよいよいよいィ~♪~ 




そういうわけですから、小百合さんの感想文も引用させてくださいね。



では、今日も一日
暑さにめげずに
元気よくネットサーフィンしてね!








投稿日時: 2008/08/22 23:15 (ロンドン時間)
日本時間: 8月23日 午前7時15分
バンクーバー時間: 8月22日 午後3時15分

『軽井沢物語』より
(2008年8月26日)



 (すぐ下のページへ続く)
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夢とロマンの横浜散歩(PART 4 OF 4)

2011-02-11 16:09:25 | 日本人・日本文化・文学論・日本語

 
夢とロマンの横浜散歩(PART 4 OF 4)



小百合さんも日常茶飯事の生活から離れて時には『私の軽井沢物語』を手にしたこともあったのですよう。



そうですわね。。。考えてみたら、最近、いろいろと忙しくって本を読むどころではありませんでしたわ。

そうでしょう?。。。だから、たまには数年前のメールを取り出してきて読むのも無駄ではないですよ。

つまり、この事をデンマンさんは言いたかったのですか?

いや、違うのですよ。 僕はラフカディオ・ハーンのことで小百合さんと話したことを思い出したのですよ。



 
デンマンさんは小泉八雲にハマッてしまったのですか?



最近読んだ本の中では、最も興味深い人物なのですよう。

どういうところが。。。?

日本人の女性と結婚して、しかも日本に帰化した。それも明治29(1896)年1月に帰化したのですよう。。。日清戦争が終わった翌年のことですよ。 外国人が日本に帰化して、現在、日本人の間で知られている人物は、おそらく小泉八雲以外に居ないのではないか? 小百合さんは小泉八雲以外の人物を知っていますか?

いいえ。。。知りませんわ。

当時は人種差別が当たり前のような時代だったから、日本人の女性と正式に結婚するだけでも変わり者と思われていたのに、白人とは文化的にも人種的にも一段も二段も低いと見なされていた日本人が住む日本に帰化するなんて例外中の例外だと思いますよ。

つまり、小泉八雲は仲間から村八分にされてしまったのですか?

実際に仲間から排斥されたわけではないけれど、それ以来、八雲の外国人仲間との交際範囲が急に狭くなったそうですよ。

八雲が、そういう“変人”だから、デンマンさんは逆に興味を持つのですか?

そうですよ。。。僕は人生の半分以上を海外で暮らしてきましたからね。 だから、小泉八雲の気持ちや考え方に共感する部分がかなりありますよう。

たとえば、どんなところですか?

共感するというより、まず感心するのは、当時、日本は西洋文化の全盛時代だったのに小泉八雲は人種差別を越えて、数段低いと見なされていた日本文化を見下すこともなく、日本人以上に日本人になってしまったところがあった。

たとえば。。。?

明治25(1892)年2月12日、八雲はチェンバレン氏に次のような手紙を書いているのですよ。




セツ夫人と

私が次のように申しあげるのをお聞きになったら、貴男はさぞ、ぞっとなさるでしょう。 つまり私には洗練された音楽的感覚というものが全然ないので、ワーグナーや知的な音楽を楽しみことが出来ないということです。 音楽的感覚というものは、勉強と機会によって徐々に習得されねばならないと聞いております。 これだけ申しあげてしまったのですから、もう少し申しあげましょう。

私は、日本人のプロの音楽、即ち、声楽を好きになれないのです。 私は、農民の震える声が、時々奇妙に絶叫するかのように破裂し、各所で途切れてメロディが小間切れになる、あの長く尾を引く哀調が好きなんです。 私は、これら歌の中には、非常に美しい、蝉や野鳥の歌さながらに、自然に思われる強烈なものを感じます。

(中略)

農民の歌には、庶民の心が感じられますが軍歌にはそれがありません。




232 - 233ページ 『小泉八雲と日本』
編著者:西野影四郎
2009年2月15日発行
発行所:株式会社 伊勢新聞社




この手紙に、八雲が日本人以上に日本人になってしまったところがあるのですか?



