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舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その2 舞鶴引揚記念館

2021年12月02日 03時44分24秒 | 京都情報

本日は舞鶴への訪問記シリーズの第2回で11月17日に訪問の舞鶴引揚記念館について紹介します。

過去の訪問記

 第1回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 202-11-17~11-19 その1 舞鶴市の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

舞鶴引揚記念館の基本情報

住所:舞鶴市字平1584番地  TEL:0773-68-0836

開館時間:9:00~17:00 休館日:第3木曜日 年末年始(12/29~1/1)

入館料:大人400円(300円)、学生150円(100円)(  )内は団体(20名以上)料金

赤レンガ博物館との共通券:一般個人600円、学生200円

公式サイト:舞鶴引揚記念館 (m-hikiage-museum.jp)

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

展示内容の概要など(Youtube動画)

舞鶴引揚記念館~Maizuru Repatriation Memorial Museum~

京都府舞鶴市 引揚記念館 #京都 #KYOTO

【舞鶴市】舞鶴引揚記念館

舞鶴市、世界記憶遺産認定を目指す

 

建物外観と周辺のモニュメント

上の写真は舞鶴引揚記念館の建物外観

上の写真は舞鶴引揚記念館の周囲の引揚記念公園の案内板

上の写真は引揚記念公園内のカリヨンモニュメント

エントランスホールの展示

上の写真はエントランスホール 記念撮影の場所、時鐘、ビデオなどがあります

ユネスコ世界記憶遺産登録証明書などの展示

舞鶴への生還 1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録

第2次世界大戦後旧ソ連に抑留された約60万人の人達の抑留生活と苦難に満ちた引き揚げ

の歴史を伝える資料です。

平成27年(2015)10月10日に舞鶴引揚記念館が所蔵する資料570点が人類が共有すべき

世界的に重要な世界の記憶と認められユネスコ世界記憶遺産に登録されました。

上の写真はユネスコ世界記憶遺産登録証明書 出典:舞鶴引揚記念館の展示

上の写真はユネスコ世界記憶遺産の内容の一部 出典:舞鶴引揚記念館の展示

上の写真は世界の主な記憶遺産と登録国の説明パネル

タイムトンネル

タイムトンネルの奥にメインの常設展示室があります

苦境の記憶世界恐慌からシベリア抑留まで

上の写真は出征兵士の展示

上の写真は赤紙の展示

赤紙の正式名称は「臨時招集命令書」といい、役場の兵事係の職員が届けることになっていた。

召集令状がくると3日~1週間以内に指定された部隊に入隊しなければならなかった。

上の写真は戦陣訓の展示

戦場に向かう兵士としての心得が書かれたもの。捕虜となることは恥であり、命の

尽きるまで戦い抜くことが美徳であるとの内容が書かれています。

満州の日本人と日本の敗戦と引き揚げの展示遠景(満州の日本人)

昭和7年(1932)の満州国建国以降、国策により155~200万人の日本人が満州へ渡った。

上の写真はソ連の侵攻に関する展示

ソ連は昭和20年(1945)8月8日に対日宣戦布告をした後、8月9日にはソ連軍が満州に

進攻してきた。8月16日以降は天皇陛下が大本営に即時停戦命令を下命されていたため

関東軍は静謐。8月18日 日本(関東軍司令官)・ソ連(極東軍司令官)停戦交渉開始

8月23日 ソ蓮の最高指導者スターリンは日本人のソ連移送・強制労働を決定

関東軍の将兵は57万5千人(70万人弱ともいわれる)がシベリアの他、ソ連領内に連行

され強制労働をさせられた。

上の写真はシベリア抑留(強制労働)に関する展示

強制労働の実態を描いたもので極寒の中、1日1食か2食で駅舎、飛行場

劇場、民間住宅などの建設工事などに従事した。背景としてソ連は第2次世界大戦で

軍人約1,450万人、民間人約700万人が亡くなっていたため、労働力不足の状態であった。

過酷な労働のため約6万人が死亡したと言われています。

上の写真はラーゲリ(収容所)内の様子 右端は見張りのソ連兵

上の2枚の写真はラーゲリ(収容施設)の模型と説明板

上の2枚の写真はラーゲリ(収容室)での抑留生活の体験室

上の写真は白樺日誌の展示

当初、日本政府はこの事実(抑留及び強制労働)を知らなかった。昭和20年(1945)11月に   

なってやっと政府が強制連行の情報を始めて得ることとなります。

政府がアメリカを通じソ連との交渉を開始したのは昭和21年(1946)5月   

昭和21年(1946)12月 「日本人抑留者の帰国に関する米ソ協定」が成立し

昭和21年(1946)12月8日 ソ連からの引揚第一船(大久丸、恵山丸)舞鶴に入港

引き揚げ船の第1船は昭和20年(1945)10月7日の雲仙丸

 

次からの記述と写真は10月2日に放送のBSTBS 関口宏のもう一度!近現代史よりの引用

(引用1と記述)

