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デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

愛情ゲットの呪術(PART 1)

2020-02-12 03:52:32 | 日本史
 

愛情ゲットの呪術(PART 1)

 


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デンマンさん。。。 愛情ゲットの呪術 をマスターしたのでござ~ますかァ~?


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。。。ん? 卑弥子さんは僕が愛情ゲットの呪術 をマスターしたと思ったのですか?

そうですわァ~。。。 あたくしに教えてくださるのでしょう?

いや。。。 僕は、そのような妖術には全く興味がないのですよ。。。。

それなのに、どういうわけで素晴らしい妖術を取り上げたのですか?

実は、バンクーバー市立図書館で借りた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。

 


愛情獲得の呪術

 


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王朝時代に輩出した才媛たちを代表する一人である和泉式部について、『沙石集(しゃせきしゅう)』という説話集は、次のような話を伝えている。

 


和泉式部は、あるとき、夫の藤原保昌(やすまさ)に十分愛されていないと感じで、一人の巫女に、貴船社において夫の愛情を取り戻すための呪術を行うことを依頼した。

そして、このことを聞き付けた保昌は、呪術が行われる日、こっそりと貴船社に行くと、境内の木の後ろに隠れて、和泉式部が依頼した呪術の様子を窺い見ていた。

すると、老齢の巫女が、赤い幣帛(へいはく)を幾本も立て並べて呪術の場をしつらえると、しばし呪術の作法を行い、その後、鼓(つづみ)を打ちつつ、衣装の裾をたくし上げて陰部を露出させ、そうして女陰を叩きながら呪術の場を3周した。

 


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それから、この老巫女は、和泉式部に「この通りになさいませ」と言ったのであった。

しかし、和泉式部は、顔を真っ赤にして、巫女に返事をすることも出きなかった。

 


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これによれば、王朝時代には、任意の相手の愛情を自分に向けさせるための呪術を扱う巫女がいたらしい。
そして、この呪術には、『新猿楽記』にも巫女の道具として登場する鼓が使われたのであった。

ただし、『沙石集』を編纂したのは、鎌倉時代後期の無住(むじゅう)という僧侶である。
したがって、上の話は、そのまま史実として扱われるべきではあるまい。

が、(略) 和泉式部の生きた王朝時代において、実際に行われていたかもしれない。
というのは、他ならぬ『新猿楽記』に、そのことを示唆する記述が見出されるからである。 (略)

ここで藤原明衡(あきひら)の想定する諸々の呪術には、呪術の場において女陰を叩きながら舞う所作の含まれるものが見えている。(略)

とすれば、『沙石集』が和泉式部に関連付けて伝えている巫女の呪術は、本当に和泉式部と関係があったか否かはともかく、やはり、王朝時代において実際に巫女たちが扱っていた呪術の一つであったろう。

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




80-82ページ 『下級貴族たちの王朝時代』
著者: 繁田信一
2018年1月11日 初刷発行
発行所: 株式会社 新典社


 



あらっ。。。 愛情をゲットするためには、羞恥心をかなぐり捨てて ずいぶんと大胆なことまでしないといけないのでござ~ますわねぇ~。。。 うふふふふふふふ。。。



もし、愛情ゲットの呪術が実際にあるとすれば、卑弥子さんは巫女さんに1億円を払ってでも、素敵な男性の心を射止めるために呪術をお願いするでしょう?

そうですわねぇ~。。。 星の王子様の心をマジで射止めたいですわァ~。。。 でも、呪術に全く関心がないデンマンさんが、どういうわけで愛情ゲットの呪術を取り上げたのでござ~ますか?

あのねぇ~、現代人のほとんどの人たちは、呪術なんて信じてないですよ。。。 ところが、平安時代には、むしろ呪術を信じない人の方が極めて少なかったらしい。。。 ほとんどの平安時代人が、マジで呪術を信じていたようなのですよ。。。

その証拠でもあるのでござ~ますか?

その事では、かつて記事を書いたことがあるのですよ。。。 卑弥子さんも読んでみてねぇ~。。。

 




恬子(やすいこ)内親王の妹に、上の経歴の中にも書いてあるけれど、珍子(よしこ)内親王という女性が居るのですよ。この女性は恬子内親王が29才の時に無品で亡くなっているのですよ。



無品ってどう言う事ですか?

つまり、官位を与えてもらえなかったのですよ。

それって重要なものですか?

重要なものだったのですよ。今だって“あの人は品の無い人だ”という言い方があるでしょう? レンゲさんだって“品の無い女だ!”なんて言われたくないでしょう?

もちろんですわ。

この“品”と言うのは官位の“品”から派生したのですよ。あの聖徳太子が制定したと言う官位ですよ。平安時代になると臣下の場合には正一位とか従五位のように呼ばれたものなのですよ。でも、皇族の場合には一品(いっぽん)、二品(にほん)、三品(さんぽん)、四品(しほん)と呼ばれた。

それで、品が無いままで亡くなるのは異常な事ですの?

かなり異常ですよ。ちょっと、次の事件を読んでみてください。

 


神護景雲3(769)年5月の

巫蠱(ふこ)事件


 


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この事件では、県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが不破内親王(ふわないしんのう)のもとで氷上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ)を皇位に就けようとする巫蠱厭魅(ふこえんみ)を行った。

称徳女帝(かつての阿部内親王)の髪を盗んできて、佐保川の髑髏(ドクロ)に入れて呪詛(じゅそ)するという、おぞましいものだった。

この事件のあと、不破内親王は「厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)」と名前を改めさせられて京外に追放された。
つまり、“台所で働く下女”という名前に変えさせられたと言うわけです。

姉妹喧嘩も、ここまでやると滑稽になってきますよね。
不破内親王に対する永年の冷遇は、このような事件が原因だと言われています。

実際、史実を見てみると、不破内親王が初めて官位を授かるのが、天平宝字7(763)年です。
実に41才の時で、親王位としては最低の四品です。

ちなみに、同腹の姉の井上内親王は天平19(747)年、31才の時に二品を授かっています。
待遇の違いが歴然としています。





『愛と憎しみの原点?(2006年6月9日)』より


 



不破内親王というのはあの有名な道鏡と肉体関係を持ったのではないか?と疑われている称徳女帝の腹違いの妹です。この妹が姉を逆恨みして起こした事件と言うのが真相のようです。しかし、この不破内親王は“台所で働く下女”と言う汚名まで着せられたのに、41才の時に親王位としては最低の四品をもらっているのです。



でも、恬子内親王の妹の珍子(よしこ)内親王はもらってないのですか?

何も悪い事をしていなかったのに、母親が紀氏出身だったのでもらえなかったのですよ。文字通り“品が無い女”として死んでいったのですよ。

でも、死後に追贈する事ができるでしょう?

担当の者が追贈すると、時の権力者に睨まれてしまうから、珍子(よしこ)内親王に四品を追贈したくてもできなかったのでしょうね。応天門の変では、何の罪も無い紀夏井までが、ただ紀氏の血縁だったと言うだけで官職を解かれて刑罰に服したのですからね。。。

つまり、紀氏に同情する者や組する者は徹底的に排除されたのですね?

そうですよ。紀氏の中には珍子(よしこ)内親王や紀夏井を含めて、恨みを呑んで死んでいった者がたくさん居るのですよ。

つまり、そのような人たちが怨霊になって祟(たた)りを引き起こすと思われたのですね?

 


怨霊信仰


(majo.gif)

 

非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、
これを融和してその崇りを免れ安穏を確保しようとする信仰。

原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀(まつ)られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。

『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。

しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。

その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」




SOURCE: 国史大辞典


 



その通りですよ。だから、怨みをのんで死んだ者の霊をその子孫が祀って御霊(みたま)を鎮(しず)めてあげなければならないのですよ。



つまり。。。つまり。。。そのようにして紀氏の怨霊の御霊(みたま)を鎮(しず)めた人が『伊勢物語』を編集したとデンマンさんはおっしゃるのですか?

そうですよ。『伊勢物語』には紀氏との関わりの多い人物が多く登場していますよ。在原業平(ありわらのなりひら)は紀有常(実名で登場)の娘を妻としています。その有常の父・紀名虎の娘(紀静子)が惟喬親王と恬子内親王と珍子(よしこ)内親王を産んでいます。作中での彼らは古記録から考えられる以上に零落した境遇が強調されているのですよ。

なぜですか?

つまり、藤原氏との政争に敗れた事を強調しているのですよ。それにもかかわらず、優美であったという紀氏の有り様を美しく描いているのです。それが『伊勢物語』ですよ。

つまり、編者は紀氏の一員なのですね?

そうです。 紀氏の子孫が怨みをのんで死んだ一族の霊を祀ったのが『伊勢物語』だと僕は考えているのですよ。 ここまで言えば、その編者が誰だかレンゲさんにも分かるでしょう?

もしかして。。。もしかして。。。紀氏の一員で有名な人と言えば。。。あのォ~。。。紀貫之(きのつらゆき)ですか?

さすが、レンゲさんですねぇ~。。。僕もそのつもりで話を進めてきたのです。

。。。で、香港の劉嘉玲(ラウ・ガーリン)さんも この話を読んで感銘を受けたのですか?

そうです。。。 恬子(やすいこ)内親王は時代を間違えて生まれてきてしまったのです。。。 でも、すでに没落貴族になりつつある紀氏の一員だというにもかかわらず、自分の考えに忠実に生きたのですよ。。。

つまり、愛に生きたのですわねぇ~。。。

そうです。。。 それでラウさんも、恬子(やすいこ)内親王について知れば知るほど涙なしには読めないと。。。

マジで。。。?

信じてください。。。 ラウさん本人がそう言っていたのだから。。。

 


(pinkgal2.jpg) 




『禁忌の愛を探して』より
(2017年5月11日)


 



つまり、神護景雲3(769)年5月の巫蠱(ふこ)事件というのは県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが不破内親王(ふわないしんのう)のもとで氷上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ)を皇位に就けるために呪術を使ったということですねぇ~。。。



そういうことですよ。。。 称徳女帝(かつての阿部内親王)の髪を盗んできて、佐保川の髑髏(ドクロ)に入れて呪詛(じゅそ)するというのが、その呪術のやり方だったのですよ。。。

でも、結局 目的は達せられなかったのですわねぇ~。。。

そうです。。。 失敗したわけですよ。。。 もし成功していたら、称徳女帝は亡くなっていたのだから。。。

この事件から、呪術は効果がないということが、その当時の人は理解できなかったのかしら?

あのねぇ~、この当時の人は地球が丸いなんて信じていなかった。。。 地球はどこまで行っても平らだと信じていたのですよ。。。 それと同じように、呪術は当時の人にとっては、“科学的な真実”だった。。。 今でこそ、呪術などは迷信だと思っている人がほとんどだけれど、当時は、マジで貴族も庶民も皇族も呪術を信じていたわけです。。。

要するに、上の事件が失敗に終わったのは、呪術のやり方がまずかったという結論だったのですわねぇ~。。。

そういうことですよ。。。

でも、その当時、呪術が成功した例はあったのでござ~ますかァ~?

最も良く庶民に知れ渡ったのが、あの菅原道真の怨霊ですよ。。。 この怨霊が呪詛したことによって起こったと言われた清涼殿落雷事件です。。。

 


清涼殿落雷事件

 


(raijin01.jpg) 

 

平安時代の延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)に、平安京・内裏の清涼殿に起きた落雷。

この年、平安京周辺は干害に見舞われており、6月26日に雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれることとなった。
ところが、午後1時頃より愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それから凡そ1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃した。

この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となった。

清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されたが、希世も程なく死亡した。

落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包が髪を焼かれて死亡。
紀蔭連は腹を焼かれてもだえ苦しみ、安曇宗仁は膝を焼かれて立てなくなった。

更に警備の近衛も2名死亡した。

清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは、負傷者の救護もさることながら、本来宮中から厳重に排除されなければならない死穢に直面し、遺体の搬出のため大混乱となった。

穢れから最も隔離されねばならない醍醐天皇は清涼殿から常寧殿に避難したが、惨状を目の当たりにして体調を崩し、3ヶ月後に崩御することとなる。

天皇の居所に落雷し、そこで多くの死穢を発生させたということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫がかつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。

また、道真の怨霊が雷神となり雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなった。




出典: 「清涼殿落雷事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



つまり、民衆は、菅原道真の怨霊が呪術を使って雷神を使い 落雷事件を起こしたと信じたのですよ。。。



現代人ならば、小学生でも落雷は自然現象で、呪術とは全く関係ないということを知っていますけれど、科学知識がなかった平安の庶民は、迷信によって ずいぶんと血迷った生活を送っていたのですわねぇ~。。。 驚きでござ~ますわァ~。。。

そういうことですよ。。。 だから、卑弥子さんも血迷って呪術で星の王子様の心を射止めようなどとは思わないでねぇ~。。。



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 (すぐ下のページへ続く)






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愛情ゲットの呪術(PART 2)

2020-02-12 03:50:40 | 日本史




 

愛情ゲットの呪術(PART 2)

 


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif) 

ですってぇ~。。。

あたくしだってぇ~、呪術で星の王子様の心をゲットすることなどできないと信じてますわァ~。。。

あなただってぇ~、そう思っているでしょう?

ええっ。。。 「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのように あたくしにご命令なさるのでござ~ますか?

いけすかないお方ァ~。。。

分かりましたわ。

じゃあ、話題を変えて 天の川の不思議に迫るクリップを お目にかけますわ。。。

 


(milkyway2.jpg)



 

どうでした?

ええっ。。。 「夜眠れなくなるから、そういう動画は見せるな! 気分直しに何か他に もっと面白いことを話せ!」

あなたは、あたくしに向かって、更にご命令なさるのでござ~ますか?

いけすかないお方ァ~。。。!

分かりましたわァ。。。 あなたが、そうおっしゃるのだったら、まずジューンさんの次の写真をご覧になってくださいまし。。。

 


(senya020b.jpg)

 

千夜一夜物語の衣装を着たジューンさんに魅せられて、女性に成りすます男性が たくさん居るのでござ~ますわァ!

ええっ。。。 信じられないのですかァ?

じゃあ、ちょっと次のYouTubeのクリップを見てくださいまし。。。

 


(xdress02.jpg)



 

いかがでござ~ますかァ~?

男性が女装していると思いますかァ?

あたくしは、素直に信じることができませんわァ~。。。

どうですかァ~? けっこうなものでしょう!?

いつまでも見とれていても仕方がありませんわよゥ。

あなたのために古代史の面白い記事を用意しました。

ぜひ お読みください。

では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。

だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。

じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


『センスあるランジェリー』



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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




(miya08.jpg)

『麻生元総理』

『ネットのバカ女を捜して』

『額田王の歌』

『聖女と娼婦』

『済子女王@萌える』

『ん?堀内亜里?』

『松平春嶽が黒幕?』

『旅行者的早餐』

『なぜ蝦夷なの?』

『プリキュアとヒトラー』

『戦争絶対反対よね』

『怨霊の歴史』

『色欲@歴史』

『紫式部と敗戦』

『ラピスラズリと源氏物語』


(annasalleh.jpg)

『性と愛@古代史』

『仙台を離れて』

『美人とブス@大奥』

『絵の中のウソ』

『阿倍仲麻呂@ベトナム』

『バイクガール』

『六条御息所』

『卑弥子さんの大学』

『元寇と捕虜』

『マキアベリにビックリ』

『痴漢が心配』

『びた一文』

『卑弥子@ブカレスト』

『エロい源氏を探して』

『ラピスラズリの舟形杯』

『平成の紫式部』

『隠元豆と国性爺合戦』

『おばさんと呼ばれて』


(zurose2.jpg)

『女帝の平和』

『アタマにくる一言』

『悪女レオタード@昌原市』

『スウィートビーン』

『ガチで浦島太郎やし』

『ご苦労さま』

『デンマンのはなし』

『卑弥呼の墓』

『室生犀星と人間学』

『松平春嶽ダントツ』

『英語は3語で伝わる』

『くだらない物』

『漢字で体操』

『面白い漢字テスト』


(hama10.jpg)

『日本のエロい文化』

『女のオナラ』

『紫式部と宮本武蔵』

『頼朝の死の謎』

『パンツと戦争』

『海外美女 新着記事』

『日本語を作った男』

『江戸の敵を長崎で』

『芸術は尻だ』

『尻の芸術』

『左翼的な下着』

『エロい源氏』

『ネット市民は見ている』


(costa04b.jpg)

『朝妻船』

『阿修羅を探して』

『羅漢と良寛』

『源氏エロ』

『元寇船』

『ハマガソ』

『歴史ロマン@バンコク』

『平安のキス』

『大久保独裁政権』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


(byebye.gif)
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頼朝の死の謎

2019-08-30 12:08:38 | 日本史
 

頼朝の死の謎

 


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(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 今日は源頼朝の死の謎に迫るのでござ~♪~ますかァ~?


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そうです。。。 いけませんか?

でも、どういうわけで急に 頼朝の死の謎 を持ち出したのでござ~♪~ますかかァ?

