くろにゃんこの読書日記

マイナーな読書好きのブログ。
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ミーム・マシーンとしての私 スーザン・ブラックモア

2008年03月05日 | 科学&ノンフィクション
「ねえ、そこにある本取って」
「はい、ムーミン」
とこの本を渡してくれたのは我が息子。
受験を控える中学3年生であります。
まあね、字面は似てるよねと思ったのもつかの間、私を除く家族全員がシチュエーションは違えど同じ反応みせました。
ボケを見つけたらかまさなければならないというのが我が家の掟らしいということはさておき、どうやら「ムーミン」は我が家ではミームとして成功を収めているというのがわかります。

ミームというのは何なのか。
「利己的な遺伝子 <増補新装版>」のなかに(いまだ完読至らず、志なかばです)、そのなかにミームについて過激なまでに論ぜられているとして本書が紹介されていました。
「利己的な遺伝子」は、淘汰の最小単位が遺伝子であり、私たちのような生物個体はヴィークル(乗り物)に過ぎないというもので、遺伝子は自己複製子として進化を駆動し、遺伝子は利己的なふるまいをみせるけれども、その過程はデジタルであり心は存在しない。
ドーキンスは自己複製子が駆動するこの過程を生物学的進化を超えたところにも応用し、地球上に存在するかもしれないもう一つの自己複製子として模倣を挙げ、文化伝達の単位、あるいは模倣の概念を伝える単位をミーム(meme)と名づけています。
このミームが自己複製子として存在するならば、文化の進化をどう説明し定義づけるのか、興味がわくではありませんか。

本書は上下巻ですが、勢いのある読みやすい文章でしたので、あまり苦労することなく読めましたが、内容はやはり過激でした。
私は理系の人間でもないにも関わらず、いろいろな考え方を知り、ものの捉え方を転換するということに快感を覚える性質なので、そういう体験ができる自然科学系の本はとてもエキサイティングだと思います。
ドーキンスの利己的な遺伝は、遺伝子の乗り物としてのヒトという概念を与えてくれたわけですが、遺伝子によって行動が影響を受けているという理論は、受け入れがたいと思っている人もいるのではないかと思います。
朝の情報番組「特ダネ」のオープニングトークで小倉さんがイギリスで行われたある実験結果について話しているのを偶然(いや、ほとんど毎朝みてますが)目にしました。
その実験結果というのは、若くて魅力的な金髪の女性の写真を一定時間男性に見せるとその男性の知能が一時的に低下するというもので、そんなバカなありえないと思いましたが、「大きくて澄んだ眼、なめらかな肌、金髪、そして左右対称な顔立ちは、若さと健康の優れた指標であるー金髪は白い肌を持つ民族では歳とともに毛の色が黒ずんでくるから、左右対称は病気の影響がしばしば非対象の傷やしみをつくりだすからである。長い遺伝的な歴史が、若くて繁殖力のある女のしるしに性的興奮をもって反応する男をつくりだしたのである(Matt Ridley 1993)」という文章を本書に発見し、なるほど、そういうこともあるかもなと納得しました。
日本人の場合は、きっと違う好みが発見されるんでしょう。
長い黒髪、白いうなじとか。
話がそれました。

また、ドーキンスは「この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである」とも言っていて、そこがヒトとしての自尊心をくすぐるところだけれども、果たして本当にそうなのでしょうか。
ヒトだけを特別にしているのは一体何なのか。
ブラックモアは、それをミームによって解き明かしていきます。
これは、ミームが自己複製子であること、ミームの利益(自己複製すること)が遺伝子にとっての利益とは関係がないことによっていて、その理論の先には私という存在をミーム複合体ー「私」それ自体がミームによる構成物、込み入ったミーム・マシーンにインストールされた流動的で絶えず変化する一群のミームなのであるーという概念で揺さぶります。
遺伝子の乗り物としての私でありながら、ミーム・マシーンとしての私であり、さらにこの「私」は、イリュージョンに過ぎないという論理は、過激ではありますが大変興味深いものです。
ここに論ぜられていることが正しいという保障は全くありませんが、この理論が正しかろうが間違っていようが、それはあまり問題ではないように思います。
新しい側面からものを捉えることは、柔軟な思考を促すことになり、その積み重ねから新たな発見がもたらされると期待しているからです。

