SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

ブランネンと過ごした夢の日々

2024-02-03 18:21:00 | Concert Memories-コンサート旅行記

「フランス-アンティーユ-日本」オーケストラプロジェクトのファイナルコンサートは、もう5ヶ月もリハをしてきたし、(オーケストレーションを入れると8ヶ月)、みっちり出来ることを力の限りやった、という自信があったので、オケとの協奏というほぼ未知の体験であっても、もうなるようになるだろう、というどっしりした感覚があった。


しかも、私の手には、探さずに見つける。 で供述の、念願のCさんから借りてきたブランネンフルートがあった。




これで万力。このフルートから受け取る力は想像を超えて、私を遠いところまで飛ばしたようである。


まるで片羽で一生懸命飛んでいたのが、急に両羽になったような気分!


果たして一回目の金曜夜の公演は、予想だにできなかった、熱狂的なものになった。





この感覚は満員の会場にまで浸透して、曲が終わるたびに私たちの熱量が、聴衆と一体となって呼吸しているのがありありと分かった。


そういう瞬間に出てくる即興のとんでもないこと。マックスも私も、この日はオケバックにめちゃくちゃ乗りました!




これは、きっとオーケストラ・マジック。

「俺はオーケストラは苦手だ、、、ロボットと演奏してるみたいじゃないか」ってリハで最後までゴネていたアフリカ音楽専門家同僚Cも、コンサートを聴きに来て、ついに「オケの本領は凄いぞ!100人が同じ想いを抱いた時の強大な力だ!」などとのたまった。


素晴らしい指揮者、ヴァイオリニストで誰からも愛されキャラのステファン・グランジョン、若きホープ指揮者ジャンヌ・ラトロンのキラキラした存在、それにミュージシャン達と私とマックス・シラが一体となって、豊かな音が産まれていった。






もう、クラシックも、伝統音楽も、現代音楽も、ジャズも、自分の作品でもマックスの作品でも、どうでもいい。それはきっと、「音楽」だよ。若い学生オケだからテクニックが足りないって?それもどうでもいい。23回しかリハしないプロオケでは多分得られないであろう深い共同理解が、5ヶ月一緒に過ごした彼らとの間に芽生えたこと、きっとこれこそ全員にとって一番の糧だったのではないか。

私にしても、一から自分でオーケストレーションする、この行為なしでは、きっと一生オーケストラの本当の魅力というものを分からなかったに違いない。




翌日土曜の公演は、熱狂の一旦通り過ぎたあとに、もっと精密に作品のディテールを表現できた、これまた奥深い感動を内包したコンサートとなった。





指揮台に立ったときのオケの一人ひとりのキラキラした目が忘れられないし、

一曲の演奏が終わる毎に「もう、これが最後なんだ」という、ほとんど失望にも近い、過ぎ去ってしまう熱狂の一抹の哀しみまで感じられた。



この日に私の着ていたドレス、実は服飾アーティスト安藤福子さん作の「タブーがタブーを超える」という願いのこもったドレス。



「黒いドレスのタブーの女王」、このジャズ、ポップと現代音楽が合わさったような難曲が今回初めて何とか形になりましたが、オケにフリーインプロヴィゼーションをさせるというこの曲、ついにタブーはタブーじゃなくなったのかも知れません。


この土曜日のコンサートの模様は、プロによって録音、録画されていまして、現在編集中。お楽しみに!このプロジェクトはこれからもきっと次に飛んで続くと確信しています。


翌週火曜日には、スパイラル・メロディープロジェクト(自作自演即興プロジェクト)2回公演。




8年前に「スパイラル・メロディー」というCDを全ての楽器を一人で演奏して全曲自作自演して作って以来、次はループマシーンを使ってそれらを実際にライブでやる、という経験を経て、少しずつ賛同者が増え、今やクインテットになったスパイラル。




私の作品の骨格である、ややこしい等価リズムを、生きたグルーヴに変換できる極めて稀なドラマー、エッジ・タフィアルを得たのは特筆で、プロジェクトは素晴らしく前進したと言える。