実は、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。



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歴史の表層だけを見れば、頼朝と政子は典型的な成功者夫婦であり、誰よりも幸せだったと思われるだろう。
だがその内幕は、そんな生易しいものではなかった。
 
寿永2年(1183)、長女の大姫が6歳の時、頼朝は勃興してきた木曽義仲と手を組み、平家を倒そうとする。
この時、義仲は嫡男で11歳になる義高を人質兼大姫の婿として鎌倉に送ってきた。
だが翌年、この関係も破綻し、義仲は頼朝の弟の義経らによって討伐された。
 
この一報を受けた義高は鎌倉から逃れようとするが、追捕を受けて討ち死にを遂げてしまう。
これによりショックを受けた大姫は心を病み、寝ては起きての生活の末、20歳で死去することになる。
その2年後には次女の乙姫も病死し、政子は二人の女子に先立たれてしまった。
 
しかもこの頃から、頼朝の表立った政治活動が見られなくなる。
実は鎌倉幕府の正史とも言える『吾妻鏡』は、頼朝の死に至る2年余が欠落し、この間、頼朝に何が起こったかを伝えるものは皆無なのだ。
 
この欠落期間、それまで朝廷権力の吸収に余念がなかった頼朝と鎌倉幕府は、なぜか無為無策を続け、朝廷勢力の挽回を許してしまう。
 
それが承久の乱につながっていくのだが、その理由は分かっていない。
しかも建久10年(1199)の頼朝の死去は落馬によるものとされ、少なくとも病床に伏していたわけではないことが分かってくる。
 
では、馬に乗れるほど健康であるにもかかわらず、頼朝はなぜ無為無策に陥ったのか。
鎌倉幕府の文士(吏僚)たちは、いったい何をしていたのか。
これこそは歴史の謎と言っていいだろう。
 
 
 
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
 


 
103-104ページ 『日本史の新常識』
編者: 文藝春秋
2018年11月20日 第1刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋




なるほどォ~。。。 「頼朝の死に至る2年余が欠落し、この間、頼朝に何が起こったかを伝えるものは皆無」ということは、何か異変が起こっていたということですわねぇ~。。。



でもねぇ~。。。 「頼朝の死去は落馬によるものとされ、少なくとも病床に伏していたわけではない」のですよ。。。 つまり、馬に乗れるぐらいには元気だったというわけです。。。

それにもかかわらず、死ぬまでの2年余りの間、鎌倉幕府の正史とも言える『吾妻鏡』には、何の記載もないということでござ~ますか?

そういうことですよ! 不思議と言えるでしょう! ミステリーですよ。。。

やっぱり、秘密が隠されているのでござ~ましょうか?

そうとしか考えられないでしょう!

。。。で、デンマンさんは、頼朝は馬から落ちたことが死因ではないと考えているのですか?

当然でしょう! 落馬が原因であれば、それまでの2年余りの間、鎌倉幕府の正史とも言える『吾妻鏡』に将軍の頼朝についての記述が一切無いというのは可笑しいでしょう!?

つまり、歴史に残るような、後世に知られてはまずいことが、この2年余りの間に何かが起こったということでござ~ますか?

その通りですよ! だから、仕方が無いので『吾妻鏡』には、何の記載もないのですよ!

でも。。。、でも。。。、歴史家に限らず、『吾妻鏡』を読む人がいれば、その事について奇妙に思うでしょう?

そうですよ。。。 だから上の本でも、著者が奇妙に思って書いているわけですよ。。。

。。。で、デンマンさんは頼朝の死因は何だと思うのでござ~ますかァ?

もちろん、僕には僕なりの死因についての考えがあります。。。 でも、ここで言う前に、これまでにも諸説があるのですよ。。。 それを書き出します。。。


頼朝の死因

 

各史料では、相模川橋供養の帰路に病を患ったことまでは一致しているが、その原因は定まっていない。
『吾妻鏡』は「落馬」、『猪隈関白記』は「飲水の病」、『承久記』は「水神に領せられ」、『保暦間記』は「源義経や安徳天皇らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記している。
これらを元に、頼朝の死因は現在でも多くの説が論じられており、確定するのはもはや不可能である。
死没の年月日については、それ以外の諸書が一致して伝えているため、疑問視する説は存在しない。

 

■落馬説

 


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建久9年(1198年)重臣の稲毛重成が亡き妻のために相模川に橋をかけ、その橋の落成供養に出席した帰りの道中に落馬したということが『吾妻鏡』に記された死因であり、最も良く知られた説である。
その死因が『吾妻鏡』に登場するのは、頼朝の死から13年も後のことであり、死去した当時の『吾妻鏡』には、橋供養から葬儀まで、頼朝の死に関する記載が全く無い。

これについては、源頼朝の最期が不名誉な内容であったため、徳川家康が「名将の恥になるようなことは載せるべきではない」として該当箇所を隠してしまったとする俗説があるが、『吾妻鏡』には徳川家以外に伝来する諸本もあり、事実ではない。
なお、死因と落馬の因果関係によって解釈は異なる。

落馬は結果であるなら脳卒中など脳血管障害が事故の前に起きており、落馬自体が原因なら頭部外傷性の脳内出血を引き起こしたと考えられる。
落馬から死去まで17日あることから、脳卒中後の誤嚥性・沈下性肺炎の可能性がある。

 

■尿崩症説

落馬で脳の中枢神経を損傷し、抗利尿ホルモンの分泌に異常を来たして尿崩症を起こしたという説。
この病気では尿の量が急増して水を大量に摂取する(=「飲水の病」)ようになり、血中のナトリウム濃度が低下するため、適切な治療法がない12世紀では死に至る可能性が高い。

 

■糖尿病説

『猪隈関白記』の「飲水の病」とは水を欲しがる病であり糖尿病を指すとする。
しかしそのような症状があったという記録はなく、可能性は低い。そもそも糖尿病は直接の死因となる病気ではなく、合併症が死因となる病気である。
仮に糖尿病による死だとしたら、当時の人間がそれが死因と認識して「飲水の病」と記録に残すとは考えにくい(藤原道長も「飲水の病」から糖尿病説があるが、これが原因で死去したとの記録は無い。また晩年視力が低下したとの記録があることから、これが糖尿病の合併症ではないかと推測されている)。

 

■亡霊説

『保暦間記』に記されている。
当時は亡霊や祟りが深く信じられている時代であり、信心深い頼朝には義経や安徳天皇の亡霊が見えたのであろうと言う。
医学でいう意識障害のような失調症があったと捉えることもできる。

ただし「亡霊を見た」という記述をそのまま鵜呑みにするだけでは学説とは言えず、現代医学でいう所での疾患名が特定されないことには意味は無い。
原因と結果は逆であり、何らかの病気で意識が混濁した頼朝が亡霊を見た可能性も否定できない。

 

■溺死説

史料は「飲水の病」「相模川橋供養」「水神の祟り」「海上に現れた安徳天皇」など水を連想させる語が多く、溺れたことが死に繋がったのではと見る。
また相模川河口付近は馬入川とも呼ばれており、頼朝の跨った馬が突然暴れて川に入り、落馬に至ったことに由来するとも伝わる。
溺死説の場合、「飲水の病」は川に落ち溺れ、水を飲み過ぎたことを意味すると見る。

 

■暗殺説

 


(yoritomo2.jpg)

 

頼朝は子の源頼家や実朝と同じく何者かに暗殺されており、その事実を隠すべく『吾妻鏡』への記載を避けたとする。
或いは北条氏に水銀を飲まされて死んだとも言う。
だがいずれも特に根拠はない。

 

■誤認殺傷説

愛人の所に夜這いに行く途中、不審者と間違われ斬り殺されたとする。
ただし証拠以前に、斬り殺した人間、遭いに行く予定の愛人が誰か特定できないことには、学説として成り立たない。




出典: 「源頼朝」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




あらっ。。。 やっぱり、『吾妻鏡』を読んで奇妙に思った人がたくさん居たと見えて、いろいろな説があるのでござ~ますわねぇ~。。。



そういうことです。。。

。。。で、デンマンさんは上の説のどれが事実だったと思うのでござ~ますか?

それに答えるには、まず『吾妻鏡』とは、いったい誰が書いたのか? それを調べるのが先決です!


吾妻鏡

 


(azuma01.gif)

 

『吾妻鏡』または『東鑑』は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。
鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。

成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。
後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。

編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。

 

北条得宗家

得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。
徳崇、徳宗とも(読みは同じ)。

幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。

「得宗」とは2代義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。
近年では「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている。

義時流、得宗家という呼び方もある。
史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。




出典: 「源頼朝」 & 「得宗」
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つまり、北条得宗家の者が書いたのですわねぇ~。。。



そういうことですよ。

。。。と言う事は、北条氏にとって都合が悪いことが起こったわけですか?

その通りです。。。

。。。つうことわあああァ~。。。 頼朝に愛人ができて、その愛人の夫が北条得宗家の者だったのでござ~ますわねぇ~。。。 それで、その愛人の夫が復讐のために、頼朝を暗殺したのですわねぇ~。。。 そうでしょう?

卑弥子さんは、なかなか察しがいいですねぇ~。。。 実は、その愛人の名が 北条卑弥子 なのですよ。。。

 


(himiko92c.jpg)

 



マジでござ~ますかあああァ~? あたくしの北条系統の祖先なのですかあああァ~? つまり、■誤認殺傷説 ですかあああァ~?



いや、それは 真っ赤な嘘 です! この時、愛人は確定できなかったし、妻を寝取られた殺人犯も居なかった!

こういう真面目なお話のときに 真っ赤な嘘 をつかないでくださいなァ~!。。。 それでは。。。、それでは。。。、頼朝の死因は何でござ~ますかァ~?

■暗殺説 ですよ!

。。。で、その犯人は。。。?

北条時政の命令を受けた北条得宗家の者ですよ。。。 だからこそ、『吾妻鏡』には真相が書けずに、落馬が原因であるかのように書き入れたのですよ。。。

でも。。。、でも。。。、その証拠でのあるのでござ~ますか?

実際に手を下した殺人犯の名前までは分かっていないけれど、■暗殺説 を裏付けるような証拠があるのです。。。

マジで。。。?

ここで僕が、書き出すと長くなるので、次のクリップを見てください。。。

 


(yoritomo3.jpg)


(yoritomo4.jpg)


(yoritomo5.jpg)



 



信じられませんわ!



じゃあ、もう一度じっくりと上のクリップを見てください。。。



(foolw.gif)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif) 

ですってぇ~。。。 

あなたは、上の暗殺説を信じることができますかァ~?

ええっ。。。 「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのように あたくしにご命令なさるのでござ~ますか?

いけすかないお方ァ~。。。

分かりましたわ。

では、話題を変えて 天の川の不思議に迫るクリップを お目にかけますわ。。。

 


(milkyway2.jpg)



 

どうでした?

ええっ。。。 「夜眠れなくなるから、そういう動画は見せるな! 気分直しに何か他に もっと面白いことを話せ!」

あなたは、あたくしに向かって、更にご命令なさるのでござ~ますか?

いけすかないお方ァ~。。。!

分かりましたわァ。。。 あなたが、そうおっしゃるのだったら、まずジューンさんの次の写真をご覧になってくださいまし。。。

 


(senya020b.jpg)

 

千夜一夜物語の衣装を着たジューンさんに魅せられて、女性に成りすます男性が たくさん居るのでござ~ますわァ!

ええっ。。。 信じられないのですかァ?

じゃあ、ちょっと次のYouTubeのクリップを見てくださいまし。。。

 


(xdress02.jpg)



 

いかがでござ~ますかァ~?

男性が女装していると思いますかァ?

あたくしは、素直に信じることができませんわァ~。。。

どうですかァ~? けっこうなものでしょう!?

いつまでも見とれていても仕方がありませんわよゥ。

あなたのために古代史の面白い記事を用意しました。

ぜひ お読みください。

では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。

だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。

じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)


 

ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


『センスあるランジェリー』



(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




(maria05.jpg)

『ブログ村のマリア様』

『萌える済子女王』

『ピンク桃色@徒然』

『富沢金山の桜』

『ピンク桃色村』

『紫式部@徒然』

『絵里香@ペルー』

『ペルシャ人の楊貴妃』

『ん?佐伯今毛人』

『文学と歴史とウソ』

『百人一首ミステリー』

『芭蕉と遊女再び』

『映画とロマン@仙台』

『源氏物语中的性描写』

『忘れられた歴史ロマン』


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『おばさんパンツ@サンホセ』

『聖徳太子のチューター』

『オナラの曲芸』

『死海』

『漱石とオナラ』

『絵里香さん』

『美女とオナラ』

『アンバパーリー』

『ゆっくりと愛し合う』

『見ちゃだめ!』

『二重マチ付きズロース』


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『麻生元総理』

『ネットのバカ女を捜して』

『額田王の歌』

『聖女と娼婦』

『済子女王@萌える』

『ん?堀内亜里?』

『松平春嶽が黒幕?』

『旅行者的早餐』

『なぜ蝦夷なの?』

『プリキュアとヒトラー』

『戦争絶対反対よね』

『怨霊の歴史』

『色欲@歴史』

『紫式部と敗戦』

『ラピスラズリと源氏物語』


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『性と愛@古代史』

『仙台を離れて』

『美人とブス@大奥』

『絵の中のウソ』

『阿倍仲麻呂@ベトナム』

『バイクガール』

『六条御息所』

『卑弥子さんの大学』

『元寇と捕虜』

『マキアベリにビックリ』

『痴漢が心配』

『びた一文』

『卑弥子@ブカレスト』

『エロい源氏を探して』

『ラピスラズリの舟形杯』

『平成の紫式部』

『隠元豆と国性爺合戦』

『おばさんと呼ばれて』


(zurose2.jpg)

『女帝の平和』

『アタマにくる一言』

『悪女レオタード@昌原市』

『スウィートビーン』

『ガチで浦島太郎やし』

『ご苦労さま』

『デンマンのはなし』

『卑弥呼の墓』

『室生犀星と人間学』

『松平春嶽ダントツ』

『英語は3語で伝わる』

『くだらない物』

『漢字で体操』

『面白い漢字テスト』


(hama10.jpg)

『放屁女に罰金』

『アヤメとカキツバタ』

『日本の閨房術』

『大団円』

『ペルシャ人@Anzio』

『紀元前のメイフラワー号』

『あたまにくる一言』

『更級日記の作者も見た』

『平安のスバル』

『行田市長選挙@黒い霧』

『日本のエロい文化』

『女のオナラ』

『紫式部と宮本武蔵』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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更級日記の作者も見た (PART 1)

2019-03-30 10:59:38 | 日本史
 

更級日記の作者も見た (PART 1)

 


(nstar01.jpg)


(oldcoup6.jpg)


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(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 更級日記の作者も見た と書いてありますけれど、何を見たのでござ~♪~ますかァ~?


(kato3.gif)

だから、この記事のタイトルの すぐ下に写真が出ているでしょう!

これは何かの爆発ですわねぇ~。。。

そうですよ。。。 宇宙の星の爆発です。。。

最近のことでござ~ますか?

天文学的には、ごく最近ですけれど、日本史では11世紀の出来事ですよ。。。

その爆発を更級日記の作者も見たのでござ~ますかァ~?

まず間違いなく見たはずです。。。

でも。。。、でも。。。、どうして急に11世紀の出来事を持ち出したのでござ~ますかァ~?

あのねぇ~、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。



(orion2.jpg)

    オリオン星雲

 

強烈な光で電離されている電離ガス雲の代表格はオリオン星雲で (略) 

ここでは、衝突で電離された電離ガス雲の代表例として、超新星残骸“かに星雲”を紹介しておこう。

 


(kani2.jpg)

    かに星雲

 

おうし座の方向に見えるこの星雲は、ある意味由緒正しい。
藤原定家が著した『明月記』に記された超新星の今の姿なのだ。

爆発は明月記によれば1054年のことだった。
強烈な爆風でガスは分離して、美しく輝いている。

先ほど、電離の説明では簡単のために水素原子を例にとった。
しかし、電離されるのは水素原子だけではない。

炭素も、窒素も、酸素も、さまざまな原子が電離される。
それらはさまざまな波長で輝く。
そのため、かに星雲は色鮮やかな姿をしている。

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




42ページ 『天の川が消える日』
著者: 谷口義明
2018年6月25日 第1刷発行
発行所: 株式会社 日本評論社




爆発は明月記によれば1054年のことだったと書いてござ~ますけれど、更級日記の作者はこの時生存していたのですか?



もちろんですよ。。。 次の小文を読んでみてください。


菅原孝標女

 


(sarashina2.jpg)

寛弘5年(1008年)-康平2年(1059年)以降?

 

菅原孝標女(すがわら の たかすえ の むすめ)は、平安時代の貴族の女性。
本名は伝わっていない。

10歳頃から50歳頃までの人生を回想した『更級日記』の作者。
更級日記御物本奥書から、『浜松中納言物語』『夜半の寝覚』の作者ではないかとも言われる。

 

略歴

父は菅原道真の玄孫で上総国・常陸国の受領を務めた菅原孝標。
母は藤原倫寧の娘。
母の異母姉(伯母)は『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母。
兄・定義、甥・在良は学者である。

彼女は寛弘5年(1008年)に出生。
寛仁4年(1020年)、上総国における父の上総介としての任期が終了したので一家で帰国(上京)し、3ヶ月ほどの旅程を経てようやく京へと入った。

帰国するころ彼女は13歳で、更級日記は上総国に居る頃から始まっている。
当時、物語に対する熱が冷めず、翌年に上京した伯母から『源氏物語』五十余巻などを貰い、昼夜を問わず読み耽った。

夢に僧が出てきて(女人成仏が説かれている)「法華経・第五巻を早く習え」と言うが、心にも掛けず物語を読みふけったことを、後年更級日記の中で、「まづ いとはかなく あさまし」と批評している。
万寿元年(1024年)には姉が二女を残して亡くなり、なお物語に耽読した。
しかし、この頃から「信心せよ」との啓示を夢に見るようになる。

祐子内親王に仕え、長久元年(1040年)頃、橘俊通と結婚。
寛徳2年(1045年)に一男(仲俊)と二女をもうけたが、俊通は康平元年(1058年)に死去し、子供達も独立して彼女は孤独になった。
このあたりで更級日記は終わっている。




出典: 「菅原孝標女」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




なるほどォ~。。。 つまり、宇宙での爆発が起きたのが1054年。。。 その時、更級日記の作者は存命だったのですわねぇ~。。。 でも、日記には爆発のことは書かれてないのでしょう?