何故、私は今こうしてだれが読むのかわからないようなブログの記事を書くのか。
それは、ミームの利益のためであるに違いない。

ミーム・マシーンとしての私〈上〉
ミーム・マシーンとしての私〈下〉


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
みーむ (めえるつばう)
2008-03-05 15:21:52
ミームの考え方を知ったのはずいぶんと昔です。
ただ理解には至らなかったと思います。
いまでもわかっているのかといえば疑問が・・。

ご紹介いただいたこの本、読み始めたところです。
このネットワークと言うものがここ数年爆発的に発達し
それによってミームの伝播、ある意味ではウィルスの増殖のようでもあるのかな?
などと考えています。
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理解しているかといえば (くろにゃんこ)
2008-03-05 23:49:36
どうかなぁ。
私がミームという単語を知ったのは、それほど最近ではないんですが、内容について理解しようと思ったのはごく最近です。
ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」を読んで、文化的な進化は、生物の進化過程に似ているという直感があり、文化の進化については興味を持っていました。
本書で指摘されているとおり、狩猟採集民から農耕民への変遷は、事象的には解明されていますが、根本のところ、何故農耕を選んだのかという疑問はそのままで、確かにその点は少し疑問に思ったなと感じていたのを思い出しました。

本書、読み始めたのですね。
この本は内容が過激であるので、お勧めできる方は、限られるかなと思います。
アマゾンの書評も賛否両論分かれているところからも、それは想像できますね。
私は、もともと生きていることについてカオス理論的な考え方を持っていますので、わりと本書の言わんとするところが面白いと感じられるのですが、そうでない人にとってはかなり不愉快であり、捉え方によっては危険な本になるのではないかという危惧もあります。
めるつばうさまならどう読むか、楽しみにしていますね。
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ミーム駆動 (めるつばう)
2008-07-23 13:54:43
なかなかてこずりました。
最終章あたりの考え方は前野隆司「受動的意識」
とたぶん同一ではないでしょうか?ちゃんと調べてはいません。
意識というものは無い。エピソード記憶としての
自分があるだけで、主体となる自己はない。
ちょっと理解しがたいというか抵抗があります。
しかしデカルト劇場が無いように私たちの中には小人さんは居ないわけで、
同時に自分とは何?っていう問いを繰り返していくと
実際行き着くところって何も無いとも昔から
感じてはいました。

おそらく、私という存在は限定できず、また
連続体でもないということ自体は納得します。

まだ未消化ですので書かせていただければと思います。
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抵抗感 (くろにゃんこ)
2008-07-23 22:07:58
私はあまり抵抗がなかったんですよ。
影響を受けやすい性格であるというのも関係していますが、生きる意味に対する問いは昔から持っていて、答えを見つけようという悪あがきは、長年の懸案事項でありました。
40年も生きていれば、それなりに経験することもあり、節目節目には、考え方も変わってくるものです。
生きる意味はないが生きていることに意味があるという結論に達したのはここ数年ですが、主体としての自己がないという考え方は、その結論の延長線上にあるもののように感じました。
ブラックモアの理論がすべて正しいとは思っていませんが、心理学のミーム的なアプローチがあったら、どんなだろうなと思います。

前野隆司「受動的意識」というのは初めて知りましたが、ロボットの心の作り方というのは、AIが感情を持つことができるのかということですよね。
それこそミームの出番ですね。
図書館の検索で「脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?」がヒットしましたので、読んでみようと思います。
ネコの毛色に関する本が、ずっと貸し出し中で、がっかりしていたところなのです。
紹介してくれてありがとう。
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