狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

お上や体制側の創作した歴史とは正反対に庶民の側の歴史を明かし正史を覆した、「八」で ありサンカの血を引く八切氏・・・「サンカ生活体験記」を読んで

2014-05-11 21:51:33 | 歴史・伝統・文化
 総タイトル:【お上や体制側の創作した歴史とは正反対に庶民の側の歴史を明かし正史を覆した、「八」で ありサンカの血を引く八切氏・・・「サンカ生活体験記」を読んで】

 「もはや日本にては、本当の『史実』や『史伝』などと言うのは、後年に作られた当時の権威に迎合したものの他は何も残されてはいないのである。次々の時代に時の権力者におもねったものが、筆写されて更に書き変えられたものだけが、今度は活字本として出されている。」(本書より)。
 「サンカ生活体験記」(著者:八切止夫氏、出版社:作品社、出版日:2003/5/30)
 本書を読みました。
 「八切裏がえ史」「八切意外史」「野史辞典」お上や体制側の創作した歴史とは正反対に、八切説によって庶民の側の歴史を明かし、正史を覆した著者。グローバル化や統合、一極集中に抵抗・反抗する著者。著者は「八」の市章を持つ名古屋市の生まれで、著者自身が「八」であり「サンカ」の血を引いているものと私は思います。
 著者はサンカ小説を開拓した三角寛氏について、朝日新聞のサツ廻りの新聞記者で、研究の糸口から解明一切が警察情報であったので弾圧する側に在って、他にも官制団体に関係する等してお上の肩書きを持って威張って調査した体制側的研究であるとし、研究対象も神奈川県から関東地方だけであるとしており、著者は自身がその立場とは異なり仲間の一員の様な立場で、研究対象も「八」の本場である愛知県から三重県の東海地方であると言う。
 平氏はスメルと呼ばれたシュメールのスメラ山脈の並ぶアブダビ海(ペルシャ湾)沿岸のペルシアの首都スサより、シオン(エルサレム)を奉じ、日本へベーリング海流に乗って来た騎馬民族と、西南アジア経由で黒潮に乗って阿波の鳴門にやって来た「天」の付く古代海人族。漂着した八幡国群の平氏
 藤原氏祖先の唐を滅ぼした契丹源は元、平はペルシア、藤原は唐、橘は契丹。663年の白村江の敗戦で郭悰務将軍こと日本名・藤原鎌足が百済の進駐軍を率いて来た。
 庶民の純血日本人が進駐軍・弁髪人の混血児を産まされ、縄文日本原住民が従順な奴隷とされる前に、山海族の純日本人サンカたちは独立を保って山中へ逃げ隠れた。現在の日本人に在る奴隷根性の由来。
 サンカは絶対反権力反体制で、純日本人どうしの婚姻による純血種を保つ。サンカの反骨精神。束縛されず、自然の中で自由に、山の幸や川の幸に恵まれながら生活をしたサンカ。
 古代バビロニア語とサンカ言葉の類似
 桃(唐)から生まれた桃太郎が、サル(新羅系)、イヌ(高麗系)、キジ(百済系)を連れて隠忍と呼ばれた原住民討伐
 平将門や豊臣秀吉、徳川家康(元は世良田二郎三郎)はサンカで、地区の出。純血の強み
 「八」の出で古代海人族の血を引く八田信長(織田信長)と、同じく「八」の出の秀吉。八田氏(織田氏)の勝幡城
 忍びのアヤタチ(乱破)・ミスカシ(透破)・ツキサシ(突破)
 サンカの持つ双刃の短刀・ウメガイは秀吉の刀狩にも供出されず。掟のヤエガキ(八重書)とハタムラ。ハタは八幡で平氏(八つの赤系)と源氏(四つの白系)。「八」だけの純日本人の血を重んずるハタムラ。サンカの秘密厳守。一夫一婦の絶対
 居つかず天幕を張るセブリ生活を続けて戸籍を持たない自由人から、戸籍を作って束縛される様にシロバケ(素人化け)となってウメガイを戻す掟。
 箕つくり、笛つくり、笊つくり、簓つくり(竹細工)、茶筅つくり、茶杓つくり、釜(鍋)敷つくり、気込め(杓入れ)つくり、矢こぎ、ろうつくり、練子踏み(鋳掛屋)、簀子(すのこ)つくり、旅芸人(遊芸者:河原芝居、門付、猿回し、俵ころばし)。
 ヤモリ(山守)、イスケ(池番)、カモリ(川番人)、ノモリ(田畑番人)、ウキス(繋留船の番人)のイツモリ(五守)。
 製塩は塩尻・天尻と呼ばれ、西南渡来の<stro</strong>ng>古代海人族の限定職。
 律令国家以降、原住民は賤に落とされ、唐を滅ぼした契丹人も賤に落とされる。
 騎馬族系の蘇我氏、百済系の中大兄皇子。
 百済人の坂上田村麻呂が原日本人を東北にて追い込み、「根」である原日本人に蓋をしてしまおうと「根蓋」をする様に土を踏み固める「ねぶた祭り」
 坂東八ヶ国紀ノ川流域の菅原道真をはじめとする契丹人と原住民。
 ウメガイで十字に切って邪気を払い、死ぬことが天の神の許へ行く事であるので栄光であって悲しむ事では無いとする天神信仰