あのねぇ~、旦那が亡くなったのが1058年ですよ。。。 つまり、1054年頃から旦那の健康状態が悪かったに違いない。。。 だから、日記に爆発のことを書く気持ちの余裕がない。。。 しかも、その当時、そのような天体の異常は不吉なことだと考えられていた。。。 作者はいやな予感を持ったに違いない。。。

つまり、旦那が亡くなった時には、その予感が当たってしまったと思ったのですわねぇ~。。。

おそらく、そういうことでしょう。。。 だから、日記には書きたくない。。。 旦那が病床に伏す頃から、作者の心もふさいできて、やがて孤独になって、日記を書かなくなってしまった。

それで、更級日記には爆発の記載がないのですか?

たぶん、そういうことだと思うのですよ。。。

でも、実際に、その爆発は、当時の人が誰もが見たのですか?

もちろんですよ。。。 そういう不吉なことには、誰もが関心を持っていた! しかも、作者は、殊の外(ことのほか) 好奇心が旺盛だった。 だから、日記も書いていたのですよ。。。 ちょっと次の小文も読んでみてください。。。


明月記

 


(meimoon2.jpg)

 

『明月記』(めいげつき)は、鎌倉時代の公家である藤原定家の日記。
治承4年(1180年)から嘉禎元年(1235年)までの56年間にわたる克明な記録である。
別名:『照光記』、『定家卿記』。

後世、歌道・書道において重んじられた藤原定家の日記である。
『明月記』の名は後世の名称で定家が命名したものではなく、当人自身は「愚記」と読んでいた。
没後、定家の末裔内では「中納言入道殿日記」の称を用いたが、一般的には「定家卿記」の名称が用いられていたようである。

南北朝の頃から『明月記』の名称が用いられるようになったとされる。

 

天文学の記録として

日記には、定家自身が遭遇したものや過去の観測記録など、さまざまな天体現象についての記録も残されている。
当時、見慣れぬ天体現象(天変)は不吉の前兆であると考えられており、人々の関心事だったのである。
『明月記』の天文記録としては、かに星雲を生んだ超新星爆発(SN 1054)の記述があることが著名であるが、これは定家の出生以前の出来事であり、陰陽師が報告した過去の記録が日記に残されたものである。

近代日本の天文学者たちは、1930年代に天文古記録を体系的に調査した。
東京天文台の神田茂は、1931年より全国の文献調査に着手し、その成果は1934年から1935年にかけて『日本天文史料綜覧』と『日本天文史料』として出版された。
これと同時期に、神田とも親交のあったアマチュア天文家の射場保昭は、日本の天文古記録を英文で海外に紹介し、『明月記』も海外にも知られるようになった。

 

客星

「客星」とは「ふだん見慣れない星」を意味するもので、超新星や新星、彗星などが含まれる。

『明月記』において「客星」が最初に登場する記事は、寛喜二年十一月一日条(1230年12月6日。以下本節において、漢字による日付はいわゆる旧暦(宣明暦)による記載、算用数字による日付はユリウス暦による記載)である。
この時の「客星」の正体は彗星で、同四日条には定家による「この星朧々として光薄し。その勢い小にあらず」という観察が記されており、このほか日記中には不安を覚えた当時の人々の反応も記載されている。

この「客星」に触発された定家は、十一月二日に家に出入りしていた陰陽師の安倍泰俊(陰陽寮漏刻博士)に、過去の客星の出現例を問い合わせた。
過去の客星出現の際にどのような凶事が起きたのかを知ろうとしたのである。
八日に、泰俊は記録されていた過去の客星出現の記録8例のリストを報告書として定家に提出しており、定家は同日の日記の末尾に、この報告書を挟み込んだ。

この8例のうち、以下の3例が超新星の記録である。

 


(newstars.png)

 

SN 1054 は、以下のように記録されている。

 


【原文】

後冷泉院 天喜二年 四月中旬以降 丑時 客星觜参度 見東方 孛天関星 大如歳星

【原文読み下し】

後冷泉院・天喜二年四月中旬以後の丑の時、客星觜・参の度に出づ。東方に見(あら)わる。天関星に孛(はい)す。大きさ歳星の如し。


午前2時頃に、觜・参の星宿(おおむね現在のオリオン座にあたる)と同じ赤経にあたる、天関星(おうし座ζ星)付近に出現したとするもので、木星のように輝いていたというものである。

ただし、時期については曖昧であり、旧暦四月中旬(1054年5月20-29日)ではおうし座が太陽方向にあたって超新星が観測できないため、「五月中旬」(1054年6月19-28日)の誤りであろうと考えられる。

『明月記』の記録を含む日本の「客星」記録は、1934年に『ポピュラー・アストロノミー』に掲載された。
1942年、ニコラス・メイオール(英語版)やヤン・オールトらは、『明月記』の記録などをもととして、1054年の「客星」が超新星であり、かに星雲がその残骸であることを明らかにする論文を発表した。




出典: 「明月記」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




なるほどォ~。。。 更級日記の作者は日記には書かなかったけれども、不吉な予感に気がめいっていたのですわねぇ~。。。



そうですよう。。。 その爆発も、たぶん、作者が日記を書かなくなった一因だと僕は思うのですよ。。。

そうかしら。。。?

卑弥子さんは、僕の言う事が信じられないのですか?

もちろん信じますわよう。。。 “信じる者は救われる!” と 昔の人も言いましたから。。。



(foolw.gif)

 (すぐ下のページへ続く)








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更級日記の作者も見た (PART 2)

2019-03-30 10:58:35 | 日本史




 

更級日記の作者も見た (PART 2)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif) 

ですってぇ~。。。 あなたはも、デンマンさんのおっしゃったことが信じられますか?

ええっ。。。 「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのように あたくしにご命令なさるのでござ~ますか?

いけすかないお方ァ~。。。

分かりましたわ。

では、天の川の不思議に迫るクリップを お目にかけますわ。。。

 


(milkyway2.jpg)



 

どうでした?

ええっ。。。 「夜眠れなくなるから、そういう動画は見せるな! 気分直しに何か他に もっと面白いことを話せ!」

あなたは、あたくしに向かって、更にご命令なさるのでござ~ますか?

いけすかないお方ァ~。。。!

分かりましたわァ。。。 あなたが、そうおっしゃるのだったら、まずジューンさんの次の写真をご覧になってくださいまし。。。

 


(senya020b.jpg)

 

千夜一夜物語の衣装を着たジューンさんに魅せられて、女性に成りすます男性が たくさん居るのでござ~ますわァ!

ええっ。。。 信じられないのですかァ?

じゃあ、ちょっと次のYouTubeのクリップを見てくださいまし。。。

 


(xdress02.jpg)



 

いかがでござ~ますかァ~?

男性が女装していると思いますかァ?

あたくしは、素直に信じることができませんわァ~。。。

どうですかァ~? けっこうなものでしょう!?

いつまでも見とれていても仕方がありませんわよゥ。

あなたのために古代史の面白い記事を用意しました。

ぜひ お読みください。

では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。

だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。

じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)


 

ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


『センスあるランジェリー』



(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




(hama10.jpg)

『宝暦の恨みを明治維新で』

『デウキと紅葉@行田』

『薄い陰毛と紅のボートピープル』

『江戸の閨房術』

『ずるがしこい現代人』

『春画@源氏物語』

『千早振る』

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『伎楽は呉から…?』

『紺瑠璃杯に魅せられて』

『神聖娼婦 マリア』

『安徳帝は生きていた』

『白石川の桜』


(maria05.jpg)

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『萌える済子女王』

『ピンク桃色@徒然』

『富沢金山の桜』

『ピンク桃色村』

『紫式部@徒然』

『絵里香@ペルー』

『ペルシャ人の楊貴妃』

『ん?佐伯今毛人』

『文学と歴史とウソ』

『百人一首ミステリー』

『芭蕉と遊女再び』

『映画とロマン@仙台』

『源氏物语中的性描写』

『忘れられた歴史ロマン』


(costa04b.jpg)

『おばさんパンツ@サンホセ』

『聖徳太子のチューター』

『オナラの曲芸』

『死海』

『漱石とオナラ』

『絵里香さん』

『美女とオナラ』

『アンバパーリー』

『ゆっくりと愛し合う』

『見ちゃだめ!』

『二重マチ付きズロース』


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『麻生元総理』

『ネットのバカ女を捜して』

『額田王の歌』

『聖女と娼婦』

『済子女王@萌える』

『ん?堀内亜里?』

『松平春嶽が黒幕?』

『旅行者的早餐』

『なぜ蝦夷なの?』

『プリキュアとヒトラー』

『戦争絶対反対よね』

『怨霊の歴史』

『色欲@歴史』

『紫式部と敗戦』

『ラピスラズリと源氏物語』


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『性と愛@古代史』

『仙台を離れて』

『美人とブス@大奥』

『絵の中のウソ』

『阿倍仲麻呂@ベトナム』

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『六条御息所』

『卑弥子さんの大学』

『元寇と捕虜』

『マキアベリにビックリ』

『痴漢が心配』

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『卑弥子@ブカレスト』

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『ラピスラズリの舟形杯』

『平成の紫式部』

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『おばさんと呼ばれて』


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『女帝の平和』

『アタマにくる一言』

『悪女レオタード@昌原市』

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『ガチで浦島太郎やし』

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『デンマンのはなし』

『卑弥呼の墓』

『室生犀星と人間学』

『松平春嶽ダントツ』

『英語は3語で伝わる』

『くだらない物』

『漢字で体操』

『面白い漢字テスト』

『放屁女に罰金』

『アヤメとカキツバタ』

『日本の閨房術』

『大団円』

『ペルシャ人@Anzio』

『紀元前のメイフラワー号』

『あたまにくる一言』



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卑弥呼の墓(PART 1)

2018-12-03 11:04:12 | 日本史
 

卑弥呼の墓(PART 1)

 


(himiko130.jpg)


(himiko131.jpg)


(himiko92.jpg)

 




(himiko22b.gif)

あらっ。。。 今日は あたくしの遠い祖先のお話なのでござ~ますわねぇ~。。。


(kato3.gif)

あれっ。。。 あの有名な卑弥呼は卑弥子さんの遠い祖先なのですかァ~?

あたくしは日本人ですものォ~。。。 卑弥呼さんの血の1敵や2滴ぐらいは あたくしの血の中にも受け継がれていると思うのでござ~ますわァ~。。。 それにあたくしの名前も一字違いですもの。。。 おほほほほほほ。。。。

つまり、何の証拠もないのですねぇ~?

だから、あたくしの名前がその証拠ですわよゥ!

そんなの証拠にはなりませんよ!

卑弥呼が あたくしの遠い祖先であることを信じないのであれば、デンマンさんは なぜ卑弥呼の墓を持ち出してきたのでござ~ますか?

実は、11月28日にバンクーバー市立図書館でDVDを借りて次の映画を見たのですよ。。。

 


(lib81130a.png)


『拡大する』

『実際のページ』



(raider02.jpg)






デンマンのコメント

Nov 28, 2018

 

Directed by Roar Uthaug in 2018 based on the 2013 video game of the same name, this American and British film depicts the adventure of Lara Croft.

Lara finds a pre-recorded video message from her father detailing his research into Himiko (卑弥呼), the mythical Queen of Yamatai (邪馬台) who was said to command the power over life and death.

She embarks on a perilous journey to her father's last-known destination---the island of Yamatai.

Although I enjoyed this action-adventure flick, the island of Yamatai is ridiculously misplaced.

Himiko (卑弥呼) is a historical figure who lived during the period (c. 170–248 CE) as a shamaness-queen of Yamataikoku (邪馬台国)---part of ancient Japan.

However, the whole story is fake fiction since her tomb has NOT been found yet.




2018年にローアル・ユートハウグ監督によって制作された英米合作のこの映画は2013年に発売された同名のビデオゲームに基づいている。
ララ・クロフトを主人公とした冒険物語である。

ララは父親が残したビデオを発見する。
そのビデオには 生と死を自由に操ることができる魔力を持つとされる邪馬台国の女王、卑弥呼に関する研究が記録されていた。

父親が最後にたどり着いたという邪馬台島に向かってララは危険な旅に出発する。

僕はこの冒険映画を楽しんだのだけれど、邪馬台島というのは歴史的には全く根拠のない場所に位置している。

卑弥呼は歴史上の人物で紀元170頃に生まれ248年に亡くなったとされる。
彼女は古代日本の一部、邪馬台国のシャーマンであり女王であった。

でも、この冒険物語は、歴史とは無関係な全くのフィクションである。


 



要するに、映画は面白かったけれど、歴史とは関係ない馬鹿バカしい話だと言いたいのですわねぇ~?



そうです。。。 いけませんか?

それはデンマンさんの極めて個人的な意見でしょう!?

もちろん、そうです。。。

でも、この「トゥームレイダー」冒険映画はシリーズとしてたくさん作られ、人気のある映画なのですわァ。 たくさんのファンがいると聞いたことがありますわァ~。。。

そうらしいですよ。。。 卑弥子さんも観たのですか?

いえ。。。 あたくしはまだ観た事がござ~ませんわァ~。。。

だったら、上の映画とは違うけれど、日本語の字幕が出てくる、内容はほぼ同じ映画があります。。。 2時間半の大作だけれど、じっくり観てください。。。

 


(raider01.jpg)



トゥームレイダー: 邪馬台国編

 



あとでゆっくりと観させていただきますわァ~。。。



あのねぇ~、僕はけっこう歴史には関心があるのですよ。。。 卑弥呼が歴史上の人物だから、多少は歴史的なことが出てくるのかな? そう思った。。。 ところが、映画の中で 卑弥呼の墓 がなんと紀伊半島の沖の無人島に設定されていたのですよ。。。

それで馬鹿バカしくなって途中で映画を観るのを止めてしまったのでござ~ますかァ?

いや。。。 歴史的には馬鹿バカしいと思ったけれど、映画自体は面白かったので最後まで観ました。

だったら、なにも こうしてダラダラと映画の話をしなくてもいいではありませんか!

でもねぇ~、卑弥呼の墓 が紀伊半島の沖の無人島にあるなんてぇ、どう考えても馬鹿バカしいじゃありませんか! だから、僕は本当の卑弥呼の墓について書こうと思ったわけです。。。

それならば、すでに決まっているのですわァ~。

あれっ。。。 卑弥子さんは卑弥呼の墓がどこにあるか知っているのですか?

知ってますわよう。。。 テレビでやってましたわ。。。

 


(himiko131.jpg)




箸墓古墳

 

箸墓古墳は、奈良県桜井市箸中にある古墳。形状は前方後円墳。

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている。
また周濠が国の史跡に指定されているほか、周濠の一部は「箸中大池」としてため池百選の1つに選定されている。

 

被葬者

宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されているが、この古墳を卑弥呼の墓とする研究者もいる。

その根拠としては、

●この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致することとしている。定説では、魏・晋時代の一尺は24.3cm[10]、一里は1800尺=300歩であり、魏・晋時代の1里は約435メートル、1歩はほぼ145センチメートルとなり100余歩は約145メートル強となる(日本では、これを長里と呼ぶ説がある)。一方日本では、一里約76m(これを短里と呼ぶ)とする説も唱えられており[要出典]、魏志倭人伝で距離表示に短里が用いられているとすれば直径は約30mとなる。

●後円部にある段構造が前方部で消失することから、当初は円墳であり前方部が後世に付け加えられた可能性があること。この点は調査により当初から前方後円墳であったことがわかり否定されている。

●大規模な古墳の中では、全国でももっとも早い時期に築造されたものであること。しかしC14炭素年代測定法では土器の年代が100年度程度古く推定されることがわかっており、古墳の築造年代は3世紀後半以降と推定されるにいたっている。

このような議論があり、意見の一致を見ていない。

白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい。」と述べるのに対し、石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓、また、箸墓を寿陵と考える寺沢薫は壹与の墓説やミマキイリヒコ(崇神)などの男王の墓説も浮上してこようと評価している。

奈良県立橿原考古学研究所自体は築造時期を280~300年(±10~20年)と推定しており、卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。
またC14炭素年代測定法による推定は100年程度古く出ることがわかっており、この墓が卑弥呼の墓である可能性は低くなっている。
いずれにせよ、現在ではようやく発掘許可がなされたため実質的調査はまだ始まったばかりである。




出典: 「箸墓古墳」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



確かに、卑弥呼の墓は箸墓古墳だという人は多いけれど、まだ疑問の点が多くて意見の一致を見ていないのですよ。。。



デンマンさんは卑弥呼の墓がどこにあると考えているのでござ~ますか?

