狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

裁き主キリスト「クリスチャンでなければ天国に入れない」-神を畏れよ/Christ Judge "if not Christian, you can't enter heaven." Fear God!

2021-10-25 00:30:00 | エッセイ・コラム
 <※本当の投稿日時
  True posted date & time:2021/10/24 02:50>

   (当方の都合にて、投稿日時を変更しております。
    I changed posted date and time for my convenience.)

 (2021/10/26 更新(一部修正(タイトル、本文)))




 裁き主であるイエス・キリスト「クリスチャンでなければ天国に入る事が出来ない」
  父と子(イエス・キリスト)と聖霊の三位一体の唯一の創造主を畏れよ!
 Jesus Christ the Judge "But if not Christian, you can't enter heaven."
  Fear God of the Trinity who is the Father, the Son and the Holy Spirit.


 日本人の多くが、聖書を知らない。

 聖書という言葉や書物を見かけた事は有るにしても、読んだ事が無く、それ故、その内容を知らない。

 聖書という名前から連想して、ただ単に、聖い書物としてぐらいにしか思っていないのだろう。

 綺麗な書物というイメージは、12月25日のクリスマスからも来ているのだろう。他にも、クリスチャンでは無いにも関わらず多くの若い新郎新婦が結婚式を挙げるチャペルからも来ているのであろう。

 勿論、その通り、聖書は冒す事の出来ない神聖な書物である事に間違いは無い。

 しかし、日本の世間の多くの人々の持っている聖書やキリスト教のイメージは、概ね誤解していると言えるだろう。

 こういう偉そうな事を言う僕も、実は、8歳に成る年にカトリック教会で洗礼を受けたクリスチャンであるにも関わらず、何と43歳に成る年にして初めて、自宅で自分で聖書を開き通読し始めたのであった。

 幼少時こそ教会に通っていたものの、その後、概ね遠のいてしまった。途中、33歳と半ばでの死にかけた怪我をきっかけに福音派のプロテスタント教会に一時通ったものの、未だ暫くは本当の意味では理解出来ておらず、正に形式的なクリスチャンであった。

 しかし、その今から9年前の通読時、その時も手の指の骨折で入院後の自宅療養をきっかけとしたものであったのだが、その聖書通読を通して「霊的覚醒」が得られたものと思える。

 42歳までの僕は、未だ霊的な目覚めが得られず、それ故、神様への信仰心が余り開かれ無かった事は勿論、物事の根本や本質を理解せず、社会や国際の様々な問題等にも興味を持てずに居たのであった。

 聖書通読は、人の心の目を開かせる。霊的覚醒を得た心によって、物事を見て知り、そして悟る。

 日本の世間の多くの人々が、聖書を理解していない。それ故、イエス・キリストの事も解っていない。

 日本人の多くが、無神論者である。よって、イエス様をキリスト(救世主)として信じず、イエス様を創造主である神様として崇める事をしない。

 それどころか、無神論者でありながら八百万の神を奉る。僕はクリスチャンとして、神様は三位一体で唯一のイエス様だけだと断言出来るので、八百万の神は「嘘八百」と明確に言える。

 そんな日本の世間の多くの人々が持つイエス様のイメージは、概ね誤解そのものであろう。

 今から約2000年前、イエス様が降臨されて在世されていた頃、それこそ、民衆に向けて平和や愛に関する事ばかりを述べていたと思っているのではないだろうか。そして、当時の周りに居た人々と何の差し障りも無く、誰からも好かれる八方美人として過ごされたと思っているのではないだろうか。

 キリスト教界のシンボルには、十字架が用いられている。その十字架は、イエス様が磔にされて犠牲になられた事の象徴として用いられて来た。

 因みに、イエス様が死と復活を現された後に昇天された直後の初代キリスト教界は、魚をシンボルにしていた。また、イエス様は本当は、十字架では無くT字架に磔にされたのであった。

 それはともかくとしても、イエス様は、何の罪も犯してなかったにも関わらず、イエス様を信じる全てのクリスチャンの罪を贖う為に、十字架上で犠牲になられたのである。よって十字架は、単に装飾品等と無意味な物では無いのである。

 その十字架の持つ重要な意味から、無神論者達は疑問を察する事に繋がらないのであろうか?

