平和を愛し仲良く暮らしていた
古代日本人。
万物に神が宿ると信じ、
平和に感謝して生きる民族。
それが古代日本人で
ござ~♪~ますのよ!
そして現在、
北海道の片隅で
生活しているアイヌ人です。
この人たちこそ、
直系の古代日本人の
子孫ですわぁ。
おほほほほ。。。。
デンマンさんが
出ろっつうんでぇ~
また、出てまいりましたのよ!
戦争を無くす事は
できますよね?!
ん?
あなたは、そう思えないのねぇ~?
思いなさいよォ~!
信じる者は救われると
言うざ~♪~ますでしょう?
おほほほほ。。。。
卑弥子さんも、そのように言っているので、この際、信じることにしましょうね。
ところで、僕が6月21日にフルーツ・ブログで書いた記事(『万物に神が宿ると信じ、平和に感謝して生きる民族』)にメンバーのじゅぁきさんから次のようなコメントをもらいました。
いつものことですが、ありがとね。
またコメントしに来ました^^;;。
なんか自分だけコメントしてるの申し訳ないのですが・・・。
今回の記事で、歴史的な問題が
非常にわかりやすく書かれていて大変興味深く読ませていただきました。
多少、何かの雑学本で読んだ内容だったので、なるほどと思いました。
前にアイヌの信仰を知ってると書きましたが、
何で知ってるのか全然記憶がなかったのですが、
急に思い出しました^^;;。
小学校の頃によくいっていたラーメン屋がどさん子といい、
そこの暖簾にアイヌの言葉が書いてあったんですね。
もう忘れてしまっていますが^^;;。
で、アイヌに興味持って、図書館で調べたと思います。
その時にアイヌの信仰を知ったと思います。
それがいつの間にか、自分の信仰になっているのかもしれません。
小学校3,4年の頃なので影響があったんでしょう(笑)。
また、機会があればよろしくお願いします。
by じゅぁき ◆ starclew 2006/06/23 17:00
僕はさっそく次のような返信を書きました。
> またコメントしに来ました^^;;。
いつでもどうぞ。
大歓迎ですよ。
じゅぁきさんのコメントから何度かインスピレーションをもらって、
結構記事が書けましたからね。
感謝感激で~♪~す!
(*^_^*)キャハハハ。。。
ありがとね。
(^_^)キャハハハ。。。
> なんか自分だけコメントしてるの申し訳ないのですが・・・。
いやいや。。。
遠慮しないでくださいね。
申し訳ないことなんてないですよ。
もう、どんどんコメント付けちゃって下さいね!
(^Д^)ギャハハハハ。。。。
待ってますよ!
(⌒∀⌒)ノキャハハハ。。。
> 今回の記事で、歴史的な問題が非常にわかりやすく書かれていて
> 大変興味深く読ませていただきました。
> 多少、何かの雑学本で読んだ内容だったので、
> なるほどと思いました。
そうですかああああ~
そう言ってもらえるとうれしいですよ。
(^v^)
これからも分かりやすく面白い記事を書くつもりですよ。
じゅぁき さんも時たまコメントを書いて、
僕にインスピレーションを与えてくださいね。
そうすれが、ルンルンル~♪~ン♪┌(・。・)┘♪
気分で楽しく書けますからね。
うへへへへ。。。。。
> 前にアイヌの信仰を知ってると書きましたが、
> 何で知ってるのか全然記憶がなかったのですが、
> 急に思い出しました^^;;。
> 小学校の頃によくいっていたラーメン屋がどさん子といい、
> そこの暖簾にアイヌの言葉が書いてあったんですね。
ほ~~~。。。
ラーメン屋でねええええ~~
なかなか面白いお話ですね。
> もう忘れてしまっていますが^^;;。
> で、アイヌに興味持って、図書館で調べたと思います。
> その時にアイヌの信仰を知ったと思います。
> それがいつの間にか、自分の信仰になっているのかもしれません。
> 小学校3,4年の頃なので影響があったんでしょう(笑)。
万物に神が宿るという信仰は、考えてみれば戦争反対信仰でしょうね。