やはり、九州ですねぇ~

 


(himiko132.gif) 



 



でも、まだ九州の古墳が卑弥呼の墓だと確定したわけではないのですよねぇ~。。。



確定したわけではありません。。。 でもねぇ~、とにかく、卑弥呼の墓が紀伊半島の沖の無人島にないことだけは確かですよ。。。



(laugh16.gif)

 (すぐ下のページへ続く)







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卑弥呼の墓(PART 2)

2018-12-03 11:03:15 | 日本史




 

卑弥呼の墓(PART 2)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif) 

ですってぇ~。。。

あなたは、どう思いますか?

ええっ。。。 「古墳の話はもういいから、何か他に面白いことを話せ!」

あなたは、あたくしに向かって、そのようにご命令なさるのでござ~ますか?

分かりましたわ。。。 あなたが、そうおっしゃるのだったら、まずジューンさんの次の写真をご覧になってくださいまし。。。

 


(senya020b.jpg)

 

千夜一夜物語の衣装を着たジューンさんに魅せられて、女性に成りすます男性が たくさん居るのでござ~ますわァ!

ええっ。。。 信じられないのですかァ?

じゃあ、ちょっと次のYouTubeのクリップを見てくださいまし。。。


(xdress02.jpg)



いかがでござ~ますかァ~?

男性が女装していると思いますかァ?

あたくしは、素直に信じることができませんわァ~。。。

どうですかァ~? けっこうなものでしょう!?

いつまでも見とれていても仕方がありませんわよゥ。

あなたのために古代史の面白い記事を用意しました。

ぜひ お読みください。

では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。

だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。

じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)


 

ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


『センスあるランジェリー』



(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




(annasalleh.jpg)

『オルフェと聖徳太子』

『源氏物語とおばさんパンツ』

『霊仙はなぜ毒殺されたの?』

『紫式部が地獄へ』

『破戒僧円載』

『アショーカ王の愛と苦悩』

『どら平太の世界』

『三四郎とデンマンさん』

『ヒトラーの姪』

『ゴヤと三島由紀夫』

『仏陀とキリストと娼婦』


(zurose2.jpg)

『ズロースと戦争』

『伊藤若冲ブーム?』

『ブッダと物理学』

『加藤清正ブーム?』

『愛憎と三輪山』

『松原智恵子 お尻ペンペン』

『坂本龍馬は流れ者か?』

『野ざらし』

『紫式部堕獄説』

『日本最古のポルノ?』

『源氏物語の性描写』

『寅さんの本棚と急行まつしま』

『ヒトラーは草食系?』

『ブッダとキリストと娼婦』

『顔文字とオナラ』


(hama10.jpg)

『宝暦の恨みを明治維新で』

『デウキと紅葉@行田』

『薄い陰毛と紅のボートピープル』

『江戸の閨房術』

『ずるがしこい現代人』

『春画@源氏物語』

『千早振る』

『あれっ、松本清張』

『キスと源信』

『伎楽は呉から…?』

『紺瑠璃杯に魅せられて』

『神聖娼婦 マリア』

『安徳帝は生きていた』

『白石川の桜』


(maria05.jpg)

『ブログ村のマリア様』

『萌える済子女王』

『ピンク桃色@徒然』

『富沢金山の桜』

『ピンク桃色村』

『紫式部@徒然』

『絵里香@ペルー』

『ペルシャ人の楊貴妃』

『ん?佐伯今毛人』

『文学と歴史とウソ』

『百人一首ミステリー』

『芭蕉と遊女再び』

『映画とロマン@仙台』

『源氏物语中的性描写』

『忘れられた歴史ロマン』


(costa04b.jpg)

『おばさんパンツ@サンホセ』

『聖徳太子のチューター』

『オナラの曲芸』

『死海』

『漱石とオナラ』

『絵里香さん』

『美女とオナラ』

『アンバパーリー』

『ゆっくりと愛し合う』

『見ちゃだめ!』

『二重マチ付きズロース』


(miya08.jpg)

『麻生元総理』

『ネットのバカ女を捜して』

『額田王の歌』

『聖女と娼婦』

『済子女王@萌える』

『ん?堀内亜里?』

『松平春嶽が黒幕?』

『旅行者的早餐』

『なぜ蝦夷なの?』

『プリキュアとヒトラー』

『戦争絶対反対よね』

『怨霊の歴史』

『色欲@歴史』

『紫式部と敗戦』

『ラピスラズリと源氏物語』

『性と愛@古代史』

『仙台を離れて』

『美人とブス@大奥』

『絵の中のウソ』

『阿倍仲麻呂@ベトナム』

『バイクガール』

『六条御息所』

『卑弥子さんの大学』

『元寇と捕虜』

『マキアベリにビックリ』

『痴漢が心配』

『びた一文』

『卑弥子@ブカレスト』

『エロい源氏を探して』

『ラピスラズリの舟形杯』

『平成の紫式部』

『隠元豆と国性爺合戦』

『おばさんと呼ばれて』

『女帝の平和』

『アタマにくる一言』

『悪女レオタード@昌原市』

『スウィートビーン』

『ガチで浦島太郎やし』

『ご苦労さま』

『デンマンのはなし』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


(byebye.gif)
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酒巻ミステリー(PART 1)

2018-05-13 12:19:17 | 日本史
 

酒巻ミステリー(PART 1)

 


(sakamaki5.jpg)


(sakamaki3.png)

『拡大する』




(salon22.jpg)




(sayuri55.gif)

デンマンさん、酒巻ミステリーってぇ、どういうミステリーなのですかァ~?


(kato3.gif)

酒巻というのは地名なのですよ。。。 小百合さんは聞いたことがありますか?

記憶のどこかで 馴染(なじ)みがあるような気もするのですけれど、はっきりと思い出せませんわァ~。。。

そのうち思い出しますよ。。。 まず、次のページを見てください。。。


(wp30924e)


『拡大する』

『実際のページ』




これは Denman Blog の2013年9月24日に投稿した『軽井沢タリアセン夫人のお願い』という記事です。。。 右のサイドバーの人気リンクの③番に注目して欲しい。



左側に表示してある地図が ③番のリンクをクリックすると表示されるのですか?

そうなのですよ。。。 サイドバーのリストは後ろ半分が脱落しているので、左側に、その全体を表示したのです。。。

つまり、上の地図の青色の丸で囲んだ酒巻に注目したネット市民がいたのですか?

そういうことです。。。

。。。で、このリンクは、どの記事の中に出てくるのですか?

調べたら、次の記事に中に出てくるのですよ。。。


(wp60119e)


『拡大する』

『実際のページ』




あらっ。。。 『大名行列@行田』というタイトルの記事ですわねぇ~。。。



そういうことです。。。 この記事の中ほどに、酒巻の地図が出てくるのですよ。。。

赤枠で囲んだ地図ですか?

そうです。。。 この『拡大する』 をクリックしたネット市民がいたわけですよ。。。

なぜ酒巻に興味を示したのですか?

このネット市民は「古墳オタク」なのです。。。

なぜ、「古墳オタク」だと、デンマンさんには判るのですか?

ちょっと次の説明を読んでみてください。


酒巻古墳群


(sakamaki2.jpg)

 

酒巻古墳群(さかまきこふんぐん)は、埼玉県行田市に存在する古墳群である。

現在はすべて消失し、田畑となっている。

 

概要

前方後円墳3基、円墳20基の、合計23基。
この他に存在すると言われている未確認のものが1基ある。
5世紀末から7世紀初頭の築造とされている。

ほぼすべての古墳が水田面下に埋没した状態で散在している。
地元の人は「飛び島地」と呼び、墳頂部をならして畑として利用していた。

酒巻古墳群の存在する行田市酒巻地区は、加須低地に位置している。
この加須低地は関東造盆地運動により、利根川からの河川堆積物を受けて徐々に沈降しているため、古墳群の墳丘自体も沈降している。

1964年(昭和39年)に斎条古墳群の発掘調査を行う時点で、斎条5号墳が地表から1-1.5メートルの深さまで埋没していたことから、酒巻古墳群も同じように沈降してしまったと考えられる。

1983年(昭和58年)、さすなべ排水路の改修工事と県営かんがい排水整備事業が行田市酒巻地区にて実施されることになり、それにより工事より先に発掘調査の方を実施する運びとなった。
1983年(昭和58年)から1988年(昭和63年)までの調査により、23基の古墳の概形、埋葬状況などが調査された。

 

古墳

酒巻1号墳 - 前方後円墳 全長46メートル、前方部幅28メートル。6世紀後半の築造。1号墳のみが畑として現存していた。後円部に胴張り式の石室が2つある。石室から7世紀中頃の須恵器が出土。

酒巻2号墳 - 円墳 横穴式石室がある。

酒巻3号墳 - 円墳 胴張り式の石室がある。

酒巻4号墳 - 円墳

酒巻5号墳 - 円墳 胴張り式の石室で7世紀の築造。1961年に調査が行われた際には「野畑古墳(のばたこふん)」と命名された(その後に改称)。

酒巻6号墳 - 前方後円墳 横穴式石室で6世紀後半の築造。

酒巻7号墳 - 円墳

酒巻8号墳 - 前方後円墳 全長27メートル。6世紀後半の築造。

酒巻9号墳 - 円墳

酒巻10号墳 - 円墳 径9メートル。幅2.5メートルの周壕がある。埋葬施設が竪穴式石室と木棺直葬の2つ確認されている。6世紀前半の築造。

酒巻11号墳 - 円墳 径14メートル。縦3メートル、横1メートルの石室が確認されている。6世紀後半の築造。

酒巻12号墳 - 円墳 径11メートル。幅2.5メートルの周壕がある。6世紀前半の築造。

酒巻13号墳 - 円墳 6世紀前半の築造。

酒巻14号墳 - 円墳・直径42メートル 1986年の調査で、地表から1.3メートルほど埋没した状態で発見された。6世紀末の築造。円筒埴輪78体、朝顔形埴輪2体、人物埴輪10体、馬形埴輪4体、器財形埴輪22体が出土した。ただし、その他の遺物はきわめて少ない。遺物からは当時の朝鮮半島との交流を示すものが多く発見されている。人物埴輪No.9「力士」(高さ94センチメートル)は円領の衣服をまとい、腰紐に鈴をつけた褌(ふんどし)を着用しているという珍しい容姿をしており、これは韓国にある古墳の壁画にのみ見られていたものである(褌を着用した埴輪は日本国内で7例あるが、いずれも裸体に褌である)。また、馬形埴輪「旗を立てた馬(高さ75センチメートル)」は鞍の後ろにパイプ状の蛇行状鉄器があり、このような形での発掘は、現在日本で唯一のものである(それまでは蛇行状鉄器は使い道がはっきりしていなかった)。朝鮮半島の高句麗古墳の壁画に同じような表現があることが分かっている。
これらの埴輪は「埼玉県酒巻14号墳出土埴輪 95点」として、2007年6月8日国の重要文化財(考古資料)に指定された。

酒巻15号墳 - 前方後円墳 全長34.2メートル、前方部幅14.5メートル、後円部径10.2メートル。6世紀後半の築造。地表から0.9メートルほど埋没しており、養殖池の埋め立て工事により偶然発見された。短冊形横穴式石室がある。酒巻15号墳から出土した形象埴輪は、2007年3月16日、埼玉県の有形文化財(考古資料)に指定された。

酒巻16号墳 - 円墳 径(東西方向)10.55メートル。6世紀前半の築造。

酒巻17号墳 - 円墳 径(南北方向)9.8メートル。6世紀前半の築造。

酒巻18号墳 - 円墳 径(東西方向)11.68メートル。

酒巻19号墳 - 円墳 6世紀中頃の築造。

酒巻20号墳 - 円墳 6世紀前半の築造。

酒巻21号墳 - 円墳 径27メートル。二室構造をもつ胴張り式横穴式石室があるほか、埴輪や須恵器が出土、6世紀中頃の築造。

酒巻22号墳 - 円墳 6世紀中頃の築造。

酒巻23号墳 - 円墳 6世紀中頃の築造。




出典: 「酒巻古墳群」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




あらっ。。。 現在、23基の古墳すべてが消失し、田畑となっているのですか?



そういうことです。。。

つまり、なぜ23基の古墳すべてが消失し、田畑となっているのか? それがミステリーなのですか?

そういうことですよ。。。 

つまり、酒巻の地図を拡大して見た「古墳オタク」のネット市民は、もしかして、それ以降に発見された新たな古墳が地図に書き入れられているかもしれないと思ったのですか?

たぶん、そうだと思うのです。。。 でも、最近見つかった古墳はありません。。。

。。。で、どういうわけで23基の古墳すべてが消失し、田畑となっているのですか?

たまたまバンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら、その説明がありましたよ。。。


関東平野は沈降している


(rettou02.jpg)

 

関東平野は、中央部が沈降し、周辺部が隆起する、「関東造盆運動」という地殻変動を受けています。
つまり、関東平野の真ん中は沈む土地、沈降盆地なのです。
そこに利根川や荒川、多摩川など大きな河川が流入し、関東山地や北側の東北日本の山地から供給された岩屑(礫、砂、泥など)が、この沈む低い土地に堆積して関東平野ができています。

関東平野の地下には、関東山地に分布しているのと同じ中・古生代(5億5000万年前~6500万年前)に形成された基盤岩を覆って、新生代第3紀以降の堆積物が最大で3000メートル以上の厚さで堆積しています。
これは日本アルプスの大きさに匹敵します。

関東造盆運動で沈降している中心部は、茨城県の古河や東京湾北部などいくつかあります。
隆起している周辺部は、多摩丘陵などの丘陵地や、房総半島、三浦半島周辺です。

沈降の中心部に近い埼玉県行田市では、古墳が田んぼの下に埋まっていたのが見つかった事例があります。
現在、これらの古墳は酒巻古墳群と呼ばれ、5世紀末から7世紀にかけて成立したとされています。

当時は当然、洪水の被害を受けないような高い土地に作ったものと考えられますが、沈降運動で徐々に地盤が低下したため、やがて洪水を受けるようになり、数百年の間に、堆積物(沖積層)に埋もれてしまったのです。

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




(109-110ページ) 『日本列島100万年史』
著者: 山崎晴男 & 久保純子
2017年2月2日 第2刷発行
発行所: 株式会社 講談社 




あらっ。。。 「日本沈没」ならぬ、「関東平野沈没」ですわねぇ~。。。 やがて、関東平野がどんどん沈んで、海の底に沈んでゆくのかしらァ~?



まさか、海の底までは沈まないでしょう!

つまり、この事を言うために、わざわざ私をお呼びになったのですか?

もちろん、それだけじゃありませんよ。。。 酒巻の地図が出てくる『大名行列@行田』の記事には次のメールが出てくるのです。。。




(foolw.gif)

Subj:真心のこもった

手作りの弁当ありがとう!

きゃはははは…


From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
Cc: barclay1720@aol.com
Date: Wed, December 2, 2015 0:06 AM
Pacific Standard Time
日本時間:12月2日(水)午後5時6分
 

バンクーバーも行田もそれほど寒さに変わりがありません。
ちょうど行田が寒かったのかもしれません。

でも、12月1日は実に良い天気でしたねぇ。
小百合さんも洗濯物をたくさん干したことでしょう!

