デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

女性とよしず PART 1

2008-09-19 11:03:12 | 日本人・日本文化・文学論・日本語


 
女性とよしず





何しろ小百合さんの山の家の風呂は露天ですよ。マキで沸かすより他にないでしょう?



それで。。。それで。。。小百合さんはその露天風呂に裸ではいるのでござ~♪~ますかア?

あのねぇ~、卑弥子さん。。。、そのような分かりきったことを尋ねないでくださいよゥ。露天だからって服を着たまま入る女性は居ませんよ。

でも、最近は“湯あみ着”と言うムームーのようなモノができているのでござ~♪~ますわ。そういうモノを身につけて混浴の露天風呂に入る女性が多くなったのでござ~♪~ますわよ。

でも、小百合さんは一糸もまとわず全裸ではいるのですよ。

どうして。。。、どうして、デンマンさんはご存知なんですの?

僕は直接、小百合さんに聞いたのですよ。夜は全く風呂の周りには囲いをしないそうですよ。

それで昼間は。。。?

誰か人の気配がするような時には“よしず”で囲うことがあるという事です。でもねぇ、ほとんど人がやって来ないそうですよう。

あのォ~、“よしず”って、どういうものでござ~♪~ますか?

あれっ。。。卑弥子さんは知らないのですか?ジューンさんが書いていましたよう。ちょっと読んでくださいよう。




こんにちは。ジューンです。

『更級日記』の作者が13才の時に

馬にまたがった武士を見たのは、

武蔵国のどの辺りだったのでしょうか?

ちょっと興味があったので

現代語訳の『更級日記』を読んでみたら

次のように書いてありました。


今はもう武蔵国になった。

格別風流な景色も見えない。

浜も、「くろとの浜」と違って砂が白くもなく、

泥のようで、紫草が生えると聞く武蔵野も、

アシやオギだけが高く生えていて、

武士の、馬に乗って弓を持っている

先っちょが見えないくらいまで、高く茂っていて、

その中を掻き分けて行くと、竹芝という寺がある。

はるか先に、母荘という

荘園の領主の邸跡の礎石がある。


つまり、現在の千葉県からやって来て

隅田川を渡って竹芝寺の近くの草原で

武士を見かけたのです。

その当時の風情は、もう跡形も無いでしょうね。

当時から高貴な花の代表である紫草は

武蔵野の名産だったそうです。

ただし、紫草は夏の花なので、

秋に武蔵国を通過する作者は目に出来なかったのです。

生えているのは、アシ(葦)やオギ(荻)などの

イネ科の植物のみでした。

なお、アシが「悪し」に通じるのを嫌って逆の、

「良し」=ヨシ(葭)とも言います。

面白いですね。
 


  紫草

ところで、英語の面白いお話を集めて

記事を書きました。

時間があったら、ぜひ覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』





『愛とロマンと昔話 (2008年9月11日)』より


“よしず”を漢字で書くと「葭簾」ですよ。「簾(ず)」は訓読みにすれば“すだれ”です。それで、ジューンさんが “アシ(葦)” と “ヨシ(葭)” が同じものだと言っているのですよう。もう分かるでしょう?

あらっ。。。アシで作ったスダレでござ~♪~ますか?

そうですよう。

な~♪~んか、難しく言うのでござ~♪~ますわねぇ。初めからアシで作ったスダレと言えばよろしいのでござ~♪~ますわ。

とにかく、ここまでは、おとといの繰り返しのようなものですからね。。。

。。。んで、今日は『女性とよしず』と言うタイトルでござ~♪~ますわね。。。この女性って小百合さんのことでござ~♪~ますか?

違います。

では、あたくしの事でござ~♪~ますわね?

違うのですよう。

一体どの女性のお話でござ~♪~ますか?

おとといは次の和歌を紹介しました。この歌がヒントですよう。




玉垂(たまだれ)の

小簾(をす)の隙(すけき)に

入り通ひ来(こ)ね

たらちねの母が問はさば

風と申さむ



詠み人知らず

万葉集 巻第十一・2364



すだれの隙間から、風と共に入ってね、

母がとがめたら、風だと言っておくわ


『露天風呂とよしず (2008年9月17日)』より


では、今日も万葉集の中に出てくる女性ですか?

そうですよう。卑弥子さんも良く知っている女性ですよう。

紫式部でござ~♪~ますか?