だってぇ、そうでしょう。。。とにかく明治時代になると文明開化で、日本的なものが見捨てられて、何でもかんでも西洋的なものを貴重なものとして受け入れていたのですよう。 チョンマゲは切るし、刀は駄目だということになり、猫もミーちゃんハーちゃんも西洋的なものを真似して着るようになった。 鹿鳴館などは、その最たるものですよう。 いわゆる日本の上流社会の人たちがドレスや燕尾服を着て社交ダンスを踊ったりした。 イギリスの大衆新聞などでは、日本人が猿真似していると馬鹿にしていた。

つまり、そのような西洋志向な風潮の中で八雲が農民の間で歌われている民謡に、素晴らしいものを感じていることに、デンマンさんは感動したのですか?

そうですよう。 日本人が日本の伝統的なものを捨てて、何でもかんでも西洋的なものを真似しようとしているときに、八雲は日本の素晴らしいものを見い出していた。

それは、外国人にとって日本の風物や伝統的なものが珍しいと思える程度のことではないのですか?

あのねぇ~、確かに外国人にとって日本の浮世絵とか民謡などは珍しいでしょう。 でもねぇ、同じ外人でも、たいていの人はチェンバレン氏のように考えていたようです。 彼は次のように書いてるのですよう。


もしミューズィックという美しい言葉を、東洋人が楽器をギーギー鳴らしたり、声をキーキー張り上げることまで意味するほど低下させて用いなければならぬとするならば、日本には神話時代から音楽が存在したと考えてもよい。

 (中略)

日本はいつの日にか、新しい第九交響曲を持って世界の人たちを魅了することがあるであろうか。 それとも、ただ俗悪な歌曲に沈溺して終わるであろうか。 著者はここに大胆な予想をするつもりはないが、期待されるところはきわめて少ないといわざるをえない。 イタリアの洗練された享楽主義も、ドイツ人の心からの誠実さも、スラヴ人の元気にあふれた感激性も、この国の人々の魂には根をおろそうとは思われないのである。




233ページ 『小泉八雲と日本』
編著者:西野影四郎
2009年2月15日発行
発行所:株式会社 伊勢新聞社




要するに、東洋音楽は、雑音以外の何ものでもない。 日本人には高尚な音楽は無縁だと言っているのです。



つまり、日本の音楽を理解する点でも八雲は例外中の例外だったとデンマンさんは信じているのですか?

そうですよう。 とにかく、たいていの外人が、日本の文化や日本人の知的レベルが西洋人、西洋文化と比べると数段低いと見下していたのですよう。

でも、文明開化で、西洋文化を吸収し、西洋に追いついて追い越せという日本人の熱意があったから、日本は昭和時代になって西洋社会と肩を並べて、やがて経済大国にもなったのでしょう?

そうです。。。僕が言いたいことは、日本には伝統的なものでも素晴らしいものがあった。 それにもかかわらず、西洋文化なら、何でも素晴らしいと思い込んで、日本的なものを何でも捨てて、西洋的なものを貪欲に吸収した。

でも、浮世絵などは、フランス人の画家などによって見出されたでしょう?

確かに、そうです。 でもねぇ、それは例外ですよう。 日本の音楽などは、チェンバレン氏が書いているように、楽器をギーギー鳴らしたり、声をキーキー張り上げたりする俗悪なものと考えられて、まったく無視されたようなものですよう。

だけど、民族的な音楽は特に理解するのが難しいのではありませんか?




『ミューズィック』より
(2011年1月8日)




どうしてまた、小泉八雲のことなどを思い出したのですか?



あのねぇ~、小泉八雲以外の帰化人で日本語の名前を持っている人が僕の記憶から脱落していたのですよう。 そう言う時にヴォーリズさんに出くわした。

日本国籍を取得して、ヴォーリズさんは一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と改名したのですわね。

そうなのですよ。 僕はまったく知りませんでした。

私もヴォーリズさんに一柳米来留という日本名があるということを知りませんでしたわ。

米来留(めれる)という名前は「米国より来(きた)りて留(とど)まる」という洒落だというのですから、ヴォーリズさんはユーモアのある楽しい人だったのでしょうね。

つまり、その事が言いたかったのですか?

違いますよう。

いったい何が言いたいのですか?

あのねぇ~、僕と小百合さんはヴォーリズさんが設計した「睡鳩荘」へ足を運んだのですよう。 しかも、その「睡鳩荘」は軽井沢タリアセンに移築された後だった。

だから。。。?

小百合さんが「軽井沢タリアセン夫人」としてブログにデヴューした記念すべきイヴェントだったのですよう。 つまり、横浜の山手にも、軽井沢にもヴォーリズさんの作品が残っていることは単なる偶然ではないのですよう。 実は、小百合さんと僕をそのような形で引き合わせてくれたのですよう。

それはコジツケですわ。

いや。。。違います。。。ロマンですよう。 うししししし。。。


【卑弥子の独り言】



ですってぇ~。。。
こじつけですわよう!
あなただって、そう思うでしょう?

