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小泉純一郎君からのコメント

2006-01-02 09:07:53 | 健全な批判

 

小泉純一郎君からのコメント

 


(elvis02.jpg)



12月31日にGOOで書いた記事(『群衆の中の孤独!寂しくって死んでしまいたい (その1)』)に小泉純一郎君から次のようなコメントをもらいました。

ところで全文は次のリンクをクリックすると読むことができます。
『群衆の中の孤独!寂しくって死んでしまいたい (全文)』

 



大掃除中 (by 小泉純一郎)

2005-12-31 13:30:21

http://arena.nikkeibp.co.jp/col/20051101/114110/

このリンクを叩き付けたかったのだが、タイミングを逃した。今年の反省として、よく読むように。


あなたは、このコメントを書いた人物が日本国首相の小泉純ちゃんだと思いますか?ええっ?
まず、そうは思わないでしょうね。
もちろん、僕だってそう思いませんでしたよ。

じゃあ、本物から?
まさかああああ。。。。


(laugh16.gif)

とにかく僕が書いた返信を読んでみてください。

 



成りすまし犯罪者!!! (by デンマン)

2006-01-01 11:40:24

成りすまし犯罪者の小泉純一郎君、キミのURLを書くんだよ!愚か者!

“名前”の下に“タイトル”とあるけれど、その下の“URL”というのはキミのブログかホムペか掲示板のURLという事なんだよ!

そんなことはネットをやっていれば理解しているはずなんだよ!

小学校3年生でも分かっている事ですよ。(たぶん)
何度も言うけれど、小学校4年生がこれまで僕が投稿を交わした最年少者だけれど、ホムペのURLをちゃんと書いてコメントを付けてくれましたよ!

小泉純一郎君、キミは日本国首相の純ちゃんじゃないんだよ!
99.9999%の確率で僕は断定できます。

もし本当に純ちゃんならば、ちゃんとURLを書いてくれますよ。
もし、書けないのなら、日本の将来はないんだよ!
愚か者のキミにも、そのくらいのことは理解できるだろう?

小学校3年生以下のキミのオツムでは、分からないのかもしれないねぇ~~。
しょうがないねええええ。。。。
病める日本の病根は、君のオツムまで侵しているんだろうねぇ。

全く、日本の行く末が思いやられますよ!
反省したら、今度はちゃんとキミのURLを書いてコメントを書いてね。
お願いしますね。

キミは僕と意見の交換をしたいらしいけれど、“祭られる”事が恐ろしいので自分のURLが書けないようだね。

そのようなチキンな男が日本には多いから、いつまでたっても病める日本が良くならないんだよ。

だいたいだよ、事もあろうに日本国の首相の名前をかたってコメントを書く。。。
一体キミのオツムはどうなっているんだろうねえぇえぇ。。。。?

解剖して覗いて見たいくらいだよ。
キミの脳みそは、たぶんゴキブリにたくさん食べられてしまって空洞がぽっかりと空いているのじゃないかと僕は心配していますよ。

ゴキブリにだけは脳みそを食べられないようにしないと、君の新年は自滅の新年になってしまうよ。

悪い事は言わないから、真人間になってね。
二度と日本国の首相の名前をかたるような成りすまし犯罪者にならないでね。
お願いしますよね。

 

  
(2004ft.gif+bare04d.gif)

 

このコメントをシャロンさんやジューンさんに読まれたらどうするの?

日本人の頭の程度を疑われてしまうよ!
それでなくても、かつてマッカーサー元帥が、日本人の頭は小学校6年生程度だと言ったんだよ!

キミのお父さんやお母さんのことだったんだろうねぇ。
そういう親から生まれた君も頭の程度が小学校6年生でストップしてしまったんだよ。へへへ。。。。
かわいそうに。。。。

だめだよ。小泉純一郎君!
シャロンさんとジューンさんが読んだら、
本物の純ちゃんまでが小学校6年生程度のオツムしか持っていないのだろうか?と思うじゃないかああああ!

成りすまし犯罪者の小泉純一郎君、キミは日本人の恥ですよ!
恥ずかしいと思ったら、これからはしっかりと自分のURLを書いてね。分かった?
そう。。。
おりこうだね。

じゃあ、キミも、出来たら良い新年を迎えてね。
URLだけは、しっかりと書くんだよ。
それから、日本国の首相の名前を名乗ってはいけないよ!

