SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

ついに夏が来た!

2021-07-07 09:22:00 | Essay-コラム

ついに夏が来た。小学校は今日最終日で、大喧騒から一転、突然ガランとだれもいなくなった小学校で、今年度最後の教室の後片付けをしながら、窓から忍び寄る静かな夏の気配に、なんだか感慨深い気持ちになった。


なかなか全てが前に進まず、全てが不透明ななか、毎日毎日が、何かのハードルを超える連続だったような長い長いこの季節の終わり。やっと南ドイツでのコンサートが開催されることが決まった。


前回コンサートをしたのがコペンハーゲンでらるちぇにっつぁトリオ、前の年の8月だったから、今回のドイツでのウルクズノフ・デュオのコンサートは、私にとってほぼ1年ぶりの演奏ということになる。とてもとても待ち遠しく、あれ程望んでいたことだと言うのに、12曲目は重心がよく分からずふわふわしていて、なかなかいつもの調子に戻れなかった。


結果的にはこの一年の練習の成果をずしりと感じたこともあったし、この状況ではそれなりに納得せざるを得ない演奏だったと思う。しかし、あの最初の数曲の無重力感はなんだったんだろう?!これって、1年休養してウインブルドンに戻ってきたテニス界の伝説、フェデラーがあれだけの経験と才能を持ちながらも、マッチの最初で感覚が掴みきれないのと、恐れ多いがちょっと似ているのかも知れない。


あの百戦錬磨の世紀のレジェンドでさえ、なんだから、と思うと、あれだけコンサートのない間精進してきたつもりだったのに、この無感覚に足を掴まれたなんとも歯痒い感じを、まあ許せる気持ちになれる。フェデラーによると、やはりどんどんコンスタントに試合をやることでしか、調子に乗ってくることは出来ないのだそうだ。アタックの感覚、コートの空間の感覚、エネルギーの配分、、、それはイメージトレーニングだけでなく「実際に」それも「続けて」やることでしか掴めない、彼でさえ。


フェデラーはこのようにいつも謙虚で、テニスをただ愛しているから故の純粋な限界への挑戦が、一音楽家にもインスピレーションや希望を与える偉大なスポーツ選手だ。



でもそういう風に思うのは受け取る側の感性の問題であって、「人に勇気と感動を与える」とスポーツ選手自身が言ったり、「スポーツの力」とか政治家が言うのを、私は本末転倒だと思う。


大体音楽家だって、何かを誰かに与えたい、まさか夢や希望を与えたいとか思って演奏した時点でアウトだと思う。


音楽を愛しのめり込んで集中していたら、誰かに何かを与えようなんていう、自分が音楽をコントロールしているような思い上がった気持ちにはならないと思う。そういう気持ちがちょっとでもあったなら、音楽ではそれは必ず聴いている方に伝わると思う。


音楽はスポーツのような競争じゃないので、スポーツとは単純に比べられないし、そういう発言をしているスポーツ選手だって、実際の競技中には集中していて本当はそんなこと考えてもいないだろう。そうじゃなければ素晴らしい世界的記録が生まれるはずもない。でも自分のやっていることで人が感動するのを盾にとって、都合の良いものを手放したくないばかりに、どうせ世界のシステムは変えられないから、と尤もらしく訴えた途端に、合わせ鏡のように「夢や希望」という言葉をスローガンに人を支配し、権力や金を得ようという人間の格好の餌食になって利用され、ますますシステムを肥え太らせる。コロナが出てきた今日、昔美徳だった何も考えず、目をつぶり耳を閉ざしてただ頑張るという考え方は、多くの人が苦しみながらも、コロナのためにやらざるを得ない意識の進化に逆行していると思う。


こういう職業だから、こういうシステムにいるから、どこの人種だから、こういう習慣伝統だから、こういうイデオロギーだから、こういう宗教だからなどという思考停止の言い訳を失くす時代に突入したのかも知れない。それを変えることは痛みを伴うけれど、今、一人一人が意識を変えることでしか世界は変わらない。私なんかが変えられない、は謙遜じゃなく、私の意識がこの世界を作っているという視点に立てば、世界に対して失礼だし、無責任だ。


私は自分の全ての感覚に正直でありたいと思う。

世界に対し目を開いて、耳を開きたい。


自分の感覚だけが世界の入り口だから。







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