ところで、11月29日の日曜には、手作りの弁当をありがとう!
まさか、小百合さんが弁当まで作ってくるとは思いませんでした!(微笑)


(bento02.jpg)

小百合さんが連れてきたトモユキ君が釣りをした場所。。。 と言うよりも僕と小百合さんが弁当を食べて アイリッシュ・クリーム・コーヒーを飲んだ場所は知る人ぞ知る 極めて有名な場所なのですよ。

。。。ていうかあああァ~ 小百合さんと僕のために、わざわざ歴史が用意してくれた場所なのですよ。
ぎゃははははは。。。

どういうこと。。。? と小百合さんが不思議に思うかもしれません。

僕も、改めて本を読んでみてビックリしているのですよ。
では、その箇所をここに書き出しますから、じっくりと読んでみてね。


行田船着き場跡


(funa03.jpg)


(funa09.jpg)

(行田)市の中心から国道(125号線)を東へ約500メートル、下町のT字路の左に、古風な木造洋館(デンマン注: 現在は岡田カメラ店)がある。

田山花袋の『田舎教師』に出て来る斎藤医院(文中では原田医院)、それから北へ左折して150メートル、またT字路で、右側が遊園地になっている。


(funa05.jpg)

この公園の地が、行田船着き場で、長野口御門、番所、高札場があった。 

(略) つい最近まで、石垣があって、如何にも船着き場らしかった。


(funa07.jpg)


(funa06.jpg)


(funa08.jpg)

 (中略)

昔はどんな水路を通って、ここまで来たかわからないが、とにかく、今から400年前には、下町を中心に行田町が出来、一、六の市が立った記録は、成田氏時代からである。

そして300年前には、関西方面から、市日めあての商人が来たことが古文書に見えている。
天正18年(1590年)『家忠日記』に「宮津衆、行田の市(いち)に人を切る」とあって、京都府宮津の商人が来ている事を示している。

特に船着き場が栄えたのは、見沼代用水が出来てからであろう。

八代将軍吉宗が、普請奉行 井沢弥惣兵衛為永(いざわやそうべえためなが 1663-1738)に命じ、大宮市東の見沼干拓事業を起こし、旧芝川の水路を拡張して、見沼の溜水を荒川におとし、利根川の水を行田市下中條の今の利根道水路取入口(今、見沼代用水元圦口公園になっている)から、延々60キロメートルの水路を作り、更に通船堀を設け水運の便に供した、一大工事で、享保13年(1728年)の完成であるから、今から、270年も前の事である。

 (中略)


(eisho02.jpg)

英照皇太后


(shoken02.jpg)

昭憲皇后

明治19年5月10日、英照皇太后、昭憲皇后陛下が、館林の「つつじヶ岡」に行啓された時、行田の橋本喜助宅で、御着替えをなされ、その荷物が、船で下町の船着き場に運ばれ、下町から橋本喜助宅まで大変な列で賑わった事を、私は祖母(安政6年生まれ)から聞いたことがある。

ついでに、その模様が、『埼玉県史』第7巻に出ているので書いておこう。

「明治19年5月10日午前7時30分新宿停車場より別仕立汽車にて御発車、9時鴻巣駅にて御下乗遊ばされ、同宿鈴木半右衛門方、行田町橋本喜助方等に御小休、川俣にて利根川を御渡船……」とある。

帰路も、橋本喜助方で御着替、鴻巣駅午後7時40分発、9時10分新宿駅御着とある。

吹上駅は明治18年3月1日開設であるのに、何故鴻巣駅(明治16年7月28日開設)で下車されたかわからない。
吹上駅では近くに小休される適当な家がなかったからだろう。

とにかく、行田の船着き場が、幕末から明治中頃まで栄えた事は、想像出来ない程だったらしい。
番所が今の久保田屋さんの所にあり、その前に長野口御門があって通行人を見張り、高札場がある程の賑わいだったという。
ところがある人から「あそこは晒し首場だったそうですね」といわれたので色々調査した結果、次の様な事情がわかった。

即ち弘化3年(1846年)蘭法医の河津省庵が本町横町で開業し、その名声が高くなり、御典医となった。
省庵は常に研究に励み、特に“腑分け”して医学の進歩をはかったが、当時人体を解剖することは許されなかった。
藩では先生の便宜をはかり、下町の高札場に晒し首をした。
それを近くの大長寺内に運び“腑分け”をして寺に葬ったという。


(daibuts85.jpg)

省庵が日本の眼科医学史上の人となり、『眼科方規』『医則発揮』はそんな事情で生まれたのだろう。
藩の役人も医学の為に随分イキなはからいをしたものだと思う。
下町の晒し首の事実は、日本医学史上に役立ったわけである。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




5-9ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社


ということで、明治19年5月10日、行田の橋本喜助宅で着替えて、あの船着き場から英照皇太后、昭憲皇后が、船に乗って、川俣で利根川を渡り、館林の「つつじヶ岡」に行ったのですよ。


(tutuji91.jpg)

なんと、その船着き場で 僕と小百合さんが弁当を食べたというわけなのです。 (爆笑)

もちろん、それだけではありません!

なんとォ~ 僕と小百合さんは館林の「つつじヶ岡」でも、何度か 10月桜を見たり、白鳥を見たりして、ルンルン気分で散歩したのですよ!

しかも、何度となく白いテーブルで小百合さんとアイリッシュ・クリーム・コーヒーを飲んだ大長寺までが出てくるのですよ!


(daibuts8.jpg)


(coffee90.jpg)

ぎゃははははは。。。

そういうわけで、この事でまた今日寝て起きたら バンクーバー市立図書館で記事を書くのです。

面白い記事になるので、小百合さんもぜひ読んでみてね。

とにかく、真心のこもった手作りの弁当ありがとう! きゃははははは。。。

では、今日も一日、小百合さんにとっても 素晴らしい日でありますように。。。
祈ってますねぇ~。

じゃあねぇ。。。バイバ~♪~イ。。。


(denman01.gif)




『大名行列@行田』より
(2016年1月19日)




つまり歴史が用意してくれた場所で、デンマンさんと私がお弁当を食べたということが言いたかったのですか?



そうです。。。 いけませんでしたかァ~?

 (小百合さん、ブスッとして無言……。)

小百合さん。。。 急に気分でも悪くなったのですかァ~? (笑)

こういう記事を読まされると、ここまで読んできたネット市民の皆様は白けるのですわァ~。。。

ちょうど、友達の家に呼ばれて家族旅行のホームムービーを見せられるようにですかァ~?

分かっているなら、どうして、わざわざ こういう極めて個人的なメールを持ち出してくるのですかァ。。。?

だってぇ~、英照皇太后 や 昭憲皇后 も出てくるのですよう。。。


(eisho02.jpg)

英照皇太后


(shoken02.jpg)

昭憲皇后



3月の雛壇(ひなだん)から出てくるような昔の女性など ネット市民の皆様は興味がありませんわァ~。。。



あのねぇ~、その雛壇から出てくる古風な女性を見るのがシビレるという「古風女性オタク」もいるのですよう!



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 (すぐ下のページへ続く)



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酒巻ミステリー(PART 2)

2018-05-13 12:18:12 | 日本史


 

酒巻ミステリー(PART 2)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

ですってぇ~~

小百合さんが作ったというお弁当を見たら、あたくしも とってもお腹がすいてきましたわァ~。。。


(bento02.jpg)

あたくしは 別に、凝(こ)って作ったお弁当に こだわりはありませんわァ~。。。

それよりも、今、何が食べたいか?と言うと、

実は、“たいやき”が 食べたいのでござ~♪~ますわァ。

最近では、餡に替わってクリームや溶かしたチョコレート、キャラメル、カスタードクリームなどの洋菓子素材を詰めたものもでてきましたわ。

サンドウィッチ式に肉類や生野菜、各種ソースやリゾットなどを挟む「おかずたい焼き」もあらわれました。

あたくしは京都の出身なので、“たい焼きパフェ”をいただきます。。。


(taiyaki20.jpg)



あなたも お腹がすいてきて、“たいやき”が食べたくなってきたでしょう?

でも、この記事を最後まで読んでから たい焼き屋さんに走ってくださいねァ~。。。

 

ところで、小百合さんが なぜ「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれているのか?

ご存知でござ~♪~ましょうか?

なぜ。。。?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


(suikyu9.jpg)

それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。

だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。

じゃあねぇ~~。


(hand.gif)



(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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(linger65.gif)

『センスあるランジェリー』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(house22.jpg)

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』



(noten15.jpg)

■ 『月夜の美人』

■ 『ふるさと 行田』

■ 『愛の偶然と必然』

■ 『田中角栄と軽井沢』

■ 『うさぎ追いしかの山』

■ 『アブラッソ不在の美』

■ 『ロマンの昔話』

■ 『海を渡ったバレンタイン』

■ 『バレンタインが老人を狂わせた』

■ 『マルちゃん海を渡る』

■ 『銀座からバレンタイン』

■ 『仙台からバレンタイン』


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■ 『パリからバレンタイン』

■ 『ジャズ@バンクーバー』

■ 『タイからバレンタイン』

■ 『たまご麺@バレンタイン』

■ 『愛犬とゴッド』

■ 『ザ・バレンタイン女』

■ 『週刊誌deヌード』

■ 『愛と天の夕顔』

■ 『ジェミマおばさんのシロップ』

■ 『夏日に、お帰りなさい』

■ 『コイ、鯉、恋がいっぱい!』


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■ 『スープカレーなのね』

■ 『忍城時代まつり』

■ 『夜道のルート66』

■ 『上を向いて歌おう』

■ 『霧積温泉のロマン』

■ 『元気が一番!』

■ 『行田のスープカレー』

■ 『パンツとブラジャーと餃子』

■ 『軽井沢を文学散歩する』

■ 『ばァ~の面影』

■ 『バレンタイン@行田』

■ 『軽井沢タリアセン夫人@遠藤家』

■ 『桃の節句@天国』

■ 『古代米カレー』

■ 『愛のジェローを探して』


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■ 『コーヒーと愛の香り』

■ 『愛の馬車道』

■ 『亀姫と香芽子さん』

■ 『愛の夕顔を探して』

■ 『ケネディ暗殺の謎』

■ 『行田物語 ピラミッド』

■ 『由梨さん@コルシカ』

■ 『黒い行田市長』

■ 『ヒシしようよ』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)

■ 『天の川de思い出』

■ 『天の川の思い出』

■ 『行田物語 古代蓮』

■ 『チーズ@シルクロード』

■ 『ラーメン@バクー』

■ 『行田物語 饅頭』

■ 『ぶんぶく茶釜だよ』

■ 『ぶんぶく阿波踊り』

■ 『食欲の秋です』

■ 『カレーdeパリ』

■ 『パワースポット』

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■ 『日本男児@パワースポット』

■ 『タケモトピアノ 苦情』

■ 『母と暮せば』

■ 『国道17号バイパスの奇跡』

■ 『伽哩夫人』

■ 『年賀状@富岡』

■ 『愛のジェローだよ』

■ 『愛の果実』

■ 『桜を想いながら』

■ 『去年の秋の食欲』

■ 『パンツとブラと餃子』

■ 『軽井沢タリアセン夫人@バンクーバー』

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■ 『タリアセン夫人と洋画』

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■ 『タリアセン夫人の夢』

■ 『夢の素遺伝子』

■ 『さけ茶づけ@バレンタイン』

■ 『コンピエーニュから』

■ 『焼きそば@バレンタイン』

■ 『思い出のバレンタイン』



(bare02b.gif)

こんにちは。ジューンです。

日本のハーブティーは、なんといっても桜湯だそうですけれど、


(sakurate.jpg)

カナダ、アメリカ、イギリスではハーブティーとして

ローズティーが好まれています。

普通、ローズヒップティーと呼ばれます。

ローズヒップ(rose hip)とは

バラ科バラ属の植物の果実。

つまり、バラの実です。

ローズヒップ生産のため、バラの特定品種、

特にRosa canina(ドッグ・ローズ)が栽培されています。

ハイビスカスとブレンドしたハーブティとして飲用されることもあります。

また、ローズヒップオイルは食用油として、

ジャム、ジェリー、マーマレードにも用いられるほか、

スキンケアにも用いられます。

こんなエピソードがありました。

第二次世界大戦中、

イギリスはドイツ海軍Uボートの海上封鎖により

オレンジの輸入がストップしたのです。

ビタミンCの補給ができなくなったのです。

それで、英国の学童たちは生垣に生えている

ローズヒップの採集を命じられました。

ローズヒップティーにして飲んで

ビタミンCを補給したのですって。。。


(rosehip.jpg)

なんだか信じられないようなお話ですよね。

ところで、英語の面白い話を集めました。

時間があったら覗いてみてください。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。



(chirashi.jpg)


(bravo.gif)
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なぜ蝦夷なの? (PART 1)

2017-12-30 11:09:12 | 日本史
 

なぜ蝦夷なの? (PART 1)

 


(ezo001.jpg)


(aterui.gif)


(question8.png)


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(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 どういうわけでなぜ蝦夷なの?というようなタイトルをつけて あたくしをお呼びになったのでござ~♪~ますか?


(kato3.gif)

卑弥子さんは蝦夷に関心がありますか?

あたくしは“源氏物語”には関心がございますけれど、“蝦夷物語”には興味がござ~ませんわァ~。。。

この記事を読みにやってきたネット市民の皆様も、“蝦夷物語”よりも“源氏物語”に興味を持つと思うのですよ。。。

それなのに、どういうわけでなぜ蝦夷なの?というようなタイトルを付けたのでござ~ますか?

ちょっと次のリストを見てください。


(ame71228d.png)


『拡大する』

『蝦夷って悪い意味?』

『おばさんの下着姿』




これはアメブロの僕のブログの12月22日から28日までの1週間の「リンク元URL」のリストですよ。。。 赤枠で囲んだ 9番に注目してください。



あらっ。。。 2012年11月17日にデンマンさんが投稿した『蝦夷って悪い意味?』記事が この1週間に 33名のネット市民の皆様に読まれたのでござ~ますわねぇ~。。。

そういうことです。。。 18番の『おばさんの下着姿』を除くと 上のリストの個別の記事では すべて2017年に投稿した記事なのですよ。。。 『おばさんの下着姿』は今から4年前の2013年2月24日に投稿したのだけれど、おばさんの下着姿に興味を持っているネット市民がたくさんいるのですよ。。。 特に男性の間で人気がある。。。

その証拠でもあるのでござ~ますかァ~?

次のページを見てください。。。


(wp71214e.png)


『拡大する』

『現実主義者との夢と対談』

『熟女パンツ』

『白い下着の熟女』

『熟女下着』




これは12月14日に僕がDenman Blogに投稿した『現実主義者との夢と対談』のページです。。。 右のサイド・バーの赤枠で囲んだ人気記事に注目して欲しいのですよ。。。



あらっ。。。『熟女パンツ』、『白い下着の熟女』、『熟女下着』に人気があるのですわねぇ~。。。

。。。でしょう!? つまり、どれも“おばさんの下着姿”に関係があるのですよ。。。 要するに、『おばさんの下着姿』が読まれるのは納得できるのです。。。 でもねぇ~、5年前に投稿した『蝦夷って悪い意味?』が どういうわけで読まれるのか? それが僕にはちょっと理解できないのですよ。。。

簡単なことですわァ~。。。 上の人気がある3つの記事に中に『蝦夷って悪い意味?』へのリンクが貼ってあるのですわァ~。。。

実は、僕も初め そう思ったのですよ。。。 それで、上のリンクをクリックして確かめてみました。。。 でも、どの記事にも『蝦夷って悪い意味?』へのリンクが貼ってない! 念のために、上の赤枠の中と緑の枠の中のすべてのリンクをクリックして記事を開いてみました。。。 でもねぇ~、どのページにも 『蝦夷って悪い意味?』へのリンクが貼ってない!

じゃあ、いったい どのようなわけで『蝦夷って悪い意味?』が読まれたのでござ~ますか?

ちょっと次の検索結果を見てください。。。


(gog71230a.png)


『拡大する』

『現時点での検索結果』




「蝦夷 悪い意味」を入れて検索してみたのです。。。



あらっ。。。 154,000件もヒットするのですわねぇ~。。。 デンマンさんが2012年の11月にアメブロに投稿した『蝦夷って悪い意味?』がトップに出てますわァ~。。。

そういうことです。。。

つまり、このように検索してデンマンさんの記事を読んだネット市民が 12月22日から28日の1週間に33名いたということですか?

そうです。。。

信じられませんわァ~。。。

あのねぇ~、どこかの中学校の歴史の時間に先生が宿題を出したのですよ。。。

その宿題とは?

だから、「蝦夷」という言葉には悪い意味が込められているのか? それを調べてきなさいという宿題です。。。 上の赤いアンダーラインを引いた箇所を見てください。。。


(judged.png)

相手をおとしめるためにわざわざ 悪い意味を持つ漢字を当てるというのは、近頃も品の無いウェブサイトで再流行しておりますな

蝦夷という語句に悪い意味がなかったという証明がなされたならば別ですが

蘇我氏… が悪い名前に変えたものと推測されます

四方の国々に悪い意味の字で名前をつけるのが中国にあっては普通ですから



このように「蝦夷」という言葉には悪い意味が込められているのか?。。。という素朴な疑問が古代史に興味を持っている人にはあるわけですよ。。。 だから、歴史の先生も、その事について生徒に考えてもらいたいから、このような宿題を出したわけです。。。



そうでしょうか?

それ以外に考えられないでしょう!? だから、5年前に投稿した僕の記事が 急に33名の中学生に読まれたのですよ。。。



(laugh16.gif)

 (すぐ下のページへ続く)


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なぜ蝦夷なの? (PART 2)

2017-12-30 11:07:45 | 日本史




 

なぜ蝦夷なの? (PART 2)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif) 

ですってぇ~。。。

あなたは信じることができますか?

ところで、お話は全く変わりますけれど、

あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”が人気があるのですわよう!

ええっ。。。 信じられないのでござ~ますか?

デンマンさんが よくおっしゃるように“信じる者は救われる!”のでござ~ますわァ~。。。

あなたは まだあたくしの“女の魅力”を見たことがないのねぇ~。。。

じゃあ、ここでお見せしますわねぇ~。。。


(buttdimp5.jpg)

どうでござ~ますかァ?

この魅力によって あたくしの人気が出てきたのだと思うのですわァ。

うふふふふふふ。。。

ええっ。。。 あたくしのお尻だとは思えないのでござ~ますかァ~?

どうしてよう?

ええっ。。。 スタイルがよすぎると、おっしゃるのござ~ますかァ~?