そこにマチューの絶対信頼のおけるベースライン、アルノーの破天荒なサックス、デルフィーヌの柔らかいヴィオラとヴォイスが加わったのだから、言うことなし!初のCD録音に向けて準備完了、だと思う。


アンティーユ諸島グワドループ島出身のエッジの飛び抜けたドラミングを初めて聴いたのは、同じく小学生向けプロジェクトのシリーズで「アンティーユ音楽」と題したコンサートであった。


最近、マルティニーク島出身のマックス・シラといい、カリブのアンティーユ諸島とはどういう訳か縁があるらしい。




果たしてこれら全ての公演が一旦終わり、ブランネンの魔法の笛をCさんに返した私は、まるで「魔法の解けたシンデレラ」のような、ちょっと惨めな気分になるのでした。


また片羽に戻った私が、今度は自分の力でこのブランネンを手に入れることが出来るようになるまで、期限は一年。


その日が現実になるよう、また新しい精進が始まります。


最後に、今日目に止まって心に響いた、ポーランドの詩人、ズビグニェフ・ヘルベルトの言葉を書きたいと思います。


「源泉にたどり着くには流れに逆らって泳がなければならない。流れに乗って下っていくのはゴミだけだ」



天動説と地動説

2024-01-20 20:45:00 | Essay-コラム

最近、オーケストラプロジェクト「フランス・アンティーユ・日本」で、カリブの伝統フルート奏者、マックス・シラさんのお宅でよくリハをしているのだけれど、マックスさんのお話を聞いていて思うのは、やっぱり素敵に歳を取られた方というのは、ニコレも生前そうだったけれど、無駄話みたいなのが淘汰されて、自分の本当に伝えたいことを真っ向から、真っ直ぐシンプルな言葉で伝えられるようになるんだな、ということ。


例えばこの言葉。


「太陽というのは、億万長者の上にも、貧しいホームレスの上にも、平等に降り注ぐ、共通のエレメントである」


何故このマックスの話が心に残ったのかと言うと、最近音楽院にまつわる話しで、幾つか引っ掛かることがあったからで、そのことを備忘録的に書いておきたい。



19区のとある中学校の初心者向け音楽科はうちの音楽院と提携していて、私もその教授陣の一員なのだけれど、その生徒たちのために編曲をするのに、編曲担当教授の友人が、各自のレベルに合うように編曲するのに大変手間取っているという。


彼女としては、やはり音楽の質を譲ってまで、リズムや音を変えてしまうことに対して苦痛を感じているということだ。


それって、あくまでバランスの問題ではあるけれど、あんまりにも「音楽」より「人間」のレベルを重視することで、音楽の方が譲ってしまうのなら、やはり本末転倒だと思う。


次は、音楽院の副院長との話。「ハンディーキャップ」の生徒についてどう思うか?と質問された。


どうやら音楽院ではハンディーキャップ向けの音楽習得機器のようなものの購入に向けて検討審議しているらしい。


私は、私のクラスに実際いる軽い筋肉の連動に関するハンディーキャップ有りと、お医者さんの証明書を持つ子のことを話した。


「試験では審査員に「音が良くない」って言われて、2回目でなんとか試験通ったけど、審査員に分かってもらうの、すごく難しかったですよ。その子はハンディーキャップのせいで口の筋力があまりないからか、音作りにも限界があるのかも知れない。でも、どんなに「この子はハンディーキャップの証明書がありますので、審査を緩和してください」と言ったところで、結局人間は、実際に出てきている「音」で判断するんですよね。こういう場合、審査員側が悪いとも言えないじゃないですか。審査とは正直であるべきだからです。とても微妙な問題ですよ。それに、誰がハンディーキャップ持ってるかなんて、一概に言えないんじゃないでしょうか。全てはグラデーションになっていますからね。いずれにせよ、私はハンディーキャップを持っているという子も区別せずに、他の子達と全く同じように教えてますよ。」


副院長先生も、私の埒のあかない話に全く同意してくれたが、中学校音楽科の編曲問題も含め、どうも気になる事があった。


なんだか最近、みんな人間側のことばっかり気にかけて、音楽のことを第一に考えてないんじゃないか?ってこと。


そこで、先程のマックス・シラの言葉が蘇ってきた。


音楽とは、どんなレベルの人間の上にも輝く、太陽のようなものじゃないのか?