寅さんだって、それは悪い事だと知っていたと思うよ。へへへ。。。
キミは寅さん好きだろう?
僕も好きですよ。

だからね、小泉純一郎なんて書いちゃあダメだよ!
分かった?
くどいようだけれど、僕は、心から日本が住み良い、すばらしい国になって欲しいんだよ。

君だってそう思うだろう?
ん?
どうでもいいの?

じゃあね、少なくとも、日本国の首相の名前だけは使っちゃダメだよ!

なぜ?

馬鹿だね、キミは。。。。
自分の名前を使うんだよ!
それがいやなら、自分のハンドル名を使うんだよ!
小学校3年生でも知っているよ!

馬鹿だねキミわああアアア。。。。
救いようがないねええぇ。
でも、僕だけは、キミのようなオツムの弱い“社会の落ちこぼれ”の相手になってあげるからね。

寂しくなったらまたおいで。。。
じゃあね。


実際、この純一郎君が“反省するために読め”と言ってコメントに書いてくれたURL先の記事は大変興味深いものでした。
だから僕は、この純一郎君のコメントをありがたく思っています。

しかし、この純一郎君が自分のブログのURL、あるいはホムペのURLが書けなかったという事が物語っているように、この純一郎君は僕に批判される事を“祭られる”と思い込んで極度に恐れているのが良く分かります。

つまり、オツムも萎縮しているのだけれど、それと同じように“肝っ玉”もすっかり萎縮しきっているんですよね。
要するに、2ちゃんねるのような匿名掲示板でない限り考えている事が、まともに言えないんです。書けない!

正々堂々と文章を書いて批判する事が出来ない人間です。
批判するという事は自分を語らなければならない!

どうして自分を語る必要があるの?

あなた僕にそう尋ねるかもしれません。
ちょっと長くなりますが、極めて重要な事なので、以前に書いたことですが、再度ここに書こうと思います。

ところで、あなたはどのようにピカソを批判しますか?

 


(picasso3.gif)

 

あなたはこれまでに絵を書いたことがあるでしょう?
小学生の時には「図画」とか「図工」と呼ばれた時間がありましたよね。
時には学校の近くの小川や野原に写生に出かけたことを僕は良く覚えていますよ。
僕は絵を書くことが好きでした。
あなたはどうでしたか?

絵を描いたことなら誰でもあると思いますから、分かりやすいので絵を取り上げて話します。
絵を描いてみると、なかなか思ったように描けないものですよね。
目の前の木や花や石や動物が自分で描きたいように、なかなか描けない。
もう、じれったくなる事があるでしょう。
つまり、自分ではこのように描きたいと思っているのに、思った色がなかなか出てこない。
どうしても、家の形が目の前の家と違っている。
奥行きが表せなかったりして、いい加減イヤになってしまう事もあるでしょう。

つまり、図画用紙に書かれている物は描いている人の頭の中にあるものとは違っている。
もちろん、現実の家や、木や、花とも違っている。

ところで、あなたが友達の描いた絵を見るとき、
上手いとか、へたくそだとか、あなたは言葉で技量を言い表しますよね。
また、描いてある物の意味をさぐろうとします。
馬とか犬が描いてあれば、その馬が生き生きと描いてあるとか、
馬の耳が長すぎるとか、かなり具体的に批評が出来ます。
しかし、その馬とか犬の感情となると、見る人によってだいぶ違ってきますよね。

写生画の場合、批評する事は比較的簡単ですが、
抽象画となると、これはなかなか難しい。
なぜなら、具象的でない絵画を見るとき、
見るという行為は個性と文化的バックグラウンドを通してしか見ることができない。

例えば、ピカソのグロテスクな人物画を見るとき、
スペイン人、アメリカ人、日本人、アメリカインディアンの見方はまず違いますよ。
なぜなら、文化的バックグラウンドが違っているからです。
同じ絵を見ているのに日本人の受け止め方とアメリカ人の受け止め方が違うのは、
あなたにも良く理解できると思います。

つまり、生まれも育ちも全く違う。話す言葉さえ違う。
つまり文化が違うんだから、見方が違っても当然です。
でも、全く同じピカソのグロテスクな人物画を見ているのに、
受け止め方がアメリカ人と日本人では全く違うと言う事を考えてみてください。

これは文化的なバックグラウンドが違うと言う事で理解できます。
では、同じ日本人同士ではどうか?
文化的バックグラウンドはほぼ同じです。あまり大きな違いはありません。
同じ日本語を話します。同じ風土で育ってきています。

でも、あなたと僕がピカソのグロテスクな人物画を見たら、
感想はだいぶ違うと思いますね。
なぜか?
個性が違います。

 


(kame01.jpg)

 

つまり、全く同じ絵が、見る人によって違ってしまう。
つまり、ピカソの絵を見るとき、個性と文化的バックグラウンドを前提としてしか絵を見ることができません。
あなたの心の中にある印象とか、感想とか批判というのは、絵そのものではありえない!
絵とあなたの頭がベッドインして作った子供みたいなものです。そう思いませんか?