あたくしが十二単を一枚、一枚脱いでゆくと、

最後には上のようなおヌードになるのですわよう。

信じてくださいましなァ~。。。

蝦夷にまつわるお話も、大変興味深いですけれど、

他にも いろいろな面白いお話がござ~ますわァ。

たまには、日本古代の面白いお話にも関心を示してくださいまし。

あなたのために古代史の記事を用意しましたわァ。

ぜひ お読みくださいねぇ。

では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。

だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。

じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)




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(hiroy2.png+betty5d.gif)
『スパマー HIRO 中野 悪徳業者』

 

ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)


『センスあるランジェリー』



(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




(annasalleh.jpg)

『オルフェと聖徳太子』

『源氏物語とおばさんパンツ』

『霊仙はなぜ毒殺されたの?』

『紫式部が地獄へ』

『破戒僧円載』

『アショーカ王の愛と苦悩』

『どら平太の世界』

『三四郎とデンマンさん』

『ヒトラーの姪』

『ゴヤと三島由紀夫』

『仏陀とキリストと娼婦』


(zurose2.jpg)

『ズロースと戦争』

『伊藤若冲ブーム?』

『ブッダと物理学』

『加藤清正ブーム?』

『愛憎と三輪山』

『松原智恵子 お尻ペンペン』

『坂本龍馬は流れ者か?』

『野ざらし』

『紫式部堕獄説』

『日本最古のポルノ?』

『源氏物語の性描写』

『寅さんの本棚と急行まつしま』

『ヒトラーは草食系?』

『ブッダとキリストと娼婦』

『顔文字とオナラ』


(hama10.jpg)

『宝暦の恨みを明治維新で』

『デウキと紅葉@行田』

『薄い陰毛と紅のボートピープル』

『江戸の閨房術』

『ずるがしこい現代人』

『春画@源氏物語』

『千早振る』

『あれっ、松本清張』

『キスと源信』

『伎楽は呉から…?』

『紺瑠璃杯に魅せられて』

『神聖娼婦 マリア』

『安徳帝は生きていた』

『白石川の桜』


(maria05.jpg)

『ブログ村のマリア様』

『萌える済子女王』

『ピンク桃色@徒然』

『富沢金山の桜』

『ピンク桃色村』

『紫式部@徒然』

『絵里香@ペルー』

『ペルシャ人の楊貴妃』

『ん?佐伯今毛人』

『文学と歴史とウソ』

『百人一首ミステリー』

『芭蕉と遊女再び』

『映画とロマン@仙台』

『源氏物语中的性描写』

『忘れられた歴史ロマン』


(costa04b.jpg)

『おばさんパンツ@サンホセ』

『聖徳太子のチューター』

『オナラの曲芸』

『死海』

『漱石とオナラ』

『絵里香さん』

『美女とオナラ』

『アンバパーリー』

『ゆっくりと愛し合う』

『見ちゃだめ!』

『二重マチ付きズロース』


(miya08.jpg)

『麻生元総理』

『ネットのバカ女を捜して』

『額田王の歌』

『聖女と娼婦』

『済子女王@萌える』

『ん?堀内亜里?』

『松平春嶽が黒幕?』

『旅行者的早餐』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


(byebye.gif)
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白子屋お熊事件(PART 1)

2016-06-04 15:24:26 | 日本史

 

白子屋お熊事件(PART 1)

 


(ken203b.jpg)


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(june001.gif)

デンマンさん。。。 どうして“白子屋お熊事件”に わたし呼び出したのですかァ~?


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もちろん、ジューンさんにも関係あるからですよ。。。 ちょっと次のリストを見てください。


(liv60604b.png)

『拡大する』



これはライブドアの6月1日から4日までの4日間の「リンク元URL」のリストですよ。。。 赤枠で囲んだ 1番と25番に注目してください。。。



あらっ。。。 GOOGLEで検索して デンマンさんの徒然ブログで『大岡越前とセックスと白子屋お熊事件』を読んだネット市民が この4日間に合わせて22人いたということですわねぇ~。。。 ダントツですわァ~。。。

そういうことです。。。 次の記事を読んだのですよ。


(liv70422e.png)

『実際の記事』



でも、どうしてわたしが“白子屋お熊事件”に関係しているのですか?



ジューンさんが上の記事の中に出てくるからですよ。

マジで。。。?

ジューンさんは、すっかり忘れてしまったのですねぇ~。。。 思い出すように、ここに書き出しますからジューンさんも しばらくぶりにじっくりと読んでみてねぇ~。。。



(hakuseki2.jpg)


(kato3.gif)

「ある時(新井白石は)母親に尋ねたそうだ。『母上、おなごというものは、一体いくつになるまで殿方と閨房にて睦み事をなさりたいと思うので御座いますか?』とね。実は、新井白石は、父が57歳、母が42才の時に生まれた子供だった。今日でさえ大変な高齢時の出産といわれる。だから、昔は40才過ぎた母親から生まれると“恥かきっ子”と呼ばれ、からかわれたりした。そういうわけで、白石の頭のどこかで、そのことが気になっていたのかもしれない」


(june001.gif)

「それでお母さんは何と答えたの?」

「それが昔のことだからね、母と息子がセックスの話などするなんてとても考えられない。お母さんも、わが息子が大真面目な顔して、そんなことを尋ねられたものだから、さぞかしビックリしたに違いない」

「それで?」

「お母さんは、どのように答えようかと困ってしまった。昔の女性のことだから、その年になってもポッと頬を染め、うつむいてモジモジと火鉢の中に眼をおとし、火箸で灰の中に『の』の字を書いた」

「それで?」

「『母上、いかがなもので御座いましょうか?』と、息子は返事をさいそくする。お母さんは、うつむいたままモジモジと灰の中に『の』の字を書く。そのうち、頭脳明晰な新井白石には、ハッと閃くものがあった」

「どういうこと?」

「新井白石はおじぎをすると、『ありがとうございました』とお礼を言った」

「答えてくれたの?」

「そうさ。ちゃんと答えた」

「なんと言って?」

「言葉にだしては何も言わなかった」

「分からないわ。どういうこと?」

「『この母ありて、この子あり』 頭脳明晰な新井白石のお母さんだから、やはり頭のよい人だった。お母さんは、ちゃんと仕草で答えを表していたんだ。白石はちゃんと気付いた。あとでお母さんの部屋から出ながら、口の中でつぶやいた。『灰になるまでか!』」

「あたし、まだ分からないわ。どういうこと?」

「ジューンさんは、こういう風習には、あまり馴染みがないかもしれないけれど、日本では、たいてい人が死ぬと遺体を焼くんだ。だから、『灰になるまで』とは、“死ぬまで”という意味だ」

「それ本当にあった母と息子の対話なの?」

「出どころをインターネットで調べたけれど、ついに分からなかった。でも僕と同じように、この話をどこかで聞いたとみえて、ページに載せている人がいた。そのひとのページにはこんな風に紹介されている」



(karesusuki.gif)

近代史解釈:

歴史は夜、つくられるとゆー

その昔、新井白石は母に問うた

「女性の性欲は、何時までありますか」

 .....灰文字
       



「それだけ?」



「そう。 この人のページにも、どこでこの話を聞いたのかは書いてない」

「デンマンさんはどこでこの話を知ったの?」

「若い頃、落語で聞いた覚えがある。 もし、どなたか出どころを知っていたら教えて欲しい」




『大岡越前とセックスと白子屋お熊事件』より
(2007年4月22日)




でも。。。、でも。。。、上のエピソードの中には“白子屋お熊事件”は出てこないではありませんか!



あのねぇ~、確かに上の話の中には“白子屋お熊事件”は出てこないのですよ。。。 でもねぇ~、上の記事の中には出てくる。

どのように。。。?

あのねぇ~、昔 “ワブログ (Wablog)”というブログがあったのですよ。。。 ちょうどライブドアのようなものです。。。 でもねぇ~、経営が悪化したのか。。。? それとも会社の方針なのか。。。? このブログは閉鎖されてしまった。

そのブログ・プロバイダーのサイトに、デンマンさんはブログを立ち上げたのですか?

そうです。。。 10年ぐらい前ですよ。。。 ネットで3年は一昔ですからねぇ~。。。 10年前というと、もう大昔ですよ。。。 (微笑) そのブログ・プロバイダーのサイトに立ち上げたブログの名前が『宇宙の摂理ブログ』というのです。

なんだか壮大な名前ですわねぇ~。。。

そうです。。。 そのブログでの当時の「キーワードランキング表」が次のリストですよ。


(wab70420.gif)



あらっ。。。 2007年の4月20日現在のランキングなのですわねぇ~。。。



そうです。。。 見れば解るように、この時ランキングの1位が「白子屋お熊事件」なんですよ。。。 僕は 名前だけは聞いた覚えがあったのだけれど、この事件について記事を書いた覚えがなかった。

でも。。。、でも。。。、他の記事の中に、この事件を引用したのではありませんか?

そうに違いないと僕も思ったのです。。。 それで、考えてみたのだけれど、たぶん「阿部定事件」の事を書いた時に、この事件を引用したと思いあたった。

。。。で、「白子屋お熊事件」というのは、どのような事件だったのですか?

確か。。。、金に目がくらんだ50代の女が栃木県鬼怒川のホテルオーナーを色仕掛けでおびき出して殺した。。。 そんな風にうろ覚えに記憶していたのですよ。。。 キーワードランキングで1位になるような事件だから、かなりショッキングな事件だったに違いない。。。 ところが、「白子屋お熊事件」というのは江戸時代に起こった事件だったのです。。。 ちょっと次の検索結果を見てください。


(gog60604a.png)

『現時点での検索結果』



「白子屋お熊事件」を入れてGOOGLEで検索すると上のような検索結果になるのです。



あらっ。。。 ライブドアのデンマンさんの『徒然ブログ』に掲載された記事『大岡越前とセックスと白子屋お熊事件』が9番目に出てくるのですわねぇ~。。。

そうです。。。 で、「白子屋お熊事件」というのは、 トップに出てくるウィキペディアの記事に書いてあるように、次のような事件なんですよ。


白子屋お熊事件

享保11年10月17日の早朝、就寝中であった新材木町の材木問屋「白子屋」の娘・くまの夫である又四郎が、白子屋の下女・きく(当時16歳)に頸部を剃刀で切りかかられて抵抗したところ、頭部に傷を負った。
又四郎の傷は浅く、きくを取り押さえた後助けを呼んだため、大事には至らなかった。

白子屋側は、又四郎の実家に示談を持ちかけたが、同家は又四郎・くま夫婦の不仲が噂になっていること、きくの犯行動機が不明であることから白子屋を怪しみ、10月20日に、町奉行所に事件の調査を訴え出た。
奉行所が下手人であるきくを取り調べたところ、きくはつねに犯行を教唆されたことを自白した。
きくの証言を得た奉行所が、つね・くま母子を問い詰めると、又四郎の殺害計画を自供した。

そもそもくまと又四郎の婚約は、当時資金繰りに苦しんでいた白子屋が、大伝馬町の資産家の息子であった又四郎の結納金目当てで取り決めたことであった。
くまは夫を嫌い、結婚後も古参の下女・ひさに手引きをさせて手代の忠八と関係を持っており、母のつねも娘の密通を知りながらこれを容認していた。

くまは離縁を望んでいたが、又四郎と離縁すれば金を返さねばならず、「又四郎を病死に見せかけて殺せば、金を返さず忠八と結婚できる」と考え、共に殺害計画を練るようになった。

最初は病死に見せかけた毒殺を計画し、出入りの按摩であった横山玄柳という盲人を騙して又四郎に毒を盛らせたが、彼は体調を崩すに留まり、死に至らなかった。
毒殺計画が失敗したことによって焦ったつねとくまは、きくを脅して又四郎に切りかかるように仕向けたが、これも前述の通り失敗して殺害計画が露見、白子屋の関係者は各々裁かれることとなった。

妻子の監督を怠り、世間を騒がした罪を問われた店主・庄三郎と、事件に加担した按摩の横山玄柳は江戸所払いとなり、下手人のきくは死罪、密通をそそのかした罪でひさは町中引廻しの上死罪、密通の罪で手代忠八は町中引廻しの上獄門、従犯のつねは遠島、主犯であるくまは密通と夫の殺害未遂という重罪を問われ町中引廻しの上獄門と仕置が下った。


(ken203b.jpg)

くまは結婚前から日本橋中でも美貌で知られており、引廻しの際は評判の美貌の悪女を一目見ようと沿道に観衆が押し掛けた。
裸馬に乗せられたくまは観衆の期待に応えるように、白無垢の襦袢と中着の上に当時非常に高価であった黄八丈の小袖を重ね、水晶の数珠を首に掛けた華やかな姿で、静かに経を唱えて落ち着いた様子であったという。

殺害が未遂に終わったとはいえ、主犯のお熊の美貌や処刑時の派手なパフォーマンスなどから江戸で大変な波紋を呼び、『近世江都著聞集』、『享保通鑑』、『兎園小説余録』、『江戸真砂六十帖広本』、『武江年表』などに事件が取り上げられている。




出典: 「白子屋お熊」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




あらっ。。。 ずいぶん 酷(ひど)い事件ではありませんかァ!



確かに、人間の醜さが、これでもか。。。、これでもか。。。、というように出ている事件ですよ。。。

。。。で、デンマンさんが勘違いした“50代の女が栃木県鬼怒川のホテルオーナーを色仕掛けでおびき出して殺した”という事件は、どのようなものだったのですか?

あのねぇ~、小林カウという女が起こした一連の事件なんですよ。。。 この小林カウという女も酷い女で 塩原温泉の“ホテル日本閣”で起こした事件がもとで、それまでの一連の事件が発覚したのです。。。 この温泉は、栃木県那須塩原市の塩原地区内にある温泉で、箒川沿いの谷間を中心に点在する11の温泉の総称なのです。。。

。。。で、その小林カウは、どのような女性なのですか?

「白子屋お熊事件」のお熊さんよりも ひどい女ですよ。


小林カウは1908年、埼玉県大里郡玉井村(現・熊谷市)の農家に生まれた。
カウの家は集落の中では旧家だったが、例によって貧窮な家庭だった。
カウは7人兄弟の5番目の次女。
小学校を4年で終えて、5年ほど家事を手伝い、やがて都会に憧れて東京・本郷の旅館に女中奉公に出た。

1930年、カウ22歳の時、熊谷の在に嫁いだ姉の口利きで、新潟県柏崎市出身の林秀之助(当時27歳)と見合い結婚した。
秀之助は身長160センチもない貧弱な体格で、青黒いような顔をした青年だった。
結婚してみると、秀之助は慢性胃腸病と慢性淋病の持つ主で、カウは性的にも満足が得られなかった。

夫婦で熊谷市中で雑貨商を営んでいた1931年、長男が誕生するがまもなく死亡。
その後、娘が誕生した。

そのうち商売がうまくいかなくなり、夫婦は熊谷を離れ、東京近辺を転々とした。
この間、戦争が本格化し、秀之助も兵隊にとられるが、体を壊して戻ってきた。
以来、秀之助は気力のない中年男になっていた。

戦争が終わると、夫婦は熊谷に家を建て、自転車のタイヤのブローカーをする傍ら、ゴム、米、砂糖などの禁制品も扱い始める。
またカウは内職で 菓子の五家宝づくりを手がけた。


(gokabo2.jpg)

さらに観光地向けの辛子漬や芋のつるの砂糖漬の土産物製造卸売りを始め、病みがちな夫に代わって、カウの働きで生計が支えられていた。
この頃からカウは金を稼ぐ楽しさを知り、物欲が強まっていった。

精力旺盛なカウは愛人づくりもマメであり秀之助はそれに気づいていたが黙認していた。

ある時、近くの交番の若い巡査が戸口調査簿を手に小林家に現れる。
この男の名は中村又一郎(当時25歳)。
独身ですらりとした男前だった。
闇物資を扱うカウの家では、この訪問は何か気味が悪い。

そこでカウはこの中村巡査に手厚いおもてなしをした。
中村は気をよくして、親しくカウの家を出入りするようになった。
当初、カウは中村を娘の婿に、と考えていた。
ところが欲望が満たされていくなかで唯一性的な満足がなかった40代の女と、おもてなしを好意と受け取った20代の男、そんな2人の関係ができあがってしまうのに時間はかからなかった。

2人の関係は続き、カウは中村と一緒になりたいと考える。
秀之助に「財産は何一ついらないから。暇をもらいたい」と頼んだが、聞き入れられなかった。

1952年10月2日、秀之助が突然異様な唸り声をあげて死んでしまった。
その声にびっくりした隣人が駆けつけると、カウは夫の死に顔を撫でていたという。
秀之助のかかりつけの医師は、保健所の医師立会いの元で脳出血と診断した。
カウ夫妻はたびたび派手な喧嘩をしていたことから、近所でもその死を疑う噂が流れたりしたが、熊谷署は捜査を打ち切った。

その後まもなく、カウは中村を家に引き入れて同棲を始める。
中村は以前からその行状が上司に知られており11月6日に懲戒免職となった。
しかし、そんな同棲生活も2年で終結する。
中村は母親ほどの女性に嫌気がさしたのか、カウを追い出し、若い娘と結婚したのだ。

やがてカウは 近県の温泉地をまわり、1954年、事件の舞台となった栃木県・塩原温泉郷に初めてやってきた。


(siobara3.jpg)

1956年春、カウはホテル明賀屋前の小店を一軒、1年分の家賃をポンと前払いして借り、「那珂屋物産店」の看板をあげた。
ここでカウは最初の一旗をあげた。

カウの商売魂はおさまらず、翌年春には隣りの店を買いとって、小食堂「風味屋」をひらいた。
店の売上は伸び、銀行預金を増やし、土地も買い、資産300万円ほどになっていた。
成功を手にしていながら、カウはさらに上を見る。

そして「温泉宿をひとつ持ちたい」と思うようになった。
旅館の仕事ならば女中奉公のキャリアがあるし、女主人はカウの理想であるステイタスだった。

1958年秋、カウは「ホテル日本閣」が安値で売りに出ていることを知る。
ホテル日本閣は名前こそ立派だが、実際は三流クラスの小旅館だった。
この日本閣が経営不振で3、400万円で投げ出すという噂があり、カウは飛びつくように交渉した。
しかし、主人である生方鎌助は まるで売る気はなく、話はいったん立ち消えた。

生方鎌助は温泉番頭などを経て、1957年春、ホテル日本閣の看板を掲げた。
しかし、やや強引に開業してしまったために温泉組合からはじき出され、引き湯の権利がとれなかった。
自費で送湯管を敷いたが湯が冷えて、ボイラーで沸かしなおした。