天才であろうとハンデがあろうと初心者であろうと、意識次第でその光を受け取ることができる。しかしこっちの都合で、その光を人為的に調整することは出来ない。


だからあんまりにも「人間の平等」みたいな主義を掲げると、本末転倒になって人間中心の「天動説」みたいになるのではないか?


「お客様が喜ぶ曲を」とか、「聴衆に分かりやすいように」、「子供でも分かるように」とかいう考え方も、行き過ぎると私は、やはり同じく人間視点の「天動説」になると思う。


私としては、やっぱり「地動説」、私たちが中心なのではなく、音楽が私たちに燦々と降り注ぐ、その周りを私たちが回っているのだ、という認識で演奏したり教えていきたいと思う。



マックス・シラとオーケストラの出会い!

「フランス・アンティーユ・日本」

来週にコンサートを控え最終着陸態勢に入っております!パリ在住の皆さま、どうぞお越しを!



🔔126()19時半 パリ11区音楽院

Vendredi 26 Janvier 19h30 au CMA11/ 7, rue Duranti 75011 Paris

Entrée libre


🔔127()16時半 パリ13区音楽院

Samedi 27 Janvier 16h30 au CMA13/ 67 av.Edison 75013 Paris 

Entrée gratuite sur réservation 

reservation.conservatoire19@paris.fr


多方向に動く空気

2024-01-03 14:54:00 | Essay-コラム

2024年新年明けましておめでとうございます。


娘が生まれてからというもの、私のインスピレーションの元となっている、寒々しい冬の公園に還る。そこでしっかり根を張って冬を耐える木々たちを見上げる。


冬に葉っぱが全部無くなった木の、自由に広がる枝たちひとつひとつの描き出す複雑さが、本当にクリエイティブに見える。


どれだけ根っことなる本物の基礎を、どんなレベルにも教えることが出来るのか。今年もそこに挑戦したいと思う。


生徒たちにしても、「点を取るため」「単に上手になるため」「単に楽譜が読めるようになるため」に基礎を勉強してるんじゃなくって、各自がクリエイティブになるための基礎なんだ、そういうフィーリングになれば、きっと授業は、ただの週間のルーチンを超えたところに行き着けるのではないかと思う。




娘が小学校2年生の時、本当に素晴らしい担任の先生に恵まれたことがある。


彼女は、自分が教壇に立って、みんながそこに向かって一方向に机を並べる、という方式を取らない。クラスの中で幾つかのグループをつくり、それぞれのグループが色んな方向を向いて、先生が移動しながらそれぞれのグループの、それぞれの違った学習方法に参加する。


普通、出来る子に合わせれば下が乗り遅れる、出来ない子に合わせれば上が退屈するのに、彼女のクラスは出来る子供は伸びられるだけ伸び、しかも一番できない子供も解っていない事がひとつもない、そういうミラクルが起こっていた。


そういえば、音は分けても分からない。 - SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounovに登場した、とある19区の小学校の外国人クラスの担任の先生が、自分のセッションの持ち時間より早く学校に着いた私に「自分のクラスを是非観にこないか」と誘って頂いたのだけれど、その先生も、多次元な方向性の動く自由な空気の中で授業していた。(やっぱり各自の机は、木の枝の如く色んな方向を向いている。)




2023年学期最後の初心者の即興アトリエでは、そのような雰囲気に、瞬間的に近づくことができた。


みんなで音楽を聴いたり、楽器で音を探したり、それをどう楽譜に書きとるのか悩んだり、一緒にどうやって書くのか知恵を絞ったり、もう一回聴かせて!って気の済むまで聴いたり、もっとそれを思うように吹けるように練習したり、一緒に合わせてみたり。各自がそれぞれのレベルで、解ろう、という情熱が感じられたし、空気が一方向じゃなくて、色んな方向に自然に流れて、それぞれがそれぞれの場所にいながら、もっと上を目指そうとしている、そういう雰囲気が出来ると、私はもはや、「先生」じゃなくてよくなり、そこにいるだけで良いんだ。(ここに行き着くまでがめちゃくちゃ大変なんだけど。)