ところで、「睡鳩荘」が気に入っていたという朝吹登水子さんは、女子学習院を中退ののち、1936年にフランスに渡り、ブッフェモン女学校、パリ大学ソルボンヌに学んでいます。
それに、2度目のご主人はフランス人です。

朝吹さんは外国の大使や公使の方々とも、対等にお付き合いができるように頑張ったようでござ~♪~ますわ。
おそらく、他の華族のお嬢様方たちには真似のできなかった事だったのかもしれません。
そう言う点で朝吹さんが劣等感を克服したとも考えられます。

その総決算として晩年に、自伝三部作を書き上げたのかもしれませんわ。
でも、上流階級に育った、その生い立ちに憧れを抱く者もあったけれど反感も抱かれた、と書かれています。
なぜなのでしょうか?

とにかく、面白いお話が続きそうですわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあねぇ。



 
メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

どこの国にも“上流社会”と言うものが存在するようです。

昔は貴族とか華族と言われた人たちが居ましたが、

最近ではほとんどの社会で、

そのような制度はなくなりました。

それに変わって登場したのが

“セレブ”だとか“ハイソサイエティー”でしょうか?

つまり、有名人だとかお金持ちの集まりです。

でも、果たして、それが上流社会と言えるのでしょうか?

あなたは、どう思いますか?


 
ところで、卑弥子さんが面白い記事をまとめました。

暑さを笑って吹き飛ばしたかったら

ぜひ読んでみてくださいね。

■ 『笑って幸せな気分になれるサイト』



では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。





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現金で払う

2011-02-11 16:05:12 | 英語・英会話
 
ん?現金で払う?



英語で次のように言う場合にどちらが自然でしょうか?


金額がわずかなものは、カードでなく現金で払いたいのですが。

1) I would like to pay by cash

   for the small items rather

   than by credit card.

2) I would like to pay in cash

   for the small items rather

   than by credit card.


実はこのような質問を見たのですよ。

答えは2番と言うことでした。

つまり、[解答] は。。。

2) I would like to pay in cash for the small items rather

  than by credit card.

次のような説明がありました。


「現金で払う」は pay by cash ではなく pay (in) cash が決まり文句。

なお、「現金」の場合と同様、「通貨の種類」について言う場合も、

in U.S. Dollars(米ドルで)や in Euro(ユーロで)のように in を使う。

【例文】

The licensee is required to pay royalties in Japanese yen every quarter.

ライセンシーは四半期毎に、ロイヤルティーを日本円で支払う必要があります。


この説明は、実際に英語圏で暮らした事がない英語の先生が書いたものです。

どうして分かるの?

なぜなら、僕はもう英語圏で暮らして20年以上たちます。

今まで pay in cash を使ったことが無いのですよ。
僕の場合、常に pay by cash を使ってきました。

聞き返されたこともないし、嫌な顔をされた事も無く、
これで通用してきたのです。
また、他の人が pay by cash と言うのも聞いている。
僕は他の人が pay in cash と言っているのを聞いたことも無いのです。

だから、次の文を読んだ時に狐に鼻をつままれたような気がしました。不思議でした。


「現金で払う」は pay by cash ではなく pay (in) cash が決まり文句。


まるで 1+1= 3 と言われているように思ったものです。

僕はさっそくGOOGLEで調べてみました。

結果は次のようになりました。

まず “pay by cash” を入れて検索してみました。



思った通り結構たくさん使われているのですよ。
181,000件見つかりました。

次に “pay in cash” を入れて検索してみました。



確かに、この方が多いのです。347,000件見つかりました。

でも、 “pay by cash” の2倍以上使われている訳では無いのです。

どういうことが言えるのか?

“pay by cash” も決まり文句のようになりつつあるということです。

検索結果を見ていたら次のような文に出くわしました。


I feel that it's yet tolerable to say 'pay by cash'

but not to say 'pay in check'.