 関連文献↓↓
 Wikipedia「名古屋市」

 
 
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中央支配体制を嫌って山へ逃れた原日本人「山窩」・・・「三角寛サンカ選集・第一巻・山窩物語」を読んで

2014-05-11 15:25:18 | 歴史・伝統・文化
 渡来系では無く、元々が日本を在地とした先住民である「原日本人」を自認する山窩(サンカ)たち。その誇りを持って大和の中央政権支配体制やその後の藤原氏体制、仏教体制等を嫌って山中へ避け逃れた山窩たち……
 「三角寛サンカ選集・第一巻・山窩物語」(著者:三角寛氏、出版社:現代書館、出版日:2000/11/10)
 本書を読みました。
 著者は、朝日新聞に入社した大正15年(昭和元年、1926年)から、社会部記者(事件記者)として警視庁捜査課に張り付き、山窩の犯行を疑う事件の捜査等を取材した著者は山窩への関心を深めて山窩の研究に入り、山窩小説を開拓しました。
 大らかで自然の中に溶け込んで自然と調和し、ヤエガキやハタムラと言う厳しい掟が存在し、健全なサンカ社会を守る意義から早婚で処女と童貞の結婚と厳重な一夫一婦の掟が在って、それとは反対に戦後のアメリカナイズされて乱れて退廃的となった現代社会への啓蒙にもなるとの著者の思いから、その健全で清いサンカ社会を紹介する小説やノンフィクションを作家として、亡くなる昭和46年(1971年)まで世に送り出しました。
 山窩(サンカ)の犯行を疑う事件は生粋(はらこ)の山窩では無く、サンカ社会に紛れ込んで悪事を働くマガクレであった事。著者が世に山窩小説を出す以前は、普通人・一般人と異なってジプシーの様に定住せず体制からはみ出した生態からその様に誤解する風潮や傾向が有りました。
 マガクレは山窩の中に逃げ込んで、流れ者としてかくまわれる間に忍びの手を覚えて山窩の固い結束を悪用。また、山窩の瀬降(セブリ)に在る正面炉と自在鉤の存在が、マメツ(河原乞食)と全く異なる特徴。
 日本全国どこにでも山窩は現存し、中でも東京が最も多く、次が静岡、神奈川。上州、信州、千葉にも相当数が存在。また関東が最も多く、次が中国地方。東京の郊外の至る所に山窩が存在
 山窩は箕作り・竹細工・木地作り・茶筅削り・簓削り・笊師・鋳掛屋・猿回し蝮取り等の一芸一能を持つ。瀬降と言う天幕小屋とその入口の切炉(正面炉)と天人(テンジン)と言う自在鉤が山窩の特徴。また、山窩のシンボルであるウメガイと言う双刃(もろば)の山刀を持つ。優秀な出雲鉄の存在。山窩は自分たちをテンバ(転場者)と言い、一般人にとけ込む事をトケコミと言う。忍びの手
