古文書に親しむ

古文書の初歩の学習

第二十章 乍恐奉申上返答口上覚控え 其の六十九

2014年03月15日 19時10分15秒 | 古文書の初歩

「乍恐奉申上返答口上覚控」 其の六十九

④現代文訳

四、 有田上村から言って来たのは、「田並上村から下浦(しもうら)の孫四郎へ売り渡したと言う古い証書を添付して、串本の幸右衛門が買い受けた時の古証書には、『有田領奥地ヶ谷の奥、霞ヶ谷の口』と書き入れが有り、勿論村役人の印鑑を押しているので、当村領でございます。

仮に田並上村領であれば、前記の通り認める筈も無く、其の上、村役人が印鑑を押す事は無く、只今は山川の様な荒れ地ではございますが、滝の尻まで御検地など受けて、田畑も有り、谷川の流れも分かり、谷の内は残らず当村(有田上村)領に間違いなく、田並上村からかれこれ言うのは、間違いで且つ心得違いで御座います。」との内容を申し出でました。


第二十章 乍恐奉申上返答口上覚控え 其の六十八

2014年03月14日 21時28分05秒 | 古文書の初歩

現代文訳③

三、有田上村から申して来た内容は、先年、全ての山林へ二歩銀の税を仰せ付け為された際、前記の山の二歩銀税を、田並上村へ取り立てした件は、田並上村から下浦の孫四郎へ売り渡したので、間違いだったので証拠にはならないとの申し出でした。

この事は、先年山林に対する二歩銀をお取り立ての際、奥地ヶ谷の滝より下(しも)は有田領であって、当村の百姓、紋右衛門・常蔵が所有の山林について、二歩銀を有田上村から取り立てて納めました。滝より上(かみ)霞ヶ谷は当村領分で、当村から二歩銀を取り立てました。有田上村から、間違いなどと言ってくるのは如何なものかと存じます。

注・我ながら説明になっていないと思いながら、書いています。この辺りが昔の文章の難しいところです。今日はここまで。最近は多忙で投稿も滞りがちになっています。悪しからず。

 


第二十章 乍恐奉申上返答口上覚控え 其の六十七

2014年03月11日 21時57分06秒 | 古文書の初歩

現代文訳②

二、有田上村から申し出て来た内容は、前記の山の事は、当村領の奥地ヶ谷の口より霞ヶ谷まで、奥に滝の有る所迄で、谷川の水の流れも一つで、よその領地から紛らわしく入り込む谷筋などは今までも無く、勿論前記の谷の内は当時山も川も荒れ放題でしたが、役人の御検地も請けており、昔は奥孫九郎と言う人が、谷の口から霞ヶ谷の奥まで、田畑も山林も残らず先祖より持ち伝え、所持していましたが、跡継ぎの子供がいないので、方々へ売り払いましたと申しておりますが、こういう言い分では如何なものかと存じます。

この霞ヶ谷と言う谷は、昔から山ばかりでも無く、当 上村の百姓尾崎の弥次え門、宮尾の重太郎、小河の伝え門等の先祖の代には、谷筋で山や畑を耕作し、芋や雑穀など作り、所持していましたが、イノシシや鹿が荒らし廻り、次第に山林になってしまったと聞き伝わっていて、今でも谷筋では山畑の荒れた跡もございます。

上記三人とも、跡継ぎが無く、方々へ売り払いましたが、前記滝の上の山は、宮尾の重太郎から高岡の甚作と言う者へ売り渡し、甚作が所持してましたが、これも跡継ぎに恵まれず、隣村の田並浦・孫四郎へ売り、同人から串本の幸右え門へ売り渡したもので、その時期は幸右衛門の所持でした。

前段に述べた様に、相談の上入札で上わ木を売った次第であります。有田上村より、谷の内は残らず、奥孫九郎(有田の人)が所持していたと申し出ていますが、霞ヶ谷は前記の通り、昔は当村の弥次え門・重太郎・伝之右え門三人の所持でしたが、霞ヶ谷の内には、御検地を請けた場所も有ると言う事は当村の者で聞き伝えた者もいません。谷川の流れ一筋で、奥に滝一ヶ所有るところ迄、紛らわしい点も無く、右の滝を限りに境界を分け、滝より上は当村領分で、滝より下は有田領分で、双方取り合わせの境界となっていて、昔から支配してきた事に紛れございません。

このブログは、本日1000回の節目を迎えました。いつもアクセス戴きありがとうございます。

 


第二十章 乍恐奉申上返答口上覚控え 其の六十六

2014年03月10日 21時49分28秒 | 古文書の初歩

現代文訳①

田並上村庄屋(村長)長蔵から、有田大庄屋深美嘉左衛門宛て返事の文書です。

一、我が村の領内である、霞ヶ谷の入り口の滝の上の山は、串本浦の幸右衛門と言う人が所持しておりますが、今年の春は米・麦の値段が上がり、小百姓達は稼ぎの方法も無く、困っていますので、前記の山に植えている樹木を活用して、稼がせて下さいますれば、少々ながらでも稼ぎも出来て、小百姓どもの助けになりますのでと、山主の幸右衛門さんへ相談し、納得の上、入札をして上木(植えている木)を売却し、稼がせてあげましたところ、有田上村の領分だと申し出、文書をもって大庄屋様へ願い出でました件に付きましては、田並上村領に相違ございませんので、昔は誰々の所持で、そこから誰々へ売りましたと言う事情、その他田並上村領と申す筋道だと言う事情が有れば、申し出る様仰せなされ承知致しました。そこで詳しい事情を、次に申し上げます。

解説・・・昔の文章の特徴。 a.句読点が無い。 b.送り仮名が無い。 c.一つの文章の切れ目が少なく、長々と続く。 d.候文である。 e.漢文スタイルで、下から上へ返って読む場合が有る。 f.1つ書き文。

注・・・2013年12月25日付け、本章其の六、第一ページ、十一行目、「領と申す尓」と読みましたが、「申す条」と訂正します。私の説ですから本当の読みは分かりませんが、「条」と読めば、意味は「筋道」となります。


第二十章 乍恐奉申上返答口上覚ひかえ其の六十五

2014年03月09日 09時42分58秒 | 古文書の初歩

「乍恐奉申上返答口上覚控え」第十二頁、上の署名宛名欄

 

ご無沙汰致しました。昨日八日、パソコン回復しました。久し振りの縦書きブログの登場で、十二日ぶりの復活です。また宜しくお願いします。休み中も、多くの方がアクセスして下さいました。有り難うございます。今日は、本文最後の署名・日付・宛名欄の文書の画像を見て下さい。

 

本日は、其の六十三で既に解読済みの部分です。

 

解説 「田并上村」・・・「并」の音は「ヘイ」で、併せると言う意味ですが、「並」の古い使い方です。「田並上村」。 「長蔵」・・・これも難解。特に「長」の崩しは、最も難しい部類に入ります。 「肝煎」・・・「煎」の字が縦に長くなっています。 「伊左衛門」・・・この人名も難解です。「丑六月」・・・串本町史では、寛政五年【一七九三年】の丑年と推定しています。 「深美嘉左衛門殿」・・・本来、江田組大庄屋は「浦家」が世襲で勤めておりますが、天明~寛政の一時期に、有田浦の「深美嘉左衛門」が、大庄屋を勤めた時期があります。この文書の当時は、ちょうど其の時期に当たったものと思われます。「深美」も難しい。とてもそのまま読める字ではありません。