つまり、万物に神が宿るから、戦争を起こす事ができないわけですよね。戦争というのはもともと破壊が目的ですからね。
精神的にも肉体的にも物質的にも相手を破壊する。
近頃はテポドンで日本は騒いでいるようですが、
テポドンなど万物破壊兵器の見本みたいなものですよね。
まさに、アイヌ人の信仰には受け入れがたいものでしょうね。
> また、機会があればよろしくお願いします。
こちらこそ。
また気が向いたらコメントを書いてくださいね。
じゃあね。
by デンマン 2006/06/16 18:27
『万物に神が宿ると信じ、平和に感謝して生きる民族。(2006/06/21 Wed)』のコメント欄より
じゅぁきさんのコメントがいつものように僕にインスピレーションを与えてくれました。
ラーメンで思い出しましたが。。。
僕はラーメンが好きなんですよ。
僕の好物は仙台の五右衛門ラーメンです。
これは食べ残しの写真ですけれどね。。。うへへへ。。。
手打ちの太い麺を使ったもので、
味噌味、塩味、しょうゆ味の3種類がありました。
僕の好物は味噌味のモノです。
仙台は僕の第2のふるさとなんですよ。
僕はこの新しい駅ができる前の古い駅を知っています。
高校生の頃、仙台に立ち寄ったのですが、旅費を稼ぐためにこの旧駅舎で一晩夜を明かした事があります。
僕の他にも10数人一晩夜を明かした人たちがいましたよ。
ほとんどの人が“田舎の人たち”という印象を与える表情をしていました。
つまり、苦労が顔のシワに現れているような純朴そうな人の顔ですよ。
ああいう素朴で苦労人の表情が最近の日本人の顔からなくなっていますよね。
もちろん、僕自身も苦労を知らない顔をしていますよ。うへへへへ。。。。
でも、僕は違う苦労をしています。
それは、冒険による苦労です。
贅沢な苦労ですよね。うひひひひ。。。。
でも、死ぬ思いを10本の指では数え切れないほどしています。
今、生きているのが不思議なほどですよ!
高校生の頃の自分には想像もつかないような人生を歩んできてしまいました。
とにかく30カ国近い国を放浪したのですから。。。
この町の仙台商業高校で後年、教育実習をやることになり、数学を教えるとは夢にも思っていませんでした。
。。。仙台駅の事ですが。。。
寒くてベンチでは眠れなかったですよ。
それでも、駅舎を閉めずに待合室に居させてくれただけ良かったです。
北海道の小樽駅で、僕が一晩駅舎で明かそうとしたら、
当時の(あのレンガ造りの)小樽駅ではドアを閉めて、待合室では夜を明かすことができませんでした。
つまり、11時頃の最終列車が出ると追い出されてしまったわけです。
現在の小樽駅の建物は3代目で昭和9年に建てられた。
道内では木造駅舎の札幌、函館に先んじた鉄筋コンクリート造りの近代的駅舎。
東京の上野駅に似ており、同時期に建てられた小樽市庁舎ともそっくり。
僕の記憶の中ではレンガ造りなんですよね。
これとは形も違っている。
僕は他の建物と勘違いしていたのだろうか????
仙台駅では、駅員がお客を追い出すような事はしませんでした。
でも、とにかく寒くてベンチにゴロッと横になっても眠れませんでしたね。
スチームのパイプにわずかなぬくもりが残っていて、
僕は母親の肌のぬくもりを求める幼児のように
身を摺り寄せながら、スチームのパイプに体をこすり付けるようにして震えていたものです。
今から思えば懐かしいですよ。
寒くて空腹な僕が、まず朝一番に食べたのがラーメンだったのですよ。
うまかったですねええええええ~~~。
でも、味なんかどうでも良かったんですよ。
とにかく、腹に入って体がぬくもるもの。。。
それだけ。。。
ぬくもりを求めてラーメンを食べました。
その時食べたのは五右衛門ラーメンではありませんでした。
ごく、当たり前のラーメンでした。
杜の都仙台。
その名の通り緑の多い街が仙台です。
この文字通り“青葉通り”を歩いて1番町まで行きます。
そこで小さな路地裏の店に入ると五右衛門ラ-メンが食べられました。
今でもあるのかどうか?