当然ながら、経営は厳しく、閑古鳥はなくばかりだった。
鎌助はおかげで一時気がおかしくなり、宇都宮の精神病院に入院した。
1958年夏に退院したが、誇大妄想に悩まされるようになっていた。

いっそのこと温泉宿は廃業にして出なおそう、と鎌助の妻・ウメは言った。
しかし、鎌助は聞かず、創価学会のご利益に頼って、1959年春には新館の増築にかかった。
だが途中で資金が尽き、未完成のみっともない姿に壊そうにも金がかかり、鎌助は途方にくれることになった。

ここで鎌助は前年交渉にきたカウを思いだし、すぐに融資をもちかけた。
この時の条件は「妻・ウメに対する手切れ金50万を出してくれれば、後釜に迎えてやる」というものだった。
カウは「50万で温泉旅館の内儀さんの座が買える」とこの生方鎌助という男に賭けてみる事にした。
しかし、手切れ金を30万に下げたところ、ウメは50万円を譲らなかった。
「どうせウメは承知しないだろう、こうなれば一文も手切れ金をだすのが惜しい」とカウはウメ殺害を考えた。

1960年1月中旬、カウは日本閣の雑役をしていた大貫光吉(当時36歳)にウメ殺害を命じた。
「手間賃2万円、成功したら抱いてやる」と言ってカウは大貫の手をとり股にはさんだ。
女ッ気のほとんどない大貫は思わずうなずいた。

2月8日、怖くなり殺害を躊躇しつづけていた大貫に、今度は鎌助が励ましの言葉をかける。
「ウメは体が弱っていて、ちょっと絞めればイチコロだから、今夜は間違いなくやってくれよ」
そしてこの夜、大貫はひとり寝ていたウメを首を麻紐で締めて殺した。

その後、カウは今度は邪魔になった鎌助を殺そうと思い立つ。
1960年の大晦日、日本閣の帳場の炬燵で3人はテレビを見ていた。
午後5時過ぎ、カウは夕食の仕度で台所に立ち、忍び足で戻ると、背後から鎌助の首を細引で絞めつけた。
そこへ大貫が鎌助にとびかかる。
カウの持っていた細引がぷつんと切れ、そこで大貫は鎌助を押し倒し首を絞めた。
カウが包丁を差し出すと、大貫は必死に抵抗する鎌助の首に刺し、殺害した。

しかし、悪事はやがて露見するもので、2月20日、ついに小林カウと大貫光吉は逮捕となった。
この時、カウ52歳、それでも小太り丸顔でチャーミングなところがあったという。


(kau02.jpg)




やっぱり悪事は いつか露見してしまうものですよ。。。 逮捕されてから、カウは夫も自分で殺したと白状したのです。



。。。で、その後は どうなったのですか?

もちろん、裁判で死刑の判決がでたのです。。。 でもねぇ~、カウは「私は女だから、絶対に死刑執行はない。。。、いずれ減刑されて釈放されるわァ」と思い込んでいたのです。。。

あらっ。。。 マジで。。。?

釈放されたら、伊豆の大島に土地を買って 老人ホームを運営するんだという夢を抱き続けていたそうです。。。 なかなか頭がいい女なのですよ。。。 当時、すでに高齢化社会を見越して刑務所に居ながら金儲けのことを考えていたというのですからねぇ~。。。

。。。で、釈放されたのですか?

いや。。。 カウは15年ぐらいで出てこられると思っていたようだけれど、世の中は、なかなか思い通りには行かないものですよ。。。 1970年に死刑が執行され、女性では戦後初めて 絞首刑にされた死刑囚になったのです。

やっぱり、悪い事はできないものですわねぇ~。。。

そうですよ。。。 ネットでも、最近、素朴で純情なネット市民を騙して金儲けしようと企んでいる“コメン・トスパマー”や“いいねスパマー”。。。 更には“URLスパマー”や“お気に入り登録スパマー”までが出てきましたからねぇ~。。。


(ame60530b2.png)


『拡大する』

『きさ☆51ヶ国訪問中に注意!』




これはアメブロの僕のブログの5月24日から30日までの1週間の「リンク元URL」のリストなのですよ。。。 このリストを見ただけでも、拝金主義に凝り固まって 金儲けを企んでいる馬鹿なブロガーが多数発生しているのです。。。



でも。。。、でも。。。、まだ人殺しまではしてないでしょう?

その内、始めるかもしれません。。。

デンマンさんが、真っ先にターゲットにされるのではありませんかァ~?

大丈夫ですよ。。。 僕は、この愚か者たちから遠く隔たった所に居ますからねぇ~。。。



(foolw.gif)

 (すぐ下のページへ続く)


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白子屋お熊事件(PART 2)

2016-06-04 15:23:40 | 日本史



 

白子屋お熊事件(PART 2)



【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif)

ですってぇ~。。。
確かに、“白子屋お熊”さんのように 魅力ある女性って怖いですよねぇ~。。。

実は、あたくしも、ちょっと心配になっているのですわァ~。

なぜかってぇ~。。。?

なぜならば、“ヴィーナスのえくぼ”をゲットしたので、このところネットで あたくしに人気が集まっているのでござ~ますわよう。


(gog60409a.png)

『拡大する』

『現時点での検索結果』

 

「卑弥子 女性の本当の魅力 ヴィーナスのえくぼ」と入れてGOOGLEで検索する殿方が多いのでござ~ますわァ。

つまり、あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”を目当てにやって来るのですわァ~。。。
うふふふふふふ。。。

ジムに毎日通って“ヴィーナスのえくぼ”をゲットしたのですわよゥ。


(buttdimp5.jpg)

どうでござ~ますかァ?

ええっ。。。 あたくしのお尻だとは思えないのでござ~ますかァ~?

どうしてよう?

ええっ。。。 スタイルがよすぎると、おっしゃるのござ~ますかァ~?

あたくしが十二単を一枚、一枚脱いでゆくと、
最後には上のようなおヌードになるのですわよう。
信じてくださいましなァ~。。。

ところで、あなたは『万夜一夜物語』を読んだことがござ~ますかァ~?

“千夜一夜物語”ではなくてぇ、“万夜一夜物語”ですわ。


(manya02.jpg)

『万夜一夜物語』

デンマンさんが書いたのでござ~ますわよう。

ええっ。。。 10,001の話が書かれているのかってぇ~。。。?

とにかく、上のリンクをクリックして読んでみてくださいませぇ~。。。

あなたも、絶対にビックリするようなお話が出てきますわァ。

『万夜一夜物語』だけでは、物足りないのでしたら、
ジューンさんが登場する面白いお話もたくさんあります。

興味のある方は、どうか次のリンクをクリックして読んでくださいましねぇ~。。。



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人
(godiva05.jpg)

『やっぱり処女とおばさん』

『ウンコで走るバス』

『レダの卵』

『正月の熟女』

『新春画ネット散歩』

『愛と下着の美学』

『モナリザもビックリ』

『象が泣く』

『国際化に加速』

『美しき未亡人』

『ジューンさん、バイザイして』

『ジューンさん“いいね”が付いてるよ』

ジューンさんの熟女下着
(30june.jpg)

『床上手なのねぇ~』

『外国人SEXデンマン』

『外国人SEXデンマン再び』

『大きいことはいいことじゃない』

『デンバー直行便でジューンさんの下着』

『ジューンさんのヌードを探して』

『半分のお尻で…』

『プーフィードレス』


(sylvie122.jpg)

『万夜一夜物語』

『ゆかじょうず』

『日本語じょうず』

『モナリザがニーハオ』

『おばさんの下着がいいの?』

『なぜ、ヤノマミ?』

『マタハラ』

『マタハラとrundll32』

ジューンさんの熟女下着
(30june.jpg)

『お尻のえくぼ』

『なぜカウチポテト?』

『あなたの混浴』

『夢の出会いを求めて』

『乙女と処女』

『戦場に行くことを教えた女教師』

軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人
(godiva05.jpg)

『桜井の別れと母上様』

『ダイアモンドは女の親友』

『愛のコリーダを訳す』

『マルタ島のロマン再び』

『大前研一 奇妙な検索』

『ついに千夜一夜』

『いいね攻略と良妻賢母』

『批判が無いとヒトラーがのさばる』

『混浴入浴風景』



(roten101.jpg+cleoani.gif)

『9日間の女王』

『あなたは敬語?』

『原節子とジューンさん』

『モナリザの妹』

『ナイアガラとマリリンモンロー』

『おばさんパンツ@大晦日』

『ヴィーナスのえくぼ@ジューン』

『乳房振動とブラの研究』

『G線上のアリア』

『悲愴と白鳥』

『ブッダと千夜一夜物語』

『絹の道と千夜一夜物語』

『ヤノマミの乙女』

『ジャータカと今昔物語』

『白木屋お熊とセックス』

『パンツを売る乙女』

『床上手な女@マルタ島』

『宮沢りえとおばさんパンツ』

『マチュピチュとインディー・ジョーンズ』

『映画を愛する薄命の女』

『ベニスの騒動』

『アンネとハンナ』

『名器たこつぼ』


とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、また。。。


(hand.gif)



(chiwawa5.gif)

こんにちは。ジューンです。

スパムメールが相変わらず多いですわよね。

あなたのメールボックスにも、

ジャンクメールがいっぱい入っているでしょう!?

スパムメールを飛ばしているのは

いったい、どういう人たちなのでしょうか?

出会い系サイトのオーナーたちが多いそうですわ。

彼らは会員を集めるためにスパムメールをばら撒きます。

そのためにメールアドレスのリストを購入しています。

では、そのようなリストを販売している人は

どうやってメールアドレスを集めているのでしょうか?

ロボット(自動巡回プログラム)によって

自動収集させているのです。

ところで、サーチエンジンの自動巡回ロボットは

毎日世界中のサイトを訪問し、

その内容をデータベースに書き込んでいます。

同じように、このメールアドレス収集巡回ロボットも、

HTMLソースを分析し、

メールアドレスらしきものをどんどん記録してゆきます。

でも、使っていないメールアドレスが

たくさんあるのですよね。

あなたの使っているメールアドレスのことを

考えてください。

あなたはメールアドレスをいくつ持っていますか?

一つだけではないでしょう?

10以上持っているのではありませんか?

多分、ほとんどのメールアドレスは使ってないでしょう?

そのために、現在実際に使っている

メールアドレスを集めるために、

怪しい人物が使用度の高いメールアドレスを

集めているのですわよ。

だから、あなたもむやみに信用できない人に対して

返信しないようにしてくださいね。

詳しいことはデンマンさんが次の記事で書いています。

『コメント魔』

(2012年4月3日)



(himiko92.jpg)

ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして

覗いてみてください。

『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。 バーィ



(juneswim.jpg)


(byebye.gif)
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坂本龍馬は流れ者か?(PART)

2016-05-19 13:02:19 | 日本史

 

坂本龍馬は流れ者か?(PART 1)

 


(ryoma013.jpg)


神話化されたキャラクター


(ryoma010.jpg)

NHKの大河ドラマ『龍馬伝』が放映されるまで、龍馬が「実際に何をした人物なのか」、ほとんどの日本人はよく知らなかったのではないだろうか。
大河ドラマは歴史にもとづいたかたちをとりながらも、あくまで創作ドラマである。
だが、このようなメディアで印象づけられた人物イメージは、それまで実像を知らなかった人々が漠然と抱いていたイメージと共振すると、それが「事実」のように定着していく。

もともと坂本龍馬が「維新の功労者」であるという従来のイメージ自体が、ここまでに指摘してきたようにつくられた物語だった。
明治維新以後の近代化を肯定するために、むりやり神話化された幻想の人物像が、近代に入って独り歩きしたと言っていいかもしれない。

この龍馬神話の元をつくったのは、明治政府の要人として重要な役割を果たした板垣退助だった。
彼は、明治になってから、同郷の龍馬を「豪放磊落、到底吏人たるべからず、龍馬もし不惑の寿を得たらんには、恐らく薩摩の五代才助、土佐の岩崎弥太郎たるべけん」と惜しみ、1915年、高知の桂浜に「坂本龍馬先生彰勲碑」を建てたが、そこには板垣の撰文が刻まれている。

また、岩倉具視という説もある。
板垣と岩倉は、維新後、李氏朝鮮への侵攻をめぐって争ったことで有名だが、その二人がともに「龍馬神話」の創作、宣伝を意図していたということは、当時いずれの立場でも、明治維新後の近代化を肯定するためには、江戸時代の封建制を徹底的に否定する必要があったことを裏づけているといえよう。

また、田中光顕もも龍馬神話の創出にかかわったという説もある。
いずれにせよ坂本龍馬は明治時代に「つくられた英雄」であったようだ。

このため、実際には当時も今も不明のままだった龍馬殺しの犯人を、まずは当時もっとも順当とされた「新撰組」の犯行であるという説を否定し、明治政府の公文書では、京都見廻り組と断定することで、龍馬の英雄性はより強化された。
幕府側が封建制を打破しようとした英雄を卑怯な仕方で殺害したことを強調し、それによって「坂本龍馬」の英雄的イメージがより強化されたのである。

 (中略)

ぼくは、坂本龍馬がしばしば訪れていたいう場所をいくつか訪ねてみた。
京都三条河原町の「池田屋」はすでにビルに建て替えられ記念碑が残っているだけだが、伏見の「寺田屋」の部屋にはまだ刀傷が残ったままになっている。

さらに、長崎の丸山遊郭の料亭「花月」の部屋にも、先に述べたように刀傷が残されていた。
京都の三条龍馬通、河原町と木屋町の間にある材木商「酢屋」は、龍馬をかくまっていたことで有名であるが、先代の女主人の話では、当時、龍馬はピストルを常に持ち歩き、店の二階から発射練習をしていたという。 (略)
つまり、権力を上手に利用し、商才にたけた流れ者が、その遊興ぶりにつられた悪友たちとともに料亭を渡り歩き、遊びまわっていた姿が浮かび上がる。

そして、しばしば突然キレて、周囲の迷惑もかえりみず、刀や鉄砲を振り回す暴れん坊だったとも言える。
彼が中心になって結成した海援隊にしても、一攫千金を夢見た日本最初の武器商人であり、本当に近代的な商社をめざそうと考えていたのか、はなはだ疑問に思える。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




136-141 ページ
『江戸<メディア表象>論』
著者: 奥野卓司
2014年5月29日 初版第1刷発行
発行所: 株式会社 岩波書店





(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 今日は坂本龍馬のお話でござ~ますかァ~?


(kato3.gif)

いけませんか?

だってぇ~、坂本龍馬のことはテレビや映画で嫌と言うほど取り上げられましたわァ~。。。

卑弥子さんもNHKの大河ドラマで『龍馬伝』を観たのですか?


(ryoma011.jpg)

<iframe width="500" height="350" src="https://www.youtube.com/embed/buVyqNzZR7c" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>



もちろんですわァ~。。。 毎週、楽しみにしながら観ましたわァ~。。。 あたくしは龍馬に扮した福山雅治の熱烈なファンになりましたァ。。。 あのような殿方と今年 結婚できればと思いながら観たのですわァ~。。。 うふふふふふふ。。。



卑弥子さん。。。 卑弥子さん。。。 ヨダレが垂れてますよ。。。 僕しか見えないからいいけれど。。。、きれいなオべべが濡れてますよう。 (微笑)

そのような事はデンマンさんが黙っていれば、誰にも分からないでござ~ますわァ~。。。 んもおおおォ~。。。

とにかく、卑弥子さんが『龍馬伝』を観たのならば、話は早いですよ。。。 上の本の著者は次のように言ってるのですよ。



(ryoma014.jpg)

権力を上手に利用し、商才にたけた流れ者が、その遊興ぶりにつられた悪友たちとともに料亭を渡り歩き、遊びまわっていた姿が浮かび上がる。

そして、しばしば突然キレて、周囲の迷惑もかえりみず、刀や鉄砲を振り回す暴れん坊だったとも言える。

彼が中心になって結成した海援隊にしても、一攫千金を夢見た日本最初の武器商人であり、本当に近代的な商社をめざそうと考えていたのか、はなはだ疑問に思える。




デンマンさんは著者の意見に不満なのでござ~ますか?



確かに、坂本龍馬という人物については いろいろな解釈ができるかもしれないけれど、歴史を素直にたどってみれば もっと坂本龍馬にふさわしい人物像が見えてくるのですよ。。。 “流れ者”だとか“暴れん坊”だとか“武器商人”だとか。。。 そういう言葉は坂本龍馬にはふさわしくないのです。

つまり。。。、つまり。。。、デンマンさんは坂本龍馬の熱烈なファンなのですわねぇ~。。。!?

いや。。。 僕は卑弥子さんのようにヨダレをたらしながら話をするほどの熱烈な龍馬ファンではありません。。。 むしろ、志半(こころざしなか)ばで暗殺された龍馬を可哀想だという思いの方が強いのですよ。

確かに、満31歳の短い生涯を終えることになったのですから、本人に言わせれば無念だったでしょうねぇ~。。。

そうですよ。。。

。。。で、デンマンさんは上の著者の意見のどこに反発を感じるのでござ~ますか?

