狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

中央支配体制を嫌って山へ逃れた原日本人「山窩」・・・「三角寛サンカ選集・第一巻・山窩物語」を読んで

2014-05-11 15:25:18 | 歴史・伝統・文化
 渡来系では無く、元々が日本を在地とした先住民である「原日本人」を自認する山窩(サンカ)たち。その誇りを持って大和の中央政権支配体制やその後の藤原氏体制、仏教体制等を嫌って山中へ避け逃れた山窩たち……
 「三角寛サンカ選集・第一巻・山窩物語」(著者:三角寛氏、出版社:現代書館、出版日:2000/11/10)
 本書を読みました。
 著者は、朝日新聞に入社した大正15年(昭和元年、1926年)から、社会部記者(事件記者)として警視庁捜査課に張り付き、山窩の犯行を疑う事件の捜査等を取材した著者は山窩への関心を深めて山窩の研究に入り、山窩小説を開拓しました。
 大らかで自然の中に溶け込んで自然と調和し、ヤエガキやハタムラと言う厳しい掟が存在し、健全なサンカ社会を守る意義から早婚で処女と童貞の結婚と厳重な一夫一婦の掟が在って、それとは反対に戦後のアメリカナイズされて乱れて退廃的となった現代社会への啓蒙にもなるとの著者の思いから、その健全で清いサンカ社会を紹介する小説やノンフィクションを作家として、亡くなる昭和46年(1971年)まで世に送り出しました。
 山窩(サンカ)の犯行を疑う事件は生粋(はらこ)の山窩では無く、サンカ社会に紛れ込んで悪事を働くマガクレであった事。著者が世に山窩小説を出す以前は、普通人・一般人と異なってジプシーの様に定住せず体制からはみ出した生態からその様に誤解する風潮や傾向が有りました。
 マガクレは山窩の中に逃げ込んで、流れ者としてかくまわれる間に忍びの手を覚えて山窩の固い結束を悪用。また、山窩の瀬降(セブリ)に在る正面炉と自在鉤の存在が、マメツ(河原乞食)と全く異なる特徴。
 日本全国どこにでも山窩は現存し、中でも東京が最も多く、次が静岡、神奈川。上州、信州、千葉にも相当数が存在。また関東が最も多く、次が中国地方。東京の郊外の至る所に山窩が存在
 山窩は箕作り・竹細工・木地作り・茶筅削り・簓削り・笊師・鋳掛屋・猿回し蝮取り等の一芸一能を持つ。瀬降と言う天幕小屋とその入口の切炉(正面炉)と天人(テンジン)と言う自在鉤が山窩の特徴。また、山窩のシンボルであるウメガイと言う双刃(もろば)の山刀を持つ。優秀な出雲鉄の存在。山窩は自分たちをテンバ(転場者)と言い、一般人にとけ込む事をトケコミと言う。忍びの手
 入口に炉を切る正面切りの始まりは、山窩から出た彦根藩の隠密・伊賀万蔵の瀬降。伊賀の国見山をはじめ鈴鹿峠にかけて、物見の者が瀬降を張る。
 丹波の大ヤゾウ(総元締)である乱破道宗が、全瀬降に向けてハタムラを定める。出雲族と密接な関係。
 軽身の術(後の忍術)、「乱破」・「透破」・「突破」の三家。
 豊臣秀吉の父・木下弥右衛門は因幡の箕作りで、樹蔭(コノカゲ)を木下に変えた山窩の出。丹波で軽身・忍び等を修養した同じ流れの者が山窩の秀吉の戦に加わった。戦国時代に物見、国見、樹蔭等の瀬降の忍び筋の活躍。信長、秀吉、家康、信玄等は競って山窩の忍び筋を抱えて隠密刺客として使い野望を遂行。斎藤道三も山窩の出。秀吉は自分の箕作りの素性が暴露されるのを恐れ、それを隠す為にそれを知る者や丹波・丹後・因幡・伯耆等の山窩たちを抹消し滅ぼした。
 同族を滅ぼした裏切り者として豊臣家に反感を持っていた身殻別(箕作り)の一族を徳川家康が利用し、伊賀者・甲賀者を組織。
 鈴鹿と不破の関所の在った鈴鹿山脈は関西と関東を両断して軍事上重要であり、そこに物見山、国見山が存在。
 西行(サイギョウ)は武蔵言葉で、オオヤゾウのいる西の丹波への連絡密報を行ない、美濃紙に指令の暗号や記号をミョウバンで炙り出しを書いた白紙の紙を懐深く収めて持参。
 自然の理に適った座位分娩で産婦人科の医師が不要のサンカ社会。自然の薬草やヤキサゴ(焼石)、薬草・焼石を入れたヤキユの入浴・足浴、ユサバリ床の地面に落葉を集めて床上の表面を焼くユカヤキ保健衛生方
 仏教渡来以来の死を悲しむ思想と反対に、死を悲しんではならない慣習が在り、喜んで神とし、神は高い所、貴き魂とした。人は生を授かって生きているが、いずれは天に帰って行くと言う思想。榊と水を献じ、ウメガイを十字に切って邪気を払う。


山窩物語 (三角寛サンカ選集)山窩物語 (三角寛サンカ選集)価格:¥ 3,024(税込)発売日:2000-11




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