ソ連の日本領南樺太へ侵攻と千島列島への侵攻

昭和20年(1945)8月11日 ソ蓮、日本領の南樺太へ侵攻 出典:引用1

上の写真は南樺太を進軍するソ連軍 多くの民間日本人に悲劇が・・・・出典:引用1

上の2枚の写真は上述の番組で使用された説明パネル 出典:引用1

日本人の悲劇の例として8月20日、ソ連軍が西海岸の真岡に上陸を開始、混乱の中

業務のため疎開せずに残った真岡郵便局の電話交換手の女性9名が自決

8月22日、樺太から疎開・引揚船がソ連軍の潜水艦に攻撃され2隻が沈没、1隻が大破

1,708人以上が犠牲になったとされる

昭和20年(1945)8月18日 ソ蓮、日本領の千島列島へ侵攻、日本兵を武装解除

させながら南下 出典:引用1

昭和20年(1945)8月21日、日本軍は降伏し停戦が成立  出典:引用1

上の写真は上述の番組で使用された説明パネル 出典:引用1

8月28日以降、ソ連軍、さらに「北方領土」に侵攻

8月28日:択捉島に上陸、9月1日:国後島・色丹島に上陸 さらに降伏文書調印の

9月2日以降の9月3日:歯舞群島に上陸へと続いた

各島で日本兵の武装解除を行い9月5日までに無血占領

ソ連の共産党史には9月2日までに北方4島への侵攻は終了と記載されており、北方領土が

ロシアに帰属するとの主張の根拠としている。

現在も日本はロシアとの平和条約が締結されておらず、北方領土の線引きが終わっていない。

 

シベリア抑留関連年表

昭和20年(1945)4月5日 ソ蓮、日本に対し日ソ中立条約の廃棄を通告(通告から一年後に条約失効)

昭和20年(1945)8月8日 ソ蓮、対日宣戦布告(4月5日の通告から一年未満)

昭和20年(1945)8月11日 ソ蓮、日本領の南樺太へ侵攻

昭和20年(1945)8月16日 天皇陛下が大本営に即時停戦命令を下命

昭和20年(1945)8月18日 日本(関東軍司令官)・ソ連(極東軍司令官)停戦交渉開始

昭和20年(1945)8月18日 ソ蓮、日本領の千島列島へ侵攻

昭和20年(1945)8月23日 ソ蓮、日本人のソ連移送・強制労働を決定

昭和20年(1945)8月26日 日ソ間の戦闘がほぼ終結

昭和20年(1945)9月2日  ミズーリ号上で降伏文書の署名

昭和20年(1945)11月   政府が強制連行の情報を始めて得る

昭和21年(1946)5月   政府がアメリカを通じソ連との交渉を開始

昭和21年(1946)12月  「日本人抑留者の帰国に関する米ソ協定」が成立

昭和21年(1946)12月8日 ソ連からの引揚第一船(大久丸、恵山丸)舞鶴に入港

昭和23年(1948)12月5日  ソ連からの引揚が一時中断

昭和25年(1950)4月   国会で「在外抑留同胞引揚に関する決議」採択

昭和25(1950)4月    日本政府は国連へ提訴、国連は捕虜特別委員会を設置

昭和28(1953)11月19日 日ソ赤十字「日本人捕虜他、ソ連領土よりの送還関する共同コミュニケ」発表

昭和28(1953)11月30日 日、ソ連からの引揚再開、帰国第一船「興安丸」が舞鶴入港

昭和30(1955)6月1日  日ソ交渉開始、シベリア抑留者全員の即時帰国を要求

昭和31(1956)10月19日 日ソ共同宣言・通商議定書調印、抑留者全員の釈放決定

昭和31年(1956)12月26日 シベリア抑留者の最終梯団を乗せた「興安丸」が舞鶴入港

 

シベリア抑留の関連サイト 

戦没者慰霊事業:日本人死亡者慰霊碑(ロシア)|厚生労働省 (mhlw.go.jp)

シベリア抑留 平和学習|教育旅行のご提案 (m-hikiage-museum.jp)

98歳 シベリア抑留の体験を語り続ける|島根の戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK

 

戦後75年 いまなお続く「シベリア抑留」(2020年8月24日)テレビ東京

「忘れられた戦争~シベリア抑留の記憶」JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス

ドキュメント『行き先も、分からずに~20歳の初年兵、シベリア抑留の記憶~』〈福生市制作:記憶のアーカイブプロジェクトⅠ〉

 

帰還そして再会

上の写真は海外から日本への引揚者を整理したものである。

海外からの引き揚げ者は600万人以上とされています。

 中国:1,535414人 旧満州:1,271,473人 東南アジア:711,507人 ソ連:472,942人

 北朝鮮:322,585人 韓国:597,302人 台湾:479,544人 千島・樺太:293,491人

 ベトナム:32,303人 フイリピン:133,123人 太平洋諸島:130,968人 ハワイ:3,659人

 南東アジア:138,843人 インドネシア:15,593人 香港:19,347人 本土隣接諸島:62,389人

 ニュージーランド797人

読み難いので地域と人数を列記しておきます。

上の写真は帰還に使用された艦船の模型や舞鶴(地方)引揚援護局などの展示室遠景

上の写真は舞鶴(地方)引揚援護局、歓迎塔、DDTの説明パネル

上の写真は帰還を待つ人々の展示(岸壁の母)

上の写真は岸壁の母「端野いせ」さんの展示

上の写真は引揚の港舞鶴&舞鶴のおもてなしの展示

上の写真は引揚港舞鶴の関連施設の模型展示

上の写真は舞鶴の援護関係施設

 

平和への祈り

上の写真は舞鶴市と姉妹都市・友好都市であるナホトカ市(ロシア)、大連(中国)

などから贈呈された記念品などを展示

企画絵画展示室

上の写真は現在開催中の企画展の遠景

舞鶴引揚記念館『新収蔵品展~紡ぐ記憶~』≪令和2年度第4回企画展≫


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