まず、卑弥子さんも次の龍馬の略歴を読んでみてください。


坂本龍馬


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天保6年11月15日(新暦・1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(新暦・1867年12月10日)

坂本龍馬(さかもと りょうま)は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。
諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬。

土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。
薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えるなど、重要な働きをした。
大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。
1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。

勝海舟との出会い


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龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られており、この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である。
だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時には既に龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会の話は海舟の誇張、または記憶違いであるとする見方が強い。

いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている。

龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助・新宮馬之助・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。
また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこの頃のことである。

5月17日付の姉乙女への手紙で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候・・・すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」と近況を知らせている。

船中八策と大政奉還


(houkan02.jpg)

いろは丸事件の談判を終えた龍馬と後藤象二郎は慶応3年(1867年)6月9日に藩船「夕顔丸」に乗船して長崎を発ち兵庫へ向かった。
京都では将軍・徳川慶喜および島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂による四侯会議が開かれており、後藤は山内容堂に京都へ呼ばれていた。
龍馬は「夕顔丸」船内で政治綱領を後藤に“船中八策”を提示した。

1.大政奉還 2.議会開設 3.官制改革 4.条約改正 5.憲法制定 6.海軍の創設 7.陸軍の創設 8.通貨政策

長岡謙吉が筆記したこれは、後に成立した維新政府の綱領の実質的な原本となった。

龍馬の提示を受けた後藤は直ちに京都へ出向し、建白書の形式で山内容堂へ上書しようとしたが、この時既に中岡慎太郎の仲介によって乾退助、毛利恭助、谷干城らが薩摩の西郷隆盛、吉井友実、小松帯刀らと薩土討幕の密約を結び、翌日容堂はこれを承認した上で、乾らと共に大坂で武器300挺の買い付けを指示して土佐に帰藩していた。
この為、大坂で藩重臣と協議してこれを藩論となした。

次いで後藤は6月22日に薩摩藩と会合を持ち薩摩側は西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通、土佐側からは坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎・福岡孝弟・寺村左膳・真辺正心(栄三郎)が代表となり、船中八策に基づいた王政復古を目標となす薩土盟約が成立した。
後藤は薩摩と密約を成立させる一方で、土佐に帰って容堂に上書を行い、これから程ない6月26日、芸州藩が加わって薩土芸盟約が成立した。

後藤は9月2日に京都へ戻ったが、イカロス号事件の処理に時間がかかったことと薩土両藩の思惑の違いから、9月7日に薩土盟約は解消してしまった。
その後、薩摩は討幕の準備を進めることになる。

事件の処理を終えた龍馬は新式小銃1,000余挺を船に積んで土佐へ運び、9月23日、5年半ぶりに故郷の土を踏み家族と再会した。
10月9日に龍馬は入京し、この間、容堂の同意を受けた後藤が10月3日に二条城に登城して、容堂、後藤、寺村、福岡、神山左多衛の連名で老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出し、幕府が時勢に従い政権を朝廷に奉還することを提案していた。
慶喜がこの建白を受け入れるか否かは不明確で、龍馬は後藤に「建白が受け入れられない場合は、あなたはその場で切腹する覚悟でしょうから、後下城なき時は、海援隊同志とともに慶喜を路上で待ち受けて仇を討ちます。地下で相まみえましょう」と激しい内容の手紙を送っている。

一方、将軍・徳川慶喜は10月13日に二条城で後藤を含む諸藩重臣に大政奉還を諮問。
翌14日に明治天皇に上奏。
15日に勅許が下された。

この大政奉還・上奏の直前(10月14日)に討幕の密勅が薩摩と長州に下されていた。
大政奉還の成立によって討幕の大義名分が失われ、21日に討幕実行延期を命じられている。

展望が見えた龍馬は10月16日に戸田雅楽(尾崎三良)と新政府職制案の「新官制擬定書」を策定した。
龍馬が西郷に見せた新政府職制案の名簿に西郷の名はあるのに龍馬の名が欠けていて、新政府に入ってはどうかと勧めると龍馬は「わしは世界の海援隊をやります」と答えたという有名な逸話がある。
だが、尾崎の史料には龍馬の名は参議候補者として記載されており、この逸話は大正3年に書かれた千頭清臣作の『坂本龍馬』が出典の創作の可能性がある。

しかしながら、龍馬本人は役人になるのは嫌とお龍に語ったとされ、11月の陸奥への手紙には「世界の話もできるようになる」ともあり尾崎の案と西郷に見せたものは違う名簿という可能性なども考えられる。
尾崎の手控とされる資料は数種あり、参議の項に坂本の名の有無、大臣の項に慶喜の名の有無などの違いが指摘されている。

暗殺


(ryoma015.jpg)

後藤象二郎の依頼で、慶応3年10月24日に越前へ出向き、松平春嶽の上京を促して三岡八郎と会談した後、11月5日に帰京した。

11月15日、龍馬は宿にしていた河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。
当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。
午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来た。

従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。
龍馬達は帯刀しておらず、龍馬はまず額を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された。
享年33(満31歳没)。

当初は新選組の関与が強く疑われた。
また、海援隊士たちは紀州藩による、いろは丸事件の報復を疑い、12月6日に陸奥陽之助らが紀州藩御用人・三浦休太郎を襲撃して、三浦の護衛に当たっていた新選組と斬り合いになっている(天満屋事件)。

慶応4年(1868年)4月に下総国流山で出頭し捕縛された新選組局長・近藤勇は土佐藩士の強い主張によって斬首に処された。
また、新選組に所属していた大石鍬次郎は龍馬殺害の疑いで捕縛され拷問の末に自らが龍馬を殺害したと自白するも、後に撤回している。

明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏し捕虜になった元見廻組の今井信郎が、取り調べ最中に、与頭・佐々木只三郎とその部下6人(今井信郎・渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂隼之助・土肥伴蔵・桜井大三郎)が坂本龍馬を殺害したと供述し、これが現在では定説になっている。

その一方で、薩摩藩黒幕説やフリーメイソン陰謀説まで様々な異説が生まれ現在まで取り沙汰されている。




出典: 「坂本龍馬」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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坂本龍馬は流れ者か?(PART 2)

2016-05-19 13:01:31 | 日本史



 

坂本龍馬は流れ者か?(PART 2)




この略歴を見ても明らかなように、坂本龍馬は薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えるなど、重要な働きをしたのですよ。



でも、冒頭にデンマンさんが引用した本の著者の奥野卓司さんは、板垣退助が龍馬神話を広めたと言っているのでござ~ますわァ。

あのねぇ~、坂本龍馬が神武天皇のように2600年以上も昔に生きていたなら、“龍馬神話”ということも考えられるけれど、龍馬が暗殺されてから、まだ150年と経過してないのですよ。。。 だから、史実に基づいて“神話”でないことは立証することができるのです。

つまり、坂本龍馬は明治維新以後の近代化を肯定するために、むりやり神話化された幻想の人物像ではなく、実際に偉大な人物だった、とデンマンさんは証拠に基づいて これからあたくしを説得なさろうとするのでござ~ますか?

その通りですよ。。。 まず、ウィキペディアの上の記述を読んで 卑弥子さんは執筆者が“龍馬神話”を書いたと思いますか?

いいえ。。。 たくさんの史実に基づいて書いたと思いますわ。

そうでしょう!。。。 ちゃんと歴史的事実に基づいて書いているのですよ。。。 決して明治維新以後の近代化を肯定するために、むりやり神話化して書いているようには見えない! あのねぇ~、もしですよ。。。、本の著者が言うように坂本龍馬が“流れ者”だとか“暴れん坊”だとか、単なる“武器商人”だとしたら、暗殺される理由がない!

つまり、坂本龍馬が そのように取るに足りない男だとしたら、誰もが無視するか、つまはじきにするだけで、誰も本気になって相手にしない、とデンマンさんは主張するのですか?

だってぇ、そうでしょう! 日本には昔から“馬鹿を相手にするな!”という格言があるのですよ!

でも。。。、でも。。。、その格言は、龍馬の暗殺は関係ないと思いますわァ~。。。

もちろん、関係ありますよ!。。。 暗殺すれば、いずれ警察のご厄介になって、悪くすれば死刑ですよ。。。 そのような身の危険まで冒して“流れ者”だとか“暴れん坊”を相手する者こそ 大ばか者ですよ!

要するに、坂本龍馬が暗殺されたのは伊藤博文が暗殺されたように、その人物は一国をもコントロールするような重要な人物だった、とデンマンさんは言うのですか?

当然でしょう!。。。 暗殺されるからには、その理由がある。。。 暗殺する場合、その暗殺に関わる者、あるいはその黒幕には重要な動機がある!。。。 命の危険まで冒すだけの重要な動機があるのですよ。

その動機とは、いったいどのようなモノだったのでござ~ますかァ~?

つまり、坂本龍馬がいなくなって誰が一番得をするのか? それを突き止めるのが先決ですよ!

当時、坂本龍馬がいなくなると誰が一番得をするのでござ~ますか?

だから、それをこれから説明するわけですよ。。。 その前に、江藤新平の略歴も読んでください。


江藤新平


(eto01.jpg)

天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)

江藤 新平は日本の武士(佐賀藩士)、政治家。
幼名は恒太郎・又蔵。
朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。
「維新の十傑」、「佐賀の七賢人」。

文部大輔、左院副議長、司法省が設置されると明治5年(1872年)には司法卿、参議と数々の役職を歴任。
その間に学制の基礎固め・四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。
特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。

政府内における急進的な民権論者であり「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。
また官吏の汚職に厳しく新政府で大きな力を持っていた長州閥の山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及、予算を巡る対立も絡み2人を一時的に辞職に追い込んだ。

だが、その一方で英仏を範とする西欧的な三権分立の導入を進める江藤に対して行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持ちプロイセン王国(後のドイツ帝国)を範とする政府内の保守派からは激しく非難された。
また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省の井上馨との確執を招いた。

明治6年(1873年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に10月24日に下野。
明治7年(1874年)1月10日に愛国公党を結成し1月12日に民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。

大隈・板垣・後藤らは江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破し慰留の説得を試みる。
しかし江藤はこれには全く耳を貸さず1月13日に船便で九州へ向かう。
江藤は直ぐには佐賀へ入らず2月2日、長崎の深堀に着きしばらく様子を見ることになる。
この一方、大久保は江藤の離京の知らせを知った1月13日には佐賀討伐のための総帥として宮中に参内し、2月5日には佐賀に対する追討令を受けている。

佐賀の乱

2月11日、江藤は佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談を行い2月12日、佐賀征韓党首領として擁立された。
そして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を計画する。

2月16日夜、憂国党が武装蜂起し士族反乱である佐賀の乱(佐賀戦争)が勃発する。
佐賀軍は県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、その約半数に損害を与えて遁走させた。

大久保利通の直卒する東京、大阪の鎮台部隊が陸続と九州に到着すると、佐賀軍は福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。
政府軍は、朝日山方面へ野津鎮雄少将の部隊を、三瀬峠付近へは山田顕義少将の部隊を前進させた。
朝日山方面は激戦の末政府軍に突破されるが、三瀬峠方面では終始佐賀軍が優勢に戦いを進めた。
また朝日山を突破した政府軍も佐賀県東部の中原付近で再び佐賀軍の激しい抵抗にあい、壊滅寸前まで追い込まれている。
しかし、政府軍は司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って士卒を大いに励まし戦い辛うじて勝利する。
この後も田手、境原で激戦が展開されるが政府軍の強力な火力の前に佐賀軍は敗走する。

江藤は征韓党を解散して逃亡し、3月1日に鹿児島鰻温泉の福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。
続いて3月25日、高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった。
このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。
しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。
手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が明治5年(1872年)に確立したもので、皮肉にも制定者の江藤本人が被適用者第1号となった。

4月8日、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌の最初から死刑ありきの暗黒裁判ともいうべき不当な裁判によって裁かれることとなった。
4月13日に河野により除族の上、梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に嘉瀬刑場において処刑された。

判決を受けたとき「裁判長、私は」と言って反論しようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとした刑吏に縄を引かれ転んだため、この姿に対して「気が動転し腰を抜かした」と悪意ある解釈を受けた。
その後、江藤の首は嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟首された。

大久保利通が撮影させた獄門に処せられた江藤新平の画像。

逸話

明治政府に仕えていた頃、40人ほどの書生の面倒を見ていたといわれ、そのため、死後に借金が残った。

江藤が出した意見書は非常に画期的で民主的である。

その代表として「国の富強の元は国民の安堵にあり」という意見書の一文がある。

江藤が処刑された後、佐賀では「江藤新平さんの墓に参拝すると百災ことごとく去る。」と城下の人々にいわれ、参拝客が多かった。
そのため、県庁が反乱の萌芽を恐れ柵を設けて参拝を禁止した。従って、夜間に参拝する者がいたという。




出典: 「江藤新平」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




なんで江藤新平を持ち出してきたのでござ~ますか?



江藤新平が消されたのは大久保利通によるものですよ。 大隈・板垣・後藤らは江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破し慰留の説得を試みる。。。 でも、江藤は大久保と対決するつもりだった。。。 それで佐賀に帰ったのです。

つまり。。、つまり。。。、坂本龍馬の暗殺の黒幕は大久保利通だ、とデンマンさんは断定するのでござ~ますか?

そうですよ。。。 坂本龍馬と江藤新平はどちらかといえば、民主主義・共和主義をよりよく理解している人物だった。。。 だから、保守派には憎まれた。。。 大久保利通は保守派の中でも特に権力志向の強い人物で、自分が“お山の大将”にならないと気がすまない人だった。

そうなのでござ~ますか?

“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”と言うけれど、大久保利通は徹底的に江藤新平を憎んだ。。。 “死人に鞭(ムチ)打つ”ほどだった。 もちろん、鞭は打たなかったけれど、それほど憎んだ。 だから、大久保利通が撮影させた獄門に処せられた江藤新平の写真がいまだに伝わっている。

あらっ。。。 そうなのでござ~ますか?

見たかったら、次のリンクをクリックしてみてください。


(gokumon.gif)

『大久保利通が撮影させた

 江藤新平の獄門首』
 (別窓)




板垣は江藤とも懇意にしていたけれど、江藤よりも坂本龍馬の死をより惜しんだ。。。 つまり、それほど坂本龍馬という人物は大久保利通の先を見ていた人物だった。。。 だから、大久保に恨まれて暗殺されてしまった。



でも。。。、でも。。。、その証拠は。。。?

状況証拠ならばありますよ!


紀尾井坂の変


(ookubo21.jpg)

紀尾井坂の変(きおいざかのへん)は、1878年(明治11年)5月14日に、内務卿大久保利通が東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で不平士族6名によって暗殺された事件。
「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」ともいう。

実行犯は石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名から成る。
その中でも特に中心的存在であるのが島田一郎である。

島田は加賀藩の足軽として第一次長州征伐、戊辰戦争に参加しており、明治維新後も軍人としての経歴を歩んでいたが、征韓論に共鳴しており、明治六年政変で西郷隆盛が下野したことに憤激して以後、国事に奔走することになる。

長は1874年(明治7年)6月に、台湾出兵について西郷、桐野利秋の見解を聞きに杉村(寛)、陸と鹿児島入りしている。
長は半年ほど鹿児島に滞在し私学校に留学している。
長は1876年(明治9年)にも鹿児島入りして桐野らと旧交を温めている。

長が帰県した10月には神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族反乱が相次ぎ、島田も金沢で挙兵計画に奔走するが失敗。
さらに翌1877年(明治10年)の西南戦争では、島田と長が協力して挙兵計画に奔走したが、周囲の説得に苦慮している間に、4月に政府軍が熊本城に入城したとの情報を得て、勝敗は決したと計画を中止した。
この後、島田らは高官暗殺に方針を変更する。

唯一の島根県人である浅井は西南戦争当時警視庁の巡査であり警視隊に属して従軍し、1877年(明治10年)8月に東京に凱旋していたが、禁令を犯して1878年(明治11年)2月に免職となり、3月に島田らの暗殺計画を知って計画に加わった。

彼らの暗殺計画は複数のルートを経て、当時の警察のトップである大警視川路利良の耳にも入っていたが川路は「石川県人に何ができるか」と相手にしなかった。

島田らが大久保暗殺時に持参していた斬奸状は、4月下旬に島田から依頼されて陸が起草したものである。そこでは、有司専制の罪として、以下の5罪を挙げている。


(ookubo20.jpg)

  大久保利通

1. 国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。
2. 法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
3. 不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。
4. 国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
5. 外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている。

斬奸状に記された「国を思う志士」とは、恐らく西郷隆盛・前原一誠・江藤新平らを指していたのだと思われる。
大久保が彼らを排斥したという指摘から、薩摩・鹿児島県人からは「西郷どんの敵」とみなされ、現在でも一部の保守層からも嫌われていると思われがちだが、実際は立憲制や国会開設に積極的だったことで、右派でも左派でもない、ほぼ中道をいく政治家だったという(出典不明)。




出典: 「紀尾井坂の変」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




島田らが大久保暗殺時に持参していた斬奸状には国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こしたと書いてある! この斬奸状に記された「国を思う志士」とは、恐らく西郷隆盛・前原一誠・江藤新平らを指していたと書いてあるけれど、当然、坂本龍馬も含まれているのですよ。。。 島田一郎たちは、その事も知っていたのです。



マジで。。。?

あのねぇ~、昔の人は言いましたよ。。。 “術を弄する者は術に溺れる”と。。。 かつて、大隈・板垣・後藤らは江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破した。。。 大久保は“術を弄する者”だったのです。。。

それで、島田一郎らの報復を受けたのでござ~ますか?

そういうことです。。。 悪い事はいつかはバレるのですよ。。。 “策士策に溺れる”のですよ!



(foolx.gif)
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