 入口に炉を切る正面切りの始まりは、山窩から出た彦根藩の隠密・伊賀万蔵の瀬降。伊賀の国見山をはじめ鈴鹿峠にかけて、物見の者が瀬降を張る。
 丹波の大ヤゾウ(総元締)である乱破道宗が、全瀬降に向けてハタムラを定める。出雲族と密接な関係。
 軽身の術(後の忍術)、「乱破」・「透破」・「突破」の三家。
 豊臣秀吉の父・木下弥右衛門は因幡の箕作りで、樹蔭(コノカゲ)を木下に変えた山窩の出。丹波で軽身・忍び等を修養した同じ流れの者が山窩の秀吉の戦に加わった。戦国時代に物見、国見、樹蔭等の瀬降の忍び筋の活躍。信長、秀吉、家康、信玄等は競って山窩の忍び筋を抱えて隠密刺客として使い野望を遂行。斎藤道三も山窩の出。秀吉は自分の箕作りの素性が暴露されるのを恐れ、それを隠す為にそれを知る者や丹波・丹後・因幡・伯耆等の山窩たちを抹消し滅ぼした。
 同族を滅ぼした裏切り者として豊臣家に反感を持っていた身殻別(箕作り)の一族を徳川家康が利用し、伊賀者・甲賀者を組織。
 鈴鹿と不破の関所の在った鈴鹿山脈は関西と関東を両断して軍事上重要であり、そこに物見山、国見山が存在。
 西行(サイギョウ)は武蔵言葉で、オオヤゾウのいる西の丹波への連絡密報を行ない、美濃紙に指令の暗号や記号をミョウバンで炙り出しを書いた白紙の紙を懐深く収めて持参。
 自然の理に適った座位分娩で産婦人科の医師が不要のサンカ社会。自然の薬草やヤキサゴ(焼石)、薬草・焼石を入れたヤキユの入浴・足浴、ユサバリ床の地面に落葉を集めて床上の表面を焼くユカヤキ保健衛生方
 仏教渡来以来の死を悲しむ思想と反対に、死を悲しんではならない慣習が在り、喜んで神とし、神は高い所、貴き魂とした。人は生を授かって生きているが、いずれは天に帰って行くと言う思想。榊と水を献じ、ウメガイを十字に切って邪気を払う。


山窩物語 (三角寛サンカ選集)山窩物語 (三角寛サンカ選集)価格:¥ 3,024(税込)発売日:2000-11



戦乱の下剋上の世に活躍した賤民の技能者たち・・・「鉢屋秀吉〈第1部〉陰の一族・〈第2部〉筋者の道」を読んで

2014-05-11 03:44:17 | 歴史・伝統・文化
 総タイトル:【戦乱の下剋上の世に活躍したの技能者たち・・・「鉢屋秀吉〈第1部〉陰の一族・〈第2部〉筋者の道」を読んで】

