現代文訳②
二、有田上村から申し出て来た内容は、前記の山の事は、当村領の奥地ヶ谷の口より霞ヶ谷まで、奥に滝の有る所迄で、谷川の水の流れも一つで、よその領地から紛らわしく入り込む谷筋などは今までも無く、勿論前記の谷の内は当時山も川も荒れ放題でしたが、役人の御検地も請けており、昔は奥孫九郎と言う人が、谷の口から霞ヶ谷の奥まで、田畑も山林も残らず先祖より持ち伝え、所持していましたが、跡継ぎの子供がいないので、方々へ売り払いましたと申しておりますが、こういう言い分では如何なものかと存じます。
この霞ヶ谷と言う谷は、昔から山ばかりでも無く、当 上村の百姓尾崎の弥次え門、宮尾の重太郎、小河の伝え門等の先祖の代には、谷筋で山や畑を耕作し、芋や雑穀など作り、所持していましたが、イノシシや鹿が荒らし廻り、次第に山林になってしまったと聞き伝わっていて、今でも谷筋では山畑の荒れた跡もございます。
上記三人とも、跡継ぎが無く、方々へ売り払いましたが、前記滝の上の山は、宮尾の重太郎から高岡の甚作と言う者へ売り渡し、甚作が所持してましたが、これも跡継ぎに恵まれず、隣村の田並浦・孫四郎へ売り、同人から串本の幸右え門へ売り渡したもので、その時期は幸右衛門の所持でした。
前段に述べた様に、相談の上入札で上わ木を売った次第であります。有田上村より、谷の内は残らず、奥孫九郎(有田の人)が所持していたと申し出ていますが、霞ヶ谷は前記の通り、昔は当村の弥次え門・重太郎・伝之右え門三人の所持でしたが、霞ヶ谷の内には、御検地を請けた場所も有ると言う事は当村の者で聞き伝えた者もいません。谷川の流れ一筋で、奥に滝一ヶ所有るところ迄、紛らわしい点も無く、右の滝を限りに境界を分け、滝より上は当村領分で、滝より下は有田領分で、双方取り合わせの境界となっていて、昔から支配してきた事に紛れございません。
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