つまり、批判や批評をする時というのは絵の本質は、絵そのものからあなたの頭の中に移動してきますよね。
ピカソはどうしてこのようなグロテスクな人物を描いたのだろうか?
と、あなたは考える。
なんでこんな作品を作ったのだろう?
あなたは、一生懸命にあなたの頭で考える。
あなたの個性と、文化的バックグラウンドを基にして。

じっくり見ながら考えて、あなたはその絵の意味する事をあなたなりに分かったような気がする。
絵の本質に迫った気がしてくる。
でも、あなたは知っているはずです。
描いたのはピカソなんだから、いくら考えたって、ピカソがどのような気持ちで、
どのような目的で描いたか?なんて分かりっこない!
でも、見て考える、という行為は、ちょうど好きな音楽を聴くように、
作者がどのような気持ちで作ろうが、関係ないんですね。
つまり、音楽を聴いて作曲家になったような気分が味わえて
いい気持ちで聞けたらそれで充分満足できる。

つまり、絵の本質も音楽の本質も、見る人聴く人の方に移ってゆく。
それでいいと思うんですね。
でも中には作者、作曲家の本質にこだわる人も居る。
そういう人はどうするのか?
インタビューするわけですよね。
ピカソに尋ねるわけです。

それで「批評」を書く。
こういう人たちの事を「批評家」「評論家」というんでしょうね。
作品の本質を「あちらがわ」、つまり作者の方に求める。

でも「批判」するというのは、つまり、作品を語るということは、
つねに自分のバックグラウンドと自分の個性、自分自身を語るということです。

例えば、ヒトラー総統の前を行進するドイツ軍のパレードを映画で見るとします。
一糸乱れぬ軍隊行進。
制服もパリッとして、なかなかかっこいい!
旧ドイツ軍、凄い!

しかし、現在、自由主義に生きている我われがあんな行進をしたいか?
見るのはいいけれど、やるのはめっそうもない、というのが答えではないですか?
全体主義や旧日本帝国のような軍国主義には戻りたくない。
どうしても窮屈な感じで、あんなロボットのような行進など
やれ、と言われてもやりたくないでしょう。

つまり、あの第三帝国のすばらしさを伝えようとして作ったドイツ軍パレードの映画監督は
テーマを現在の我われには届けることが出来ない。
私たちは、まずそのテーマに到達できない。
そうすることの意味を見出せないかもしれない。
つまり、感想、印象、批判は作った人間とは全く無関係ということを知らざるを得ない。

絵を描いたり、絵を見たり、映画を作ったり、映画を観たりするということは孤独な行為です。
なぜか?
作り手や隣で見ている人と感想を共有できないからです。
突き詰めて言えば、個性や文化的バックグラウンドは一人一人皆違うからです。

でも、その孤独な行為をがまんできず、言語化して他の人と共有しようとする。
それが作者に向いている場合、批判、
観客に向いている場合、批評と呼ばれるわけです。

自分が思ったことが自分だけのものだと無意識的に気づいているので、
他の人と一般化する時に批評という言葉が使われます。
だから、批評家とか評論家と呼ばれる人たちが居ます。

そういうわけで、批判すると言う時、あなたは自分の文化的バックグラウンドと自分の個性、
自分自身を語らなければならない。
そうでない限り批判とは言えない。

この上で示した小泉純一郎君の1行のコメントは批判とは言いようがありません。
では、なにか?
公衆便所の落書きです。

これはどうした事か?
つまり、語るべき文化的バックグラウンドと自分の個性がないのではないか?
あるのなら、そのことが語れないのではないか?
語り方を知らないのではないか?

日本には満足に批判できない人がたくさん居ます。
つまり、自分を語ることが出来ない。
あなたはネットで自分を語ることができますか?