 「弥勒下生の世」の到来を待ち望むたち。終末期にイエス・キリストの再降臨を待ち望む現在と同様に……
 「鉢屋秀吉〈第1部〉陰の一族・〈第2部〉筋者の道」(著者:黒須紀一郎氏、出版社:作品社、出版日:2001/6/20・2001/10/20)
 本書を読みました。
 中央から離れて流された者が多く移り住んだ関東の地に、虐げられていた武士が最初に建てた鎌倉幕府。その後の南北朝の動乱以降の、戦国時代における戦乱の下剋上の世に活躍したの技能者たち。そのの裏の活躍によって、日本の方向付けが成されたと言っても良いと思います。
 本書は教科書的歴史に対する多くの「裏日本史」的な存在のものを参考文献として用いている為に、より史実に近いものと私は思います。特に、に関して表の歴史はタブー視している為に、そのに関して理解されないどころか却って誤解を招いてしまっているのではないかと思います。しかし、は下層であるが故に社会の底辺・ベース・根幹を握っており、特に戦乱の世に在ってはその、及びその出自の者によって左右された様に思います。本書には、そのの歴史、秀吉がの出で、その秀吉に多くのが協力して秀吉を出世させた事が在ります。
 以下、本書の内容からの一部要約。
 7世紀の日本の人口は約540万人、その内に渡来人の占める割合が85%以上
 白村江の戦いで敗れた倭国は、済からの亡命貴族を多数受け入れ、近江に遷都した。この大津京は百済の亡命政権近江は渡来人の幽宮で、後に忍びの甲賀衆、石積みの穴太衆、近江商人、流通の堅田湖賊、坂本の馬借等
 流民・浮浪人達は、医薬師、鍛冶師、木地師、杣師、遊芸人等の技能者として飢えを凌ぐ
 672年の壬申の乱を経ての中央集権国家成立で、倭国が日本に。天皇・貴族・僧侶と、税を収奪される農民、そして国の体制からはみ出した浮浪人の3種類の人達の誕生。酷税と労役から逃れて山野に隠れ住む者達が多数出た。
 古代政界の大立者・藤原不比等と浮浪人の棟梁・役小角との戦いの結果、「山の民」は敗れて畿内の行場・仕事場を追われて、比叡山西麓山地・愛宕郡小野郷の八瀬、琵琶湖東の山岳地帯・小椋郷、伯耆大山、出雲、信州・八ヶ岳等に移り住む。採薬、採鉱、猟、箕作り、竹細工等。役小角(役行者)は修験道・山伏の開祖
 伯耆の行者兵法集団の棟梁・飯母呂石念の登場。飯母呂衆は行者忍術を用いて、生活の糧を得る為に各地の戦乱に加担。生きる術。
 藤原氏全盛時、朝家・公家・寺家の栄耀栄華とは対照的な、庶民の哀れな生活。藤原道長と山上憶良の詩。
 939年、平将門と藤原純友の天慶の乱。東の山人と瀬戸内の海人による藤原打倒。遠祖・役小角からの藤原氏に対する積年の恨みを持ち、「弥勒下生の世」の到来を待望する飯母呂衆の参加。坂東八ヶ国(常陸・下野・上野・上総・下総・安房・相模・武蔵)と伊豆の関東一円の新皇・将門
 追われ山中に隠れ住む飯母呂衆の糊口を凌ぐ為の野盗化に対し、空也托鉢での生計を立てる事を教える。鉢屋、八の者、茶筅、と「異形の一族」として蔑まれて呼ばれる。又、盗賊の手口を知り抜く鉢屋衆を検非違使の末端としての採用にも努めた。
 漂泊の技能者、歩き筋。鍛冶師、木地師、杣師、穴太衆、番匠(大工)、鋳物師、播磨衆(土木工事)、馬借・車借(輸送)絵師、薬師等
 空也の流れを引き継ぐ、鎌倉期の一遍の起こした時宗の信者・阿弥衆には鉢屋衆も流れる。能の観阿弥・世阿弥、田楽の増阿弥、庭師の善阿弥、連歌の良阿、僧侶・遣明船の正使の祖阿、香・茶の千阿弥(千利休の祖父)、立花の立阿弥等、優れた芸の者達。室町時代以降で将軍に近侍して雑務や芸能に当たった阿弥衆は同朋衆とも。