この、多方向に空気が流れる感じこそ、音楽でも教室でも(私にとって教室とは音楽の縮図だ)、私の理想である。 


3年前、自分がついに作曲する羽目になった、フランス・フルートオーケストラから委嘱を受けた時に書いた曲を、オーケストラという圧倒的なシステムに挑戦するに至ったプロジェクト「フランス-アンティーユ-日本」でも、5か月に及ぶリハの間、固定した視点が崩れて、色んな場面で空気が色んな方向に動いた。




例えばオケで楽譜を使わず「口伝的に」キューバ音楽を一曲演奏させようと、3か月の準備を経て臨んだ日。


_これは、夏に間に3か月間オーケストレーションするために机に向かったのと、正反対の方向からのアプローチである_


オケの間をウロウロ歩いて各楽器にアレンジを歌いながら伝えたり、指揮台に立って各パートのリズムが合わさったときのフィーリングを説明したりしている私に、同席していたお馴染みアフリカ音楽専門家の同僚Cが言った。


「ミエ、本当に指揮者たちは君のやりたいことを理解しているんだろうか?「楽譜を使わないなんて、無駄に時間がかかる」って言って困惑しているよ」


「私は彼らに理解して貰うためにこれをやってる訳じゃない。自分の習慣と違うものと出会うと納得できない、ぶつかる。その「ぶつかり」こそ、私が望んだことなんだ。そうしないことには何も変わらない。批判されても何でもいいから、私は100%自分を絞り出しているんだよ。」


このセッションの後は、大袈裟じゃなく本当にどっと疲れが出た。オケという巨人を相手にいつも即興アトリエでやっていることをやるのは初体験だったが、本当にものすごく大変な試みであった。


次の週のリハで、オケの演奏が一次元ふわりと上がったのを聴いた同僚Cは、「確かにあんたの言うとおりだ」って、言った。


音楽--楽譜 という関係性ほどエキサイティングなものはない。これを固定せず解きほぐすほど、音楽は深淵まで行けるのじゃないだろうか、と私はそこに希望を感じているのだ。




今年の決意、みたいなものが私にあるとすれば、自分が「ダークサイド」に立っていることを、絶対に忘れてはならない、ということかも知れない。


私には片側しか羽がない、完全ではない、そう理解できれば、カラフルでキラキラした既成の選択肢やら他人の見せかけやらに惑わされずに、自分のやるべきことが分かるのではないかと思う。


人生のある地点までは、運命みたいなものに流されて来たかも知れない、けれどある地点からは、自分が見つけるのだと思う。(その年齢は人によりけりだと思うけれど。)


そういえば娘が日本で「すみっコぐらし」というキャラクターに入れ込んできたのだけれど、これからも世界中のすみっコを訪れて、スパイラル的に、音楽の渦を立ち上げたいと思う。





今年も宜しくお願い致します!

月の満ち欠け

2023-12-21 20:35:00 | Essay-コラム

娘が5区にあるR校に行き始めてから、送り迎えの為に、パリ中心部を通って5(カルチェラタン:パンテオンを中心に、多くの著名大学や名門高校が集まっている)に滞在する時間が増えた。




時間制で支払って、コーヒーやケークも値段込み、という学生向けのリーズナブルなワーキングカフェも、作編曲によく利用させて貰っている。




学生が多いカルチェ・ラタンは、安く美味しい最先端のレストランも多い。ここはカラフルさが楽しい四川ラーメンの店。8段階から辛さが選べる、パリでは珍しい店。5段階にしたら結構辛かった、満足!




R校は、芸術/スポーツ科、半日制で、後の半日は自分のやりたいことを好きなように極めてくださいね、という、大変自由な校風で、独特の時間割と選抜試験を持つ、公立であるにも関わらず、パリでも唯一の小学高学年部併設の中学校。




音楽、舞台、フィギュアスケート、ダンス、チェスの名人まで、、、R校の子供の守備範囲は幅広い。


フランス(もちろんパリ市も含む)が、「音楽はみんなのためのもの」という民主化の大合唱の元で、子供の試験を無くし、くじ引きや学区制(学区外からの受験を排除するため、住所による減点制にする)にしたが為に、音楽自体のレベルがどんどん下がってしまっている(多分日本の「ゆとり教育」の時みたいな感じなのかな?)