 イエス様がもし、誰からも好かれる八方美人であったならば、十字架に磔にされ、しかも晒し者にされながら、殺される事が無かったのではないかと。

   イエス様は何故、殺されたのか?

   イエス様は可愛いかったのか?

   イエス様は可愛こぶりっ子して猫かぶりしていたのか?

 実は、イエス様は「鬼」でもあったのだ。

 イエス様は、当時のユダヤの国の支配層、パリサイ人、サドカイ人、律法学者、祭司、長老等、今日でいうところのユダヤ教の指導者達を強烈に非難して糾弾したのだ。

 そうして、イエス様を嫌う人々がおり、イエス様を拒否する人々が居たのだ。そして終いには、イエス様を葬ろうと陰謀を謀る事に繋がった訳だ。

 また、イエス様は、この世の全ての人がこの世で肉(身体)の死を迎えた後、霊(魂)について裁判を行う。

 その裁判とは、人がこの世での死後、天国に入れるか地獄に落とされるかの判断、命令を受ける事だ。

 イエス様は「鬼」の裁判官となって、クリスチャンでは無い人々が天国に入る事を認めない。

 「鬼」でもあるイエス・キリストは、次の様に述べておられる。

 
 



  新約聖書・ヨハネの福音書14章1~6節
   「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
   わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
   わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
   わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
   トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
   イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

  The New Testament・The Gospel of John 14:1~6
   “Don’t let your heart be troubled. Believe in God. Believe also in me.
   In my Father’s house are many homes. If it weren’t so, I would have told you. I am going to prepare a place for you.
   If I go and prepare a place for you, I will come again and will receive you to myself; that where I am, you may be there also.
   You know where I go, and you know the way.”
   Thomas said to him, “Lord, we don’t know where you are going. How can we know the way?”
   Jesus said to him, “I am the way, the truth, and the life. No one comes to the Father, except through me.


 「わたしの父の家」や「わたしのもと」、「わたしのいる所」、「父のみもと」とは、天国の事を述べておられる。

 また、「わたしを通して」と述べておられるのは、イエス様を信仰する事であり、クリスチャンに成る事を指している。

 そして、「わたしの行く道」、「わたしが道」と述べておられる。つまり、クリスチャンとしてこの世で寄留者として旅を続けるというその道を歩む事によって、「父のみもと」である天国に入る事が出来ると述べておられるのである。

 よって、クリスチャンではない者は、この世での死の後に、イエス様による裁きで地獄に落ちる。

 地獄は「永遠の死」を意味し、天国は「永遠の命」を意味する。

 因みに、自殺は他殺と同様に、創造主の保有する命を殺める事になるので罪に相当するのであるが、クリスチャンである場合は既にイエス様をキリストとして信仰している事により救われているので、自殺をしても地獄に落とされる事は無いという。

 その自殺に於いても、クリスチャンでない者の場合は、地獄行きが早まるだけであると、或る福音派の牧師が聖書解説に於いて述べている。

 イエス様は、決して優しいばかりのお方では無い。

 イエス様は、大変厳しく恐ろしい「鬼」でもあるのだ。

 よって、父と子(イエス・キリスト)と聖霊の三位一体の唯一の創造主を畏れよ!

 (※ この随想であるエッセーでもあり、且つ、事実を述べてもいるこの記事は、今年5月~7月の本ブログの投稿を滞らせていた間の、7月に入った直後、僕の思想の中に浮かんでいた事を基にしたものです。よってその間、僕は何も考えずにボーッと過ごしていた訳ではありません。)

 本ブログ過去の関連記事
  2021/08/01付「本日よりブログタイトルを変更します/Blog title is changed today.:Stubborn free temporary resident's deep meditation.」

 引用聖書
  ・新改訳聖書(発行:日本聖書刊行会)
  ・新改訳新約聖書(1965年版)(発行:日本聖書刊行会)
  ・World English Bible(eBible.org)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« イエスを模範とするクリスチ... | トップ | やはり世間の多くは見聞きし... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

エッセイ・コラム」カテゴリの最新記事