“pay by cash” と言うのは許されると思うけれど、“pay in check” はまずいよね。


確かにその通りですよね。

僕も “pay in check” は使ったことがないし、聞いたこともありません。
常に “pay by check” です。

それで、僕は “pay by cash” と使うようになったようです。

とにかく、言葉は生き物です。時代と共に変わってゆくのですよね。

だから、英語の先生と言えども日本ばかりに暮らしていると時代についてゆけづに
間違った事を教えてしまう。

やはり、“井の中の蛙” ではいけないのですよね。



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おほほほほ。。。

卑弥子でご

ざ~♪~ますわよ。

くどいようですけれど、

また現れましたわ。

やっぱり、

デンマンさんぱっかりに

任せていると

退屈するのよねぇ~。

それで、つい、つい、

出て来て

しまうので

ござ~♪~ますわよ。

ええっ?

何で英語の記事に

顔を出すのかって?

あたくしも、英語を勉強して

ついにバンクーバーに行って来たので

ござ~♪~ますわよ。

本当は、もっと長く居たかったのですけれど、

デンマンさんに言われて

予定通りに戻ってきました。

それで、また、この十二単を

着ているのでござ~♪~ますわ。

うしししし。。。



クリスマスには、あたくしが腕によりをかけて

ターキーディナーを作ってしまったのですわよ。

とっても美味しかったのよウ。

それが証拠にデンマンさんが

こうしてあたくしに

ベタベタしてしまったのでござ~♪~ますわよ。



ええっ?もう、このお話は聞き飽きたのォ~?

ちょっと、しつこかったかしら?おほほほほ。。。

じゃあねぇ、違うお話をしますわぁ~。

あのねぇ、あたくしは次のサイトで

マスコットギャルをやっているのよ。

あなたもお暇でしょう?

だって、ここまで読んできたということは、

あなたは暇をもてあましているのよね?

うふふふふ。。。

だから、あたくしが顔を出す次のサイトもよろしくね。

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ナウい古代史を読むことができるのよ。

だから、あなたもぜひ覗いてみてね。

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね、バ~♪~イ。






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我輩はノミである(PART 1)

2011-02-08 12:50:43 | 日本人・日本文化・文学論・日本語
 
我輩はノミである(PART 1)
 





『蚤の自叙伝』なる翻訳書が、やはり筆禍に遭った。 こちらは西洋の有名な春本で、文芸資料研究会が四百部限定で製作し、会員に頒布した。 価格は5円26銭である。 この年の歌舞伎座の正月興行の桟敷席一人当たり料金が、5円30銭。 現在同座の桟敷席は普通興行で1万6千円である。 正月興行は特別の顔見世だから、もう少し高くなる。 春本としては、良い値段であったと見るべきだろう。 臙脂(えんじ)色のラシャ紙表紙、本文351ページ、奥付はないが、訳者は佐藤紅霞(こうか)とわかっている。

 (中略)

では今では読むことができない、当時の西洋翻訳本の代表として、『蚤の自叙伝』をご紹介しよう。

書き出しは、こうである。 「私は此世に生を受けたものである、然しどうして、いつ、どこで生まれたのか申し上げることが出来ない。 何(いず)れそのことはひとりでに知れることだろうと、皆さんのご推量にまかせることにする」

ここで「私」とは、「蚤」のことである。 蚤が語り手である。 そう、皆さんがすぐさま思い浮かべるように、文豪、夏目漱石の『吾輩は猫である』だ。 あちらは猫、こちらは蚤。 実は漱石先生はこの有名な春本をヒントにして、『吾輩は猫である』を書いたのではないか、と某氏が推測していたが、もう一人の文豪の鴎外先生さえ、古今東西の春本を読了している、あながち妄説とはいえぬ。 大体、昔は(鴎外先生は、けしからぬとか馬鹿げているなどとののしるが)、春本は教養の一つで、学を好む者はひと通り目を通していた。 それが証拠に江戸期のものは、写本でたくさん残されている。 皆、啄木のように書き写して所持したのである。 断定するが、明治以降の文学者で、春本春画を愛好せぬものは一人もいない。 かの真面目な宮沢賢治でさえ、春画の収集家だった。

それはさておき、『蚤の自叙伝』は、一匹の蚤がベラーなるいささか好き者の女性に食いつく。 その蚤が眺めた世界を描いてある、といえば、それ以上の説明は不要だろう。 蚤が助兵衛なることは、皆さん経験で承知のはず。 舞台は教会で、たくさんの「僧侶」が、入れかわり立ちかわり、ベラーを相手に「秘儀」を披露する。 最も聖なるものを穢(けが)すのが、春本の基本理念である。 同時にこの本が書かれた時代は、教会が堕落しており、それを諷したとも言えよう。 




20-21ページ
『春本を愉しむ』
著者: 出久根達郎
2009年9月20日 第1刷発行
発行所:株式会社 新潮社




デンマンさん。。。あんさんは春本を持ち出してきて漱石先生が『蚤の自叙伝』を読んでいたと言いたいん?



