狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

イエスを模範とするクリスチャンは闘う-何故キリストは殺された?/Christians who make Jesus model are fighters. Why was Christ killed?

2021-10-24 01:34:36 | エッセイ・コラム



 イエス様を模範とする本当のクリスチャン(キリスト者)は闘う者
  イエス・キリストは何故殺されたのか?
   キリスト武士道
 True Christians who make Jesus model are fighters.
  Why was Jesus Christ killed?
   Christ Bushido.


   果たして、イエス様は可愛こぶりっ子だったのであろうか?

   果たして、イエス様は猫かぶりしていたのであろうか?

   果たして、イエス様は忖度・迎合していたのであろうか?

   果たして、イエス様は平和や愛ばかりを唱えていたのであろうか?

   果たして、イエス様は八方美人であったのだろうか?

 そして、ユダヤ教徒は何故、イエス様を憎んでいるのか?

 日本の世間の多くの無神論者達に言う。十字架は決して単なる装飾品では無いと。

 チャペル、礼拝堂、教会も、決して単に結婚式を挙げる為のものでは無いと。

 クリスマスも、決して単なるお祭り、イベント、バカ騒ぎする為のものではないと。

 日本人の殆どが、無神論者である。また、仏教徒が偶像を拝んでいるだけでは無く、八百万の神という「嘘八百」の偶像の数々を、日本人の多くが拝んでいる。

 神様は唯一だ。創造主である天の父と、子であるイエス・キリストと、聖霊は、異なる位格を持つも三位一体で唯一の神様だ。

 よって、真実で唯一の神様である、創造主であるイエス様の他は、全て偽物である。

 日本人の多くが、聖書を知らない。読んだ事が無いので、その内容を全く知らない。

 しかし、この日本人の聖書についての無知蒙昧さは、世界全体からすれば、却って非常識であり、少数派に属するものだ。

 特に、国際舞台で活躍する事を願う者であれば、聖書を理解する事は欠かす事が出来ない。

 聖書について無知蒙昧な日本人達は、イエス様についても誤解している。凡そ、冒頭に掲げた通りだろう。

 しかし、イエス様が何故、十字架に磔にされて殺されたかについて疑問を持ち、真剣にその事について考えるならば、冒頭に掲げた問いを全て否定する事が出来るであろう。

 イエス様は在世時、権力を恐れず、媚びずに闘われた。

 言うべき事を言われ、非難すべき事を非難され、糺すべき事を糺された。

 自分の命を顧みず、死ぬ事を厭わず、死ぬ事を覚悟して、支配者達や世間の人達と闘われたのだ。

 イエス様が真実を述べられた事で、指導者達やそれらに煽動された世間の人達から、嫌悪され、拒否されて、十字架上での磔の暗殺に追いやられたのだ。

 しかし、イエス様が被られたその十字架の磔は、ただ単に暗殺された意味だけでは無い。

 イエス様は、イエス様を信じる全てのクリスチャンの罪の贖いとして犠牲になられた、そして、律法主義では無く、つまりパフォーマンスという行為に依らず、何をしたら良いという事に依らず、ただイエス様への信仰と恵みのみによって救われる様にリセットされた。

 クリスチャンは、イエス様の十字架上での死と共に、その後の3日目にイエス様が復活された事を信じる。そして、クリスチャンは皆、この世の死後、天国で永遠の命を得る事を信じる。

 クリスチャンは皆、信仰が深まれば深まる程、それに比例して、イエス様に似ていく様になる。

 
 



 新約聖書・コロサイ人への手紙3章9~12節
  互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、
  新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
  そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。
   それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

 The New Testament・The Epistle to the Colossians 3:9~12
  Don’t lie to one another, seeing that you have put off the old man with his doings,
  and have put on the new man, who is being renewed in knowledge after the image of his Creator,
  where there can’t be Greek and Jew, circumcision and uncircumcision, barbarian, Scythian, bondservant, or free person; but Christ is all, and in all.
   Put on therefore, as God’s chosen ones, holy and beloved, a heart of compassion, kindness, lowliness, humility, and perseverance;


 また同時に、神様から選ばれているクリスチャンは皆、イエス様を模範として生きる様になる。

 日本人の多くが、クリスチャンと言えば、大人しい人、優しい人と見ているのではないだろうか。

 確かに、その御言葉に書かれている通り、「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を持つ人々だと言えるだろう。

 しかし、優しいからと言って、全く怒らないとでも思っているのであろうか?

 イエス様が、前述の通り、周囲から嫌われて殺さる事を引き出されたのは、周囲を怒られた事が原因となっているのだ。

 しかし、この怒りについても、世間の多くがきちんと理解出来ていない。怒りと言えばすぐさま暴力や暴動、当たり散らす等と結びつけてしまう。

 クリスチャンとしては、怒る時もイエス様を見本とすべきだ。基本的に、神様の栄光を表す事が出来る様な怒り方、聖書的価値観が裏付けされた怒り、正義を伴う怒りであれば、神様が喜んで下さるだろう。

 日本の江戸幕末の改革期、思想家の吉田松陰が「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」と句を詠み、2度目の収監時に留魂録という辞世を遺した。吉田松陰は、殺される事が解りながらも、已むに已まれぬ気持ちとなり、敢えて行動に移したのだ。

