狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

本日よりブログタイトルを変更します/Blog title is changed today.:Stubborn free temporary resident's deep meditation.

2021-08-01 00:00:30 | 孤独・独立・自尊心
 <※本当の投稿日時
  True posted date & time:2021/08/07 19:50>

   (当方の都合にて、投稿日時を変更しております。
    I changed posted date and time for my convenience.)

 またまた、大分ブランクが空いてしまいました。

 本日より、ブログ・タイトルを次に変更します。

  「狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考」

 これを英語に訳すと、次の様になるでしょうか。

  "Temporary resident TN who is stubbornly sticking to my own convictions, independent and freedom is deep in meditation everyday."

 TNというのは僕のイニシャルなのですが、それ以外の四字熟語等の意味は、辞書によりますと次の様になります。

  ・狷介不羈・・・自分の意志を固く守って、何者にも束縛されないこと。
    -狷介・・・頑固で自分の信じるところを固く守り、他人に心を開こうとしないこと。また、そのさま。片意地。自分を固く守って妥協しないさま。
     -狷・・・意を曲げないこと。
     -介・・・かたいこと。

    -不羈・・・1 物事に束縛されないで行動が自由気ままであること。また、そのさま。
          2 才能などが並はずれていて、枠からはみ出すこと。また、そのさま。

  ・沈思黙考・・・黙ってじっくりと深く物事を考え込むこと。沈黙して気を散らさずに、深く考えこむこと。

  ・寄留・・・一時的に他の土地または他人の家に住むこと。

 狷介不羈よりも「狷介孤高」にしようかと少し考えたのですが、傲慢と誤解されそうなのでやめました。

  ・狷介孤高・・・自分の意志をかたくなに守って、他と協調しないさま。自分の意志を固く守って妥協せず、人と交わらずに超然としているさま。また、自分の意志や流儀を固く信じて、節度を保っていること。
    -孤高・・・世俗から離れて超然としているさま。

 その「狷介孤高」は英語では、"stubborn and aloof"となるようです。
  -彼は孤高を保っている:He keeps himself above all the vulgarity around him.

 「孤高」を選ぼうとしたのは、勿論、創造主であるイエス・キリストへの信仰を持ち、聖書的価値観を持って、この世の誘惑や挑発を遠避け、堕落、退廃に陥らず、精神、心が世俗から離れて超然として、気高く生きるという意味に於いてです。

 「狷介」は、明治維新時のキリスト者である内村鑑三も、著書「基督信徒のなぐさめ」の冒頭の第二版に附する自序の中で、「狷介奇僻」という言葉で用いています。内村鑑三も自身の事を、固く自分の意志を守って人と妥協せず、捻くれて奇妙な癖を持つと述べています。

 その内村鑑三は、聖書のみに忠実であれと、直接、自分で聖書を読むべきだと、仲介者を通さずに直接、イエス様と向き合うべきだと、そして、宗教組織に属さず独りイエス様の正面に立つべきだと述べて、「無教会主義(Non-church Movement)」を掲げました。

 タイトルに付けた「狷介不羈」。神様から離れず、決してクリスチャンを辞めないという意味での、頑なさ、頑固です。
 僕の意志を固く守る頑なさは、飽くまでも、信仰心を持っていない周囲の誘惑や挑発に乗らないという事です。何者にも束縛されない自由というのも、飽くまでも、周囲の、世間の人達の奴隷にはならないという事です。

 クリスチャンとしての僕は、人の奴隷には勿論なりませんが、創造主であるイエス様の奴隷にはなるのです。よって、人の言う悪口、ナンセンスな言葉、惑わしの言葉、戯言、痴れ言、迷言、寝言、虚言、偽言には耳を貸しませんが、神様の言葉が書かれている聖書の御言葉には耳を澄まします。

 「不羈」に関してですが、僕は大した才能、能力は持っていませんが、それでも、この日本に於いては極めて希な存在、極めてマイノリティであるクリスチャンとして、世間一般からはみ出している事は確かです。この日本の世間に存在する不文律の空気という呪縛に縛られず、無神論者や他の宗教、世俗の価値観からも離れて、聖書的価値観の枠内での、その節度を保った上での自由を意味します。

 クリスチャンは皆、「寄留者」です。クリスチャンは、天からこの地上にやって来て、身体の死後、再び天に帰ります。そういう意味で、キリスト者は皆、天から一時的にこの世に降りて来て、その後、永遠の命を得て天に帰るという、この世に於いては旅人です。

 振り返ってみれば、僕はこの世で生活の糧を得る為の職場を転々として来ました。しかし考えてみれば、勿論、それは僕の忍耐不足や気まぐれな性格のせいも有りましょうが、その寄留者の姿を表して来たのかもしれません。
 この世の事に拘っても、所詮、永遠の命に比べれば、ほんの一瞬の時に過ぎません。そういう事から、仕事の種類とか職場に拘るのも、虚しく思えて来ます。

 僕がクリスチャンとして未だまだ不完全なのは、次の聖書の御言葉に答えが有るのでしょう。

 
 



 新約聖書・ヤコブの手紙1章2~4節
  私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
  信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
  その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

 The New Testament・The Epistle of James 1:2~4
   Count it all joy, my brothers, when you fall into various temptations,
  knowing that the testing of your faith produces endurance.
  Let endurance have its perfect work, that you may be perfect and complete, lacking in nothing.


 忍耐が足りないから、グルグル、グルグルと、旅を続けるのでしょう。無限の螺旋階段を登る様に、一歩づつステップを踏みながら上昇はしているのでしょうが、やはり、未だまだ失敗もします。
 狷介不羈の寄留者として、これからも日々、独り静かに黙想します。



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