 


(uncle006.gif)

 

何よりも、自分の考え方をしっかりと持っている人が少ない!
欧米のサイトで18年やってから、日本のサイトで3年ほどですが僕は、そう、しみじみと感じますね。

純一郎君も他人の書いたものにリンクを貼っているだけ!
“自分”はどこに行ってしまったの?

じゃあ、オマエはどうなのか?
とあなたは僕に尋ねるかもしれない。

僕のブログの記事を見てください。
どれも長い。
なぜか?
僕は自分の文化的バックグラウンドと自分の個性、
自分自身を語っているからですよ。

出来たら、あなたもそうしてください。
1行から3行の文章で
あなたは自分自身を語ることができますか?

上の小泉純一郎君が書いた1行のコメントで
批判ができますか?

しかし、純一郎君のやろうとした事は僕を批判しようとしているのですよ!
なぜ?
“反省”しなさい、と書いているわけですよ。
何を反省するのか?
どう反省するのか?

それを書くことが批判です。
それを書いていないので“公衆便所の落書き”で終わってしまっているのです!
この純一郎君とは何者か?
捨て台詞を残して逃げてゆく愚劣で愚かな野次馬の後姿なのです!
あなたにも分かりますよね。

リンク先の文章は純一郎君が書いたものであはありません。
もし、そうなら、著者は自分の名前かハンドル名を書くものです。

ところが上の1行のコメントは“自分が居ない”批判になっている。
それは批判ではないんですよね。
公衆便所の落書きです。
それを書いた愚か者が自分のことを小泉純一郎と名乗っている!

もし、日本国首相の小泉純ちゃんが上のコメントを書いたなら、
純ちゃんは1行の公衆便所の落書きしか書けないという事になってしまう!
そんな事はありえない!でしょう?
なぜ?

そんな無責任な首相が居たら、日本の将来はお先真っ暗ですよ!
もし、そうならあなたは、そんな首相が舵取りをしている日本から抜け出したくなるでしょうね。
でしょう?

でも、純ちゃんも、国際的に見たら、あまり変わらない“自分の居ない”政治を日本でやっていますよね。
やっぽり、日本の将来に不安を感じます。
だから、僕はバンクーバーから日本を見ているんですよ。

世界のトップの政治家を見てください。
もっと、もっと、“自分”というものを前面に出しています!

日本には“自分”を持つ人が極めて少ないんです。
だから、2ちゃんねるのような“公衆便所落書き掲示板”があれほど大きくなってしまう!
欧米では考えられない事です!
なぜ?

近代市民の思想というのはフランス革命によって確立されたんですよ!
つまり、本当の“市民”というのは“自分”を持つことです。

“自分を持つ”ということはどういうことなのか?
自分を語ることが出来るという事ですよ!
責任を持つ。いい加減な事は書かない!
だから、欧米の雑誌や新聞には必ず書いた記者の名前が書いてある!
20年前の日本の雑誌や新聞には書いた記者の名前はなかったんですよ。

わかるでしょう?
日本の大衆文化は“匿名の文化”なんですよ!
だから、2ちゃんねるのような“公衆便所の落書き”があれほど大きくなってしまう。

かつてマッカーサー元帥が日本人をじっくりと見て言ったものです。
小学校6年生程度の頭しかない!

今、マッカーサー元帥が生きていたら2ちゃんねる掲示板を見て同じ事を言いますよ!
2ちゃんねるのレベルは世界的に見たら小学校6年生程度の頭を持つ人間が喜んで書くような掲示板なんですよ!
そこからやって来た愚か者が“小泉純一郎”と名乗って上のコメントを書いたんです!

“馬鹿は死ななきゃ治らない!”

この記事を読んでいる小泉純一郎君!
キミもDEMPA55と同じですよ!
小学校の全課程をもう一度やり直した方がイイですよ!

卒業してから、中学校に行って、出来たら高校を卒業して
それから、味噌汁で顔を洗って
もう一度真面目にコメントを書いてくださいね。
お願いします。へへへ。。。
(馬鹿にしているのではありませんよ。つい失笑してしまうんです。。。あしからず。)

ところで、この純一郎君はDEMPA55である可能性が充分に考えられます。
まだ確認していませんが。。。

 


(laugh16.gif)


(himiko22.gif)

もし時間があったら次の記事を読んでくださいね。

■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』


■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

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(dinner5.jpg)

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

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