そうや。。。

そやけど、『蚤の自叙伝』を読まへんでも『吾輩は猫である』というタイトルを思いつくことぐらい有り得ますやん。

もちろん、そういう事だってあるやろなァ~。

だったら春本を持ち出してきて『蚤の自叙伝』と『吾輩は猫である』を結びつける必要ないやんか!

あのなァ~、わては漱石先生が間違いなく『蚤の自叙伝』を読んでいたと思うのや。

その証拠でもあるの?

芥川龍之介がエロ本を探して欲しいという依頼の手紙を書いてるねん。 ちょっと次の部分を読んで欲しいねん。


大正10年3月、芥川はある人にこんな手紙を書いている。

「拝啓 支那の本中楊貴妃の生殖器なぞの事を書いた本と云(い)ふのは何と云う本ですか御教示下されば幸甚です
なほそんな本で面白いのがあつたら御教へくださいませんか
僕の知つてゐる誨淫(かいいん)の書は金瓶梅。
肉蒲団。 杏花天。 牡丹奇縁。 痴婆子。 貪官報。 歓喜奇観。 殺子報。 野嫂曝言(やそうばくげん)。



如意君伝(にょいくんでん)。 春風得意奇縁(しゅんぷうとくいきえん)。 隔簾花影(かくれんかえい) 等です
以上」




172ページ 『春本を愉しむ』
著者: 出久根達郎 2009年9月20日発行
発行所: 株式会社 新潮社




わたしは芥川龍之介がエロ本を読んでいたということを問題にしているのではないねん。 漱石先生のことを訊(き)いてるねん。



分かってるがなァ。

だったら、漱石先生の手紙でも出したらどうなん?

あのなァ~、芥川龍之介が師と仰いだのが漱石先生なのやァ。

つまり、弟子が中国の有名な春本をすべて読んでいるので師である漱石先生が『蚤の自叙伝』を読んでないわけがないと、あんさんは言わはるの?

そうや。。。しかも、『春本を愉しむ』の著者は次のように書いてるねん。

断定するが、明治以降の文学者で、

春本春画を愛好せぬものは一人もいない。

かの真面目な宮沢賢治でさえ、

春画の収集家だった。


鴎外先生は「けしからぬとか馬鹿げているなどとののしるが」それでも古今東西の春本を読んでいた。 しかも『ヰタ・セクスアリス(性的生活)』という作品まで書いていた。


僕は女の体のある部分を目撃したことがない。 五月雨の晴れたころであった。 僕が裏庭の蔵の前で遊んでいると、ときどき家に来る勝(かつ)という娘がやってきて遊ぼうという。 僕はたちまち「あの縁から飛んで遊ぼう」と一計を案じた。

「こうして飛ばんと、着物が邪魔になっていけん」

僕は尻をまくって活発に飛び降りた。 勝はしばらく困った顔をしていたが、無邪気で素直な子であったので、とうとう尻をまくって飛んだ。 僕は目を丸くして覗いたが、白い脚が二本、白い腹に続いていて、なんにもなかった。 僕はおおいに失望した。

 (中略)

僕は東先生の家にいるあいだ、性欲上の刺激を受けたことは少しもない。 強いていえば、書生と手伝いの女とが話をしていたのを聞いた。 女の器械はいつでも用に立つ。 心持に関係せずに用に立つ。 男の器械は用に立つときと用立たないときとがある。 女は耳を真っ赤にして聞いていた。 僕は不愉快を感じて、自分の部屋に帰った。

 (中略)

金井君はある夜ここまで書いた。 金井君は腕組みをして考え込んでいる。 金井君は一度も自分から攻勢を取らねばならないほど強く性欲に動かされたことはない。



いったん筆を置いて考えてみると、このような不必要の衝突が偶然に繰り返されるのを書くのが、無意義ではあるまいかと疑うようになった。 金井君は断然筆を絶つことにした。 そしてつくづく考えた。 世間の人は性欲の虎を放し飼いにして、どうかすると、その背に騎(の)って、滅亡の谷に墜(お)ちる。 自分は性欲の虎を馴らして抑えている




19 - 22ページ 「ヰタ・セクスアリス」
『あらすじで読む日本の名著 No.3』
編者: 小川義男
2003年12月28日 第1刷発行
発行所: 株式会社 樂書館




『春本を愉しむ』の著者は鴎外先生が「けしからぬとか馬鹿げているとののしるが」と書いているけれど、上の文章を読むと春本や性欲がけしからぬとか馬鹿げているとののしったわけではないねん。



鴎外先生は何をけしからぬ、アホらしいと思うていたん?