 またそれは、忍耐の末の已むに已まれぬ気持ちとなってから、初めて行動に移すという意味も含んでいるのではないだろうか。

 安易な決断をする事で、軽挙妄動になってはならない。熟考し、熟慮してから決断し、行動する。

 札幌農学校に於いてクリスチャンで思想家の内村鑑三と共に学んだ、同じくクリスチャンである新渡戸稲造は、それまで不文律であった武士道をキリスト教、聖書とセットにしてアウフヘーベンし、より高い次元のものにして著書にした。その武士道精神の中でも特に重要な事は、「敢為堅忍」だ。

 堅い忍耐こそが武士道精神には大事で、その忍耐の末の、我慢の末に、初めて勇気を振るい行動を起こす。忍耐する事無く、最初から怒りの感情に任せ、武力行使や暴力といった実力行使を行う事は、却って卑怯な事だと、武士道は戒める。

 武士道は、知行合一を旨とする陽明学に通ずるものであるが、それらは共に、キリスト教精神と共通するものである。

 
 



 新約聖書・ヤコブの手紙1章19~20節
   愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
  人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

 The New Testament・The Epistle of James 1:19~20
   So, then, my beloved brothers, let every man be swift to hear, slow to speak, and slow to anger;
  for the anger of man doesn’t produce the righteousness of God.

 
 



 旧約聖書・箴言16章32節
  怒りをおそくする者は勇士にまさり、
  自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。

 The Old Testament・The Book of Proverbs 16:32
  One who is slow to anger is better than the mighty;
  one who rules his spirit, than he who takes a city.

 
 



 旧約聖書・箴言19章11節
  人に思慮があれば、怒りをおそくする。
  その人の光栄は、そむきを赦すことである。

 The Old Testament・The Book of Proverbs 19:11
  The discretion of a man makes him slow to anger.
  It is his glory to overlook an offense.

 
 



 新約聖書・ヤコブの手紙1章2~4節
   私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
  信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
  その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

 The New Testament・The Epistle of James 1:2~4
   Count it all joy, my brothers, when you fall into various temptations,
  knowing that the testing of your faith produces endurance.
  Let endurance have its perfect work, that you may be perfect and complete, lacking in nothing.


 イエス様は、神様であるが故に、完璧なお方だ。よって、イエス様の行動には、軽挙妄動やそれに伴う失敗は有り得なかった。

 一方、僕達クリスチャンは、人間でしかないので、出来るだけ失敗しない様に、やはり忍耐して考える必要が有る。決して、思いつき、一時的な感情によって行動してはならない。

 イエス様は全てを超えられるお方なので、人間の頭で知る範囲で理解する事は当然無理だ。

 それでも、人智を超えられるイエス様に出来るだけ近付きたいと努力する事が大事だ。イエス様がこの世で執られた行動を見習うのが、クリスチャンである。

 よって、クリスチャンは、イエス様と同様に、この世に於いて闘う者であると言える。イエス様を鑑として、クリスチャンは悪と闘うのだ。

 更にクリスチャンは、イエス様を模範として、この世での命を軽視して、後の永遠の命こそを重視する。肉(身体)の命よりも、霊(魂、精神)の命こそを尊重する。

 
 



 新約聖書・ヨハネの福音書12章24~25節
  まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
  自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

 The New Testament・The Gospel of John 12:24~25
  Most certainly I tell you, unless a grain of wheat falls into the earth and dies, it remains by itself alone. But if it dies, it bears much fruit.
  He who loves his life will lose it. He who hates his life in this world will keep it to eternal life.

 
 



 新約聖書・マタイの福音書16章24~26節
  それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
  いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
  人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

 The New Testament・The Gospel of Matthew 16:24~26
  Then Jesus said to his disciples, “If anyone desires to come after me, let him deny himself, take up his cross, and follow me.
  For whoever desires to save his life will lose it, and whoever will lose his life for my sake will find it.
  For what will it profit a man if he gains the whole world and forfeits his life? Or what will a man give in exchange for his life?


 1970年(昭和45年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内の東部方面総監室を占拠した三島由紀夫は、バルコニーに出て自衛隊員を前にして、叱咤激励しながら抗議する「檄」を読んだ。当時、生活第一で経済偏重になっていた日本の空気を批判し、政治家や自衛隊、そして世間の大衆に抗議する為に、自決直前に遺言として、その「檄」を遺した。

 その「檄」より、

  「『経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆく』姿、『政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆく』国となってしまったことを憂い……」

  「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。……」
   
 前述の吉田松陰と共に、この三島由紀夫や、第二次世界大戦中にアメリカ艦隊に突撃していった若干二十歳前後の特別攻撃隊の方々には、イエス様の精神性が在る事が見えるのだ。

 戦争はともかくとしても、いざとなれば自衛戦争を必要とするけども、普段からこの世で生活を送る上で、クリスチャンはイエス様を見習い、殺される事をも恐れずに、抵抗や抗議、反抗、反論をして、世間・世俗のこの世的な価値観と闘い続けなければならない。

 この世的な価値観は、悪魔的価値観であるのだから(マスゴミ(特にバラエティ番組)を見ればよく解る)。

(※ この随想であるエッセーでもあり、且つ、事実を述べてもいるこの記事は、今年5月~7月の本ブログの投稿を滞らせていた間の、7月の初め頃、僕の思想の中に浮かんでいた事を基にしたものです。よってその間、僕は何も考えずにボーッと過ごしていた訳ではありません。)

 引用聖書
  ・新改訳聖書(発行:日本聖書刊行会)
  ・新改訳新約聖書(1965年版)(発行:日本聖書刊行会)
  ・World English Bible(eBible.org)



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