最後は悪代官も悔い改めるのが黄門さん流
超ロングランを続けた「水戸黄門」シリーズ。
典型は黄門さんと引き連れた助さん、格さんが・・・「この印籠が目に入らぬか!・・」と言って水戸のご老公が登場。悪代官を裁く場面である。最初はいろいろと言い訳、弁明をする悪代官も、黄門さんの裁きに屈服、大概悪代官も悔い改めて赦免してもらってめでたし、めでたしで終わる。
悪代官、大概は私利私欲で弱い者いじめをする。年貢を強制的に取り立てるとか、悪い商人の便宜を図る・・・etc. 最後は黄門さんの正しい裁きにひれ伏して終わる。
水戸光圀公とその精神
水戸黄門のモデルは水戸光圀公・・・ドラマのように全国行脚をしたかといえば、それはなかったようだが、徳川幕府や全国の諸藩の治世には随分関心を持っていて、口出しもしたようである。
水戸光圀公の思想のもとは何かというと、一つは「太平記」南北朝時代、楠木正成の活躍などを描いた軍記ものである。江戸時代は「太平記読み」というのが流行って、楠木正成の治世や軍事の在り方が武家の教科書になったという。それからもう一つは儒学、当時幕府の御用の学問が中国の朱熹のまとめた朱子学が主流だったが、やはり江戸時代の初期に入ってきた王陽明の心学の影響も大きかった。これらの思想に共通するのは、知性というのは民をいかに幸福にしてやるか!ということである。民の生活を豊かにするために産業の啓発や教育の充実を図って行くというのが基本であろう。そして何より治世を預かる役人の教育に力を入れた。不公平な税制や、差別的な治世は良しとされなかった。役人倫理の確立を図ったのがその基本であった。
だから悪徳な代官をお仕置きするストーリが―生まれて来たのであろう。
悪代官よろしく「参加はならん!」とのお触書
「家庭連合」ブログ村は神山会長メモリアル参加に関係する酷い公文で炎上している。HOPEもその一役を買っているかもしれない。
どうも、家庭連合本部の役職者はまるで悪代官様のような役どころになっている。黄門さんに助さん格さんの役が誰かはわからないが、精誠を尽くした先輩家庭の聖和式に参加はならんという、理不尽なお達しに一般教会員食口はその心を相当傷つけられたのは確かであろう。
お役人の役どころ
確かにお役人というのはお上の命令には逆らえない。かの公文を書いて送った教会本部スタッフも、良心の呵責を感じながら止む無く書いて送ったのかもしれない。文面を見ると何かぎこちない。無理やりUCI(いわゆる郭グループ)と遠慮気味であった。
現実的事実が、そのような言葉にふさわしくないということは百も承知で書いた文章のようである。
とにかく無理がある。徳野会長の分派批判のビデオもすっかり使い古したもので新鮮味は全くない。すでに信ぴょう性を疑われ、改竄を指摘されているような資料を後生大事に使っている、全く説得力の無いものだった。
なぜそのようにまでした、敬虔な神山会長の追悼の場を汚し妨害する挙に出たのか?東京都の豊洲移転問題ではないが、背後の「巨悪」がそうさせているのか?
・・会長も可哀そうな役どころ?
思えば・・会長も可哀そうな方かもしれない。あまり個人攻撃して行き場がなくなってもみじめであろう。できればご本人自らが、自らの非を悟り、悔い改めて再出発すべきであろう。
当ブログのHOPE子もあまり激しい争い事は好まない。できればことを穏便に済ませたい。ただ、誤りは誤りとして指摘してその誤りを正してかなければならない。
それは涙ぐましい歩みをしてきた日本の食口たちがその苦労に報われることなく終わってしまわないように切に願うからである。
器量が狭いのか?
はっきり言って・・会長は器量が狭いのか?先日あるブログでパナソニック凋落の原因はあの事業の神様と言われた松下幸之助さんの娘婿の器量の狭さにあったという見解を見た。
時として、人は自らの名誉や権限を守るために自らの意に沿わない人間を粛清したり、解任したりして保身に走ることがよくある。「黄門さん」に登場する悪代官なども大概その類かもしれない。
根っからの悪人ではないのだろう。
とにかくお役人政治は弊害が多い。できれば父母の心、仁の心に満ちたトップが陣頭指揮で徳政を敷くというのがいいのかもしれない。
教会組織も時とともに利権が拡大して、自らの保身や利権を守ろうとする輩が増えて来たのは確かである。真のお父様の永遠の真理と善の追求心とは関係ないところに幹部たちの思いや願いが言ってしまっていたことは確かである。その矛盾が一挙に噴出したのが2008年から2009年の出来事であった。
我々の「良心」が我々の「黄門さん」
今我々を正しく導いてくれるのは我々の良心である。我々の良心が「黄門さん」である。
今日の「今日の訓読のみ言友の会 」さんのみ言は「良心が躊躇することをしてはならない(3月23日)」というみ言であった。
心して読もう。
みなが良心に問て間違いがない歩みをなせるようになれば自ずと本然の世界に近づいていくだと思う。