鴎外先生は次のように書いてるねん。

世間の人は性欲の虎を放し飼いにして、

どうかすると、その背に騎(の)って、

滅亡の谷に墜(お)ちる。

自分は性欲の虎を馴らして抑えている


つまり、性欲に振り回されているような人間になるのはけしからん、アホらしいと言うてはるのやね?

そうなのや。。。実は、『ヰタ・セクスアリス』は1909(明治42)年に発表されたのや。 でも、この作品を掲載した『スバル』7号は発売禁止処分を受けてしもうたのや。

どうして。。。?

性的表現が多すぎて社会に悪影響を及ばすと関係当局が考えたのやがな。 当時、鴎外先生は47歳やった。 陸軍軍医総監・医務局長の要職についていたのや。

仕事を辞めさせられてしもうたの?

辞めさせられへんかったけれど、上司から叱られたそうや。

鴎外先生は、内心ではそのような堅物(かたぶつ)の上司もけしからん、アホらしいと思うていたん?

そうや。。。鴎外先生は両極端を嫌っていたようや。 春本や性欲を何が何でも害悪視する堅物(かたぶつ)を嫌悪しておったようや。

春本や性欲に振り回されるって具体的にどういうことやねん?

あのなァ~。。。興味深い具体例があるねん。

そんなら、もったいぶらんで話したらええやん。

石川啄木の面白いエピソードや。 ここに書き出すから、めれちゃんも読んでみたらええやん。


「創作の興と性欲とは よほど近いように思われる。 貸本屋がきて 妙な本を見せられると、なんだか読んでみたくなった。 そして 借りてしまった。 ひとつは“花のおぼろ夜”、ひとつは“なさけのトラの巻”。 “おぼろ夜”の方をローマ字で 帳面にうつして、三時間ばかり ついやした」



石川啄木がローマ字で日記にこう記したのは、明治42年4月14日の項である。 妙な本とは春本のことだが、啄木は大いに気に入ってしまい、翌日も書き写して、寝たのは午前三時であった。 目がさめたのは十時半頃で、とうとう勤めを休んでしまった。 啄木はこの頃、東京朝日新聞社の校正部で働いていたのである。 休んで何をしたかというと、春本を書き写していた。 夜っぴて、せっせと写していた。 午前二時頃、火事があった。




101ページ 『春本を愉しむ』
著者: 出久根達郎 2009年9月20日発行
発行所: 株式会社 新潮社




あらっ。。。エロ本を午前3時までかけて写して会社を休んでしまいはったのやね。 うふふふふふ。。。



石川啄木は何かにつけて熱中してしまうタイプやったのやでぇ。。。それで無理をして若くして病魔に冒されて早死にしてしもうたのやがな。

鴎外先生はお医者さんやったので啄木先生と比べると、さすがに長生きしてはるわ。

そうや。。。鴎外先生は確かに「性欲の虎を馴らして抑えてい」たので勤務に差し障りが無いように無難に過ごす事ができたのや。

そやけど、『ヰタ・セクスアリス』を発表して上司に叱られてしもうたやないの。

まさか、上司が『ヰタ・セクスアリス』を読むとは思わんかったのやろなァ。。。

それにしても、鴎外先生はどうして『ヰタ・セクスアリス』を発表しやはったん?

『ヰタ・セクスアリス』が発表されたのは1909年やけれど、その2年前、つまり、1907(明治40)年に田山花袋が『蒲団』を発表したのや。

つまり、『蒲団』に対抗するつもりで鴎外先生は『ヰタ・セクスアリス』を書きはったん?

対抗するつもりと言うよりも批判するつもりやったと思うでぇ~。。。

いったい『蒲団』のどの部分に鴎外先生はアホらしさを感じはったん?

次の部分やと思うでぇ~。。。

 (すぐ下のページへ続く)

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