平安時代より前の時代に生きていた女性です。

だったら、奈良時代でござ~♪~ますわね?。。。え~とォ~。。。たぶん、額田女王(ぬかだのおおきみ)でしょう。

さすがですねぇ~。。。京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義しているだけの事はありますねぇ~。。。改めて卑弥子さんを見直しましたよう。

このような所で、わざとらしく煽(おだ)てないでくださいましなぁ~。。。とっても恥ずかしいですわぁ~、おほほほほ。。。

実は、額田女王は次のような歌を詠(うた)っているのですよう。




君待つと

わが恋ひをれば

わが屋戸(やど)の

簾(すだれ)動かし

秋の風吹く


額田王

万葉集 巻第四・488



こうして久しぶりに天智天皇の訪れるのを

心待ちに待っていますと、

天皇ではなくて、その先駆けのような恰好で、

一足先に一陣の秋風が簾を動かしながら、

私の宿を吹き抜けていきました。



これは愛する人を待ち焦がれている額田女王の歌だと言われているのですよう。

デンマンさんは、そうではないと思っているのでござ~♪~ますか?

もちろん、額田女王が詠んだ歌に間違いないようです。

。。。んで、実は、簾ではなくて“よしず”なのですか?

“よしず”ではないようです。万葉集を調べたけれど、やっぱり“よしず”を詠み込んだ歌を見つけることができませんでした。

やはり、竹で編んだ簾ですか?

そうですよう。小百合さんが露天風呂の周りを“よしず”で囲む、と聞いたものだから“よしず”を持ち出してきたけれど、万葉集の時代に“よしず”を家の中に持ち込んでも歌にはならないのですよう。

どうしてでござ~♪~ますか?



“よしず”と言うのは、3メートルほどの葦の茎をシュロ糸で結びつなげて作るのですよう。細くしたスダレ用の竹と比べると、この葦の茎は太い。家の中に持ち込むようなものじゃないのですよう。たいてい、立てかけて使う。それに対して、簾は吊るして使う。

やはり、“よしず”では具合が悪いのでござ~♪~ますか?

秋風が簾を動かすと言うのは、吊るしてある細い竹でできた簾だから可能なのですよう。太い葦の茎でできた“よしず”を簾のようにして吊るしたら、全くダサくて風情がない。立てかけたら、秋の風がちょっと吹いたぐらいでは、“よしず”はビクともしないのですよう。どう考えたって、和歌で“よしず”を詠みこむ気持ちにならないでしょうね。

つまり、この事がおっしゃりたくって『女性とよしず』と言うタイトルにしたのでござ~♪~ますか?

違います。

。。。んで、一体何が問題だとおしゃるのでござ~♪~ますか?

上の歌は額田女王が愛する人を待ち焦がれている歌だと言われているのですよう。そのように読み取るのが、ごく一般的な読み方だと思うけれど。。。、また、そのように解釈している学者やファンが圧倒的多数ですよう。

でも、そうではないと、デンマンさんはおっしゃるのですね?

違うと僕は思っているのですよう。僕は、どうしても、この当時の政治的な背景を考えてしまうのです。

でも、上の歌が愛する人を待ち焦がれる女の歌だと言うことは定説になっておりますわ。しかも、上の歌とセットのようにして額田女王のお姉さんだと言われている鏡王女(かがみのおおきみ)の詠(よ)んだ歌がござ~♪~ますわ。




風をだに

恋ふるは羨(とも)し

風をだに

来(こ)むとし待たば

何か嘆かむ


鏡王女

万葉集 巻第四・489



吹き抜けていく秋風にも、

天皇ご来訪の前触れを感じ取れるとは羨ましい。

今日は秋風の代理だけで終ったとしても、

いつかは必ずや天皇には足を運ばれるに違いない。

それに引き換え、私には秋風も代理とはならない。

代るべき当の藤原鎌足さまは、

最早いないのですから。



あれっ。。。卑弥子さんは知っていたのですか?

おほほほほ。。。額田女王と鏡王女は有名でござ~♪~ますから、古典文学を専攻している者として、あたくしも一応勉強いたしましたわ。

そうですか。。。それならば話し易いですよう。確かに卑弥子さんが言うように、この2つの歌を並べたら、これは愛(いと)しい男を待つ女の歌であり、また、すでに亡くなっている愛しい男を偲ぶ女の歌ですよう。そう解釈するのが最も常識的でしょうね。

でも、デンマンさんは違うのでござ~♪~ますか?