もしあなたが仙台の人なら、教えてくださいね。
ぜひコメントに書いてください。
当時、250円か350円ほどだったと思います。
30円か50円出すと大盛りにしてくれましたよ。
しかし、このラーメンの話は余談なんですよ。
じゅぁきさんのコメントからもらったインスピレーションはラーメンではないのです。
“アイヌの言葉”です。
じゅぁきさんはラーメン屋の暖簾にアイヌの言葉を見たと書いていました。
僕の知る限りアイヌ人には書き言葉がないんですよ。
つまり、アイヌ字がないはずです。
たぶん、日本語のひらがなか、カタカナを使って書かれていたんでしょうね。
たいてい、次の引用で示すようにカタカナを使って書いているようですよね。
アイヌ語を奪われたアイヌ人
イランカラプテ。
この言葉を教わったのは、農家に嫁ぎ、二風谷のアイヌ語教室に通っている女性からだった。
「あなたの心にそっと触れさせて下さい」
そんな慎ましやかな意味をもつ言葉をアイヌは挨拶のときにかわす。
和語の「はじめまして」と同じように、である。
私には「イランカラプテ」がアイヌ語との最初の出会いだったけれども、
アイヌの、心の奥行きを見たようだった。
私は数ヶ月ぶりにアイヌ語教室を訪ねた。
開講して11年目を迎えたアイヌ語教室・子供の部に、
今年はちょっとした出来事があったと聞いた。
久しぶりの教室には、自分たちの想い出がつまったビデオを見る子供たちの騒がしい声に包まれていた。
「ああ、あの人だ!」と誰かが画面を指さして、皆の歓声が「爆発」する。
ビデオには、五月の連休にカナダの先住民を訪ねたとき、そこで出会った人たちが映っている。
先住民として、誇り高く生きる人々。
子供たちは、その生きざまと暮らしに触れて帰ってきた。
ここに来ているアイヌの生徒たちは、アイヌ語を母語として受け継ぐことはなかった。
母語とは、母が子に乳を与えるように、周囲に囁きかけられながら、知らず知らずのうち身につけていく言葉だとすれば、高齢者でも、母語・アイヌ語を獲得した人は、少ない。
「滅びゆく言語」と、実際を無視していわれた時期があった。
言葉をここまで追いつめた歴史を辿ると、アイヌ自身が自ら言葉を放棄せざるをえないほど、有形無形の社会的な圧力が存在していたことがわかる。
明治政府はアイヌから一方的に生きる基盤を奪い、彼らが貧窮してもそのまま「放置」していた。
だが、天皇制国家である以上、その子弟は「教育」し、皇民化しなければならない体面もあった。
「教育」とは民族の否定、同化を指向した。
アイヌ集落に建てられた「旧土人学校」は、アイヌに多大な影響を及ぼした。
「アイヌの言葉を喋ると、先生にひどく叱られた。
殴る先生がとても恐かった」と、ある老人は当時を語る。
また、アイヌ系児童の成績が良いと、「アイヌのくせに、そんなにできるはずはない」と叱り、シャモの子には、「アイヌでさえできるのにお前達はなぜできない!」と教師が渇を入れたとも聞いた。
子供たちは出口のない袋小路にいた。ひたすら、民族の誇りを奪われ、劣等感を植えつけられていく。
「悲しむべし今のアイヌはアイヌをば
卑下しながらにシャモ化してゆく」
そう歌ったのは、昭和4年、27才で逝ったアイヌの歌人、違星北斗である。
容赦のない、同化への圧力が働いていた。
目には見えない、凍りつくような差別の空気。
真綿で首をしめていくような重たい圧迫感。
父や母、祖父母たちもアイヌのことを伝えられない。
口をつぐむぎ、わが「血をうすめる」ことが子供の幸せと考えるほかなかったからだ。
母語の灯は、自らの吐息で一つ一つ、ふき消されていった。
『イランカラプテ』より
当時の明治政府はアイヌ人同化政策のためにアイヌ人からアイヌ語を奪ってしまったんですよね。
同じような事を明治政府は台湾人、それに当時の朝鮮人に対してもしたんですよね。
明治政府が推し進めた“義務教育”は昭和になってから日本が“経済大国”になる原動力になったけれど、
その影で民族の言葉を奪われてしまったアイヌ人が居たわけです。
このようなことは2度としてはならない事ですよね。
では、以前に紹介したじゅぁきさんのコメントをもう一度。。。