というご時分に、R校が選抜式で学区の区別なし、という独自方式を維持しているのはすごいことだし、ぜひ「みんな推し並べて同じです、ピース!」という風潮に対抗して、特殊な環境が必要な子供たちのために頑張って、長く存続して欲しいと思う。


芸術に「推し並べて同じ」は存在しないのだから。


子供それぞれに、一番あった場所があるということだと思う。

大人にしたって、居場所は一番大事。日本人としてパリにいる、それは私が自分で選んだ場所であり、これでとても幸せだと思っている。



6年前(もうそんなに経つんだ!)の火事から、再建を急いでいるノートルダム。


R校と同じ通りのセーヌ川沿いにある老舗レストラン「トゥール・ダルジャン」、なんかノスタルジック。




冬至も近づき、日がとても短い。

水曜の暗くなった夜は、クリスマスらしく飾り付けられた10区の親密な路地(10区って、何故か親密って言葉がしっくりくる)を通って、現在行われている10区/19区音楽院合同オーケストラの練習に参加しに行く。




「フランス/アンティーユ/日本」と題されたこの学生オケコンサート企画、(最終コンサートは年明け12627日!夏の間3か月かけてオーケストレーションした自分の作品と、アンティーユ諸島のマックス・シラの作品を、5カ月間リハを聴いたり、協奏曲形式のものは一緒に演奏したりして練習している。





自分が作曲者として外から聴く、というのは本当に慣れてなく座り心地が悪いものだが、

指揮者でヴァイオリニストのステファンが、これらの作品を心から気に入ってくれて、一小節、そして次の一小節と、彼が感じることを、滋味深い、ユーモアに溢れた言葉で表現し(彼の人生経験を知らなくとも、それを感じる瞬間だ)、オケがそれに感応して、月が満ち欠けするように少しずつ、時間をかけて曲が姿を変えていくのを聴いていると、ああ、インタープレテーション(楽曲解釈)とは、こんなに素晴らしいことだったのか、と思う。




23回だけのリハでわーっと飛び込むように組み立て、その時の感動だけで通りすぎる通常のコンサートだと「月の満ち欠け」を感じる時間なんてないけれど、5か月に渡って二人の指揮者と仕事を共にしていると、深い共感が脈打つのが肌で感じられる。私のパーソナルな心から出てきた音楽が、指揮者のパーソナルな心を通り、そしてそれがオーケストラのひとりひとりの心に伝わっていく、その微妙な振動の過程で、私が書いた当初思い描いていたものとは全く違った形になっていくのを、新鮮な驚きを持って聴いている。


そして、指揮者によって、出てくる音のなんと違うこと!!指揮者という職業の「イタコさん」のような奥深さを感じると共に、心から心への振動によって、音楽は意味を持つものになっていくんだなあ、と思った。




その10区のサン・マルタン運河沿いにある、ハスキー犬がお留守番するカフェ。ショコラやホット抹茶ミルクがとっても美味しい!




今学期最後の日には、9区と10区の境目にあるCさんのアトリエのクリスマス・ツリーを見に寄ってみた。予約札済のブランネンのフルートは、なんと1月のオケとのコンサートで貸してくれるとのこと!楽しみすぎる新年。



「やることがハンパじゃないでしょ(笑)」とCさん。確かにこんな完璧なツリーは珍しい。
メリー・クリスマス!!











探さずに見つける。

2023-12-11 14:12:00 | Essay-コラム

最近、谷川俊太郎さんの「ひとり暮らし」を読んでいて、なるほどと思ってしおりを挟んであったページがあるのだけど、そこには、とあるサウンド・アート展に谷川さんが行って、その後同じ日に、画家の難波田龍起展に行った時のことが書かれていた。


難波田さんの抽象は生きることの具体性から生まれてきたが、「サウンド・アート」の作家たちは、観念から出発して生きることの具体性に触れようとして触れ得ないでいるのだろうか」