違うのですよう。恋の歌、愛の歌に見せかけながら、当時の政治体制、つまり、天智天皇の政治を批判している歌だと僕は信じているのですよう。

それはまた、一体、どういうわけでござ~♪~ますか?

これまで何度も引用したけれど、まず次の文章を読んでください。


今に見ていろ。きっとバチが当たるから!



天智天皇は百済(くだら)を助けるために古代韓国で戦争に加担した。
それで、663年に白村江(はくすきのえ)の戦いで敗れた!
天智帝(まだ正式には天皇ではありませんが、政治を担っています)にとっては、決定的な痛手だった。
先ず人望を失います。

これとは反対に、多くの人が、大海人皇子(後の天武天皇)になびいてゆきます。
ちょうど、太平洋戦争に負けた日本のような状態だったでしょう。
当時の大和朝廷は、まだ唐と新羅の連合軍に占領されたわけではありません。
しかし、問題は白村江で大敗したという重大ニュースです。

おそらく、天智天皇は『一億玉砕』をさけんで、しきりに当時の大和民族の大和魂を煽り立てたでしょう。
しかし厭戦気分が広がります。それを煽り立てるのが大海人皇子を始めとする新羅派です。

国を滅ぼされてしまった百済人が難民となって続々と日本へやってきます。
天智帝が援助の手を差し伸べます。
しかし戦費を使い果たした上に、さらに重税が割り当てられるのでは、大和民族にとっては、たまったものではありません。
そういう税金が百済人のために使われると思えば、ますます嫌になります。
天智天皇の人気は底をつきます。

そればかりではありません。天智天皇はもう必死になって、九州から近畿地方に至る大防衛網を構築し始めます。



しかし、天智天皇は重大な間違いを犯してしまった。
唐・新羅同盟軍の侵攻を防ぐために、天智帝は上の地図で示したような、一大防衛網を築いたのです。
(現在で言うなら、テポドンに備えるようなものですよ!
その防衛網を実際に構築したんですよ!
その実行力は確かにすごい!)

そのために、一体何十万人の人々が動員されたことか?
しかし、天智天皇の防衛計画を本当に理解している人は、おそらく10パーセントにも達しなかったでしょう。

「何でこんな無駄なことをさせられるのか?」

大多数の人は理解に苦しんだことでしょう。

魏志倭人伝に書いてあるとおり、原日本人(アイヌ人の祖先)というのは、伝統的に町の周りに城壁を築くようなことをしません。
したがって、山城を築くようなこともしません。
これは朝鮮半島的な発想です。
原日本人にとって、山は信仰の対象です!
聖域に入り込んで、山を崩したり、様相を変えたり、岩を積み上げたりすることは、神を冒涜することに等しいわけです。
このことだけをとってみても、天智天皇は土着の大和民族、古代アイヌ人から、総スカンを喰らう。
「今に見ていろ。きっとバチが当たるから!」

しかも、これだけでよせばいいのに、東国から、防人(さきもり)を徴用する。
東国には、当時アイヌ人の祖先がたくさん暮らしていた。
つまり、大和人に同化したアイヌ人もたくさん居た。
この人たちは、文字通り、万物に神が宿ると信じて、平和に感謝して生きる人たちだった。

この防人というのは、九州の防衛に狩り出される警備兵です。
そのような素朴な人たちまでもが警備兵として狩り出される。
往きは良い良い帰りは怖いです。
というのは、帰りは自弁当です。
つまり自費で帰国しなければなりません。

したがって金の切れ目が命の切れ目で、故郷にたどり着けずに野垂れ死にをする人が結構居たそうです。
それはそうでしょう、新幹線があるわけでありませんから、徒歩でテクテクと九州から関東平野までテクシーです。
ホテルなんてしゃれたものはもちろんありません。
途中で追いはぎに襲われ、身ぐるみはがれたら、もう死を覚悟しなければなりません。
さんざ、こき使われた挙句、放り出されるように帰れ、と言われたのでは天智天皇の人気が出るわけがありません。
人気どころか怨嗟の的になります。
「今に見ていろ。きっとバチが当たるゾ!」

それで、バチが当たって(?)天智天皇は暗殺されたわけです。





『万葉集の謎と山上憶良 (2006年7月1日)』より


このような政治的な状況が上の2つの歌と関係があるのですか?

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