 役小角を始祖とする賎の民、遊行僧、乱破・透破・突破の忍び、「歩き筋」の技能者・芸能者。その内の飯母呂衆が鉢屋、阿弥衆となって、弥勒下生の世を求めながら戦乱の中を生き抜く。
 中世の頃、表向きは鉄砲や硝石、異国の珍品等による商売とキリスト教布教を目的に世界を廻ったポルトガルとイスパニア(スペイン)の裏の目的である「奴隷狩り」。江戸時代の鎖国以前まで日本人の奴隷が輸出される中、奴隷を売り飛ばし民から搾り取る公家や大寺社の坊主や神官がその犠牲者とされる事を願う弥勒下生の世を待ち望む賎民たち。
 世人が「尾張のうつけ者」と嘲笑する織田信長は、平氏の血筋で渡来・遊牧騎馬民族の「渡り」の血で同族。既成勢力、仏教の権威・覇権主義に憎悪を抱いていた信長は、酒色に溺れ腐りきった比叡山の焼き討ち。石仏を破壊して城の石垣に使用。朝廷、貴族、寺社の既得権益を廃した楽市・楽座
 秀吉の母・仲(後の大政所)美濃の鍛冶師・関兼貞の娘。父は織田家の足軽(雑兵)の木下弥右衛門でその亡き後の仲の再婚相手は同朋衆・竹阿弥。しかし弥右衛門も継父で秀吉の父母は定かで無く、野合の子で幼名も無き「怪しの民」の子(賎民の子)とする中世~江戸初期の史書有り。鉢屋阿弥衆の歩き筋の出の秀吉。歩き筋への優遇で賎民・阿弥衆の安穏の地となった長浜。秀吉に「弥勒下生の世」の到来の可能性の希望を抱く歩き筋の者たちが、同族の繋がりから各地の歩き筋のカスミが秀吉の出世を協力
 斎藤道山は丹波の探り筋(忍び)の同族で、一介の貧しい油売りから美濃を乗っ取る。 大名である武家も、野伏・山伏の卑賤の出
 忍びによる「裏の戦」。諜報、攪乱、奇襲。修験、出家、虚無僧、振り売り(行商人)、放下(遊芸人)、猿楽(歌舞芸)、傀儡師の歩き筋で諸国を廻る。忍びの事を甲斐では三ツ者、出雲では鉢屋、尾張ではひき猿。
 美濃の茜屋・鉱山師で歩き筋の血筋の出の竹中半兵衛(重治)は、杣師や鍛冶師と深い繋がり。
 長年の京の都の生活で足利尊氏の坂東武者の様から変貌し、権謀術数を身に付けて公家化した室町幕府将軍・足利家の、最後の将軍・足利義昭
 平将門の乱の後逃れた出雲鉢屋を重用した山中家
 薬師・目薬屋の血筋・黒田官兵衛(孝高)は北近江・賤ヶ岳山麓の黒田村の出で、その前は近江小椋の里で同族の歩き筋
 裏切りや密会を好み、諜略・策謀・計略を得意とした明智光秀
 藤原公卿の策謀の血を色濃く持った近衛前久
 徳川家康は、建武の乱で滅んだ上州新田氏の支流・江田氏の後裔流浪の身・阿弥衆となった父と簓者(念仏を唱えて歩く遊行者)との子国松で、後に両親と別れて母方の祖母の簓者に育てられ、その後に人商いに騙されて売られた同じ歩き筋の願人坊主にこき使われ、それと別れた後に世良田二郎三郎と名乗った。人質となっていた松平元康の嫡男・竹千代を誘拐し、元康亡き後にその家臣がその死を隠蔽する為に、その子を連れて乗り込んで来た二郎三郎を松平元康(後の徳川家康)の替え玉とした。因みに新田氏の支流には、江田氏の他に世良田氏、得川氏。
 観阿弥の母が姉妹の楠木正成は、ゲリラ戦を得意とした忍びの出。建武からの乱世の中、寺社・武家、百姓、の差別を無くす。
 藤堂高虎は近江の忍び筋の出で、穴太衆とも関わり。
 秀吉の原点・八瀬の抹消と千利休切腹は、秀吉の素性を消す為なのか。
 徳川家康は、同族の秀吉の母・大政所(仲)の後継者で秀吉の正室・北政所(お寧)を守る。関ヶ原の戦いでの家康派と秀吉の側室・淀派との対立。


鉢屋秀吉〈第1部〉陰の一族鉢屋秀吉〈第1部〉陰の一族価格:¥ 1,944(税込)発売日:2001-06