この本は日記的また散文的で、答えのない、まさに詩のような感じなのだけれど、谷川さんの芸術に対する考えが、日々の生活の中に映し出されていて面白い。


先日、とある音楽を聴く機会があった。即興音楽であったが、聴きながら、音としても現代的で素晴らしいし、良くお互いが聴いている。楽器も上手く、どんなジャンルでも演奏できるキャパシティだってある。有名な人たちだし、経験豊かで、落ち着いている。しかしどう言う訳か聴いているうちに段々、元気がなくなってきてしまった。


で、ずーっと、この不完全燃焼な感覚って何なんだともやもやしていた結果、この谷川さんのしおりを挟んだページのことを思い出したのだった。


こうなってもいいけど、こうなっても良かったかも、という音楽。


音の表面のエキセントリックさとは逆に、何故かとても守備的に聴こえる。


こうも出来たけれど、自分はこの時こうしたかった、だからそれに正直になることが大事です、とかいう具合に。いつも探っていて、かつ逃げ場もいっぱいある。


最初は感心して聴いていたのに、だんだん、原因不明の鈍痛が心を覆っていく。



そのことを、親愛なるアフリカ音楽専門家の即興アトリエの同僚Cに話すと、


C「やっぱり音楽ってさ、これしかない!か、いやこれじゃない!か、どっちかじゃないか。アフリカでだって、師匠がこうだ!というのを演奏してみせて、そうであるのかどうか、そこが肝心だろ。」


「だよねー。こういうのって、個人的な「分析の探究」みたいになっちゃってない?「これしかない」っていうものがその人の直観から溢れ出てくる、そういうものが、私たちの求めているものだよね。」


C「そう、芸術とは、分析されたり、曖昧になることを拒む、唯一つのものなんだ。」


「私は探さない。私は見つける」、確かそうピカソは言ったっけ。


そうこうあって頭痛のする週末明けの月曜。 行きつけのフルートのアトリエの修理人Cさん(またしてもCだ!)のところに行くことにしていた。


何故かというと、先週娘のフルートの修理に行った時に、Cさんが「ミエ!今すごい中古のブランネン(注・アメリカのメーカー、ブランネン・クーパーのフルート)が手元にあるんだ!絶対ミエの気に入ると思うから、吹いてみな?」って言うから試奏したら、もうこれがブッ飛んでしまう程のすごい感覚で、どうしてもその感覚が忘れられないから、(頭で良いなぁと思うフルートはいっぱいあるけど、このブランネンの場合は、自分のフルートを吹いていてもその感覚が蘇ってきてもうもとにもどれないような、恋に落ちたような生々しい感覚)、もう一度吹きたいと、彼のアトリエに戻って来たのだった。


Cさん曰く


「これね、実は亡くなった偉大なフルーティスト、Dさんの遺品なんだ。どうしても他の人に渡したくないから買っちゃった」


だって!


「あーた、買ったの!?先週試した時はそんなこと言ってなかったじゃん!すんごい高いでしょこれ?狂気の沙汰じゃないの?!」


「そう、僕は楽器に関しては病的なんだ、、、箱を開けた瞬間に、これがすごい楽器だって分かるんだ。だからとにかく買ったんだ。それで満足なんだ。でも、この楽器が本当に素晴らしいと分からせてくれたのは、他でもない、君なんだよ。一週間前君がこのフルートを吹いた時、僕は確信したんだ。この楽器は特別であり、今買うべきであり、いつかはそれを君が吹くべきだと。」


なんたる話!

もう頭痛なんて吹っ飛んだがな。


私はこれまでにも、もう5年に渡って彼にお世話になった間、山ほど色んなフルートを彼の店で試してきたから、彼がお金儲けのためにこの話をしているのではない、直感の話をしているんだ、ということが良くわかる。


そしてそんな直観は、個人的な利益の範疇を越えるのだ。


Cさんは続ける。


「僕は探さない、僕は見つけた。いつだってこうなんだよ。だからこの楽器は、君のために僕がとっておく。」


…図らずも運命を共にしてしまった、Cさんのブランネン。


果たして本当に、この超高い楽器が、私に買える日が来るのだろうか?!


また冒険が始まった()


To be continue!!!!!お楽しみに。