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黒田官兵衛は有馬のどこで湯治したのか

2014年03月23日 06時19分45秒 | 神戸情報
表題の疑問を求めて有馬観光協会などに問い合わせてみたが不明であったが、2014年3月21日兵庫県立図書館で初めてのレファレンスサービスを受けて判明したので憶えのためメモとして残しておきます。


結論としては「有馬湯山の池坊に投宿、池坊の宿主の池の坊左橘右衛門から手厚い看護を受けた」

出典:黒田家譜 巻之二 貝原益軒 編著 昭和55年発行 (株)歴史図書社 Page56-57


黒田家譜は筑前黒田家の公式の記録です。寛文11年(1671)に貝原益軒が黒田家譜の編纂を始め元禄元年(1688年)に完成させた。
以降、続家譜・新続家譜が作られ、各々数度の改訂を受けています。


上記出典の記載部分を添付しておきます。





有馬の池坊と言えば昭和43年(1968)11月2日午前2時40分頃 池坊満月城ホテル火災があった
ところです。収容人員800名以上の有馬温泉では歴史のある旅館で出火当時は「仁王殿」「中の丸」「本丸」「西の丸」に
隣接した「北の丸」を建築中であった。 地下ボイラー室から出火し、6棟6,630m2を焼失し、 新婚旅行客や団体客等、
246人の宿泊客中、死者30人、負傷者44人を出す大惨事となった。


黒田官兵衛が有岡城で幽閉され牢屋から救出されるまで約1年であるが関連年表を箇条書きにしておきます。


天正6年(1578) 7月 上月城落城し尼子勝久自害し山中鹿之助は護送中に殺害される

        7月  三木城攻めに参戦中の摂津有岡城主の荒木村重が織田信長に謀反

        9月 毛利方の宇喜多直家に降伏を勧め織田信長に帰順させる

       10月 黒田官兵衛が有岡城で幽閉される

       10月 織田信長が黒田官兵衛の長男、松寿丸の殺害を命ずるが竹中半兵衛が密に美濃の居城に匿う

       11月 織田信長大坂木津川河口で毛利水軍を破り本願寺と毛利方を遮断する

       
天正7年(1579)3月7日 織田信長が織田信忠と古池田に出向いた(有岡城攻めの視察)

       6月13日  竹中半兵衛三木城攻めの三木平井の陣中で病死する(36才)

       9月2日  荒木村重が密かに尼崎城に逃亡(留守居役は池田久左衛門)

       11月15日 有岡城留守居役池田久左衛門は尼崎城の村重に会いに行く

       11月   滝川一益有岡城を攻め落城させる

       11月   黒田官兵衛、栗山善介四朗左衛門らにより牢から1年ぶりに救出され有馬温泉で静養する


上記のように天正7年(1579)11月に黒田官兵衛は有岡城から救出されボロボロになった身体を癒す
ために神戸市北区の有馬温泉で湯治をすることになります。
さらに、晩年にも有馬温泉で湯治をしています。昨年(2013年)、黒田如水の書状が見つかり
話題になっていましたのでその関連の内容も記載しておきます。


黒田如水=黒田官兵衛(1546-1604)が亡くなる(注1)4か月前に、福岡藩初代藩主の長男・長政
(1568-1623)に自らの病状を語った書状が見つかり2013年5月21日、福岡市博物館(同市早良区)で初公開された。
湯治をしていた有馬温泉(神戸市)から福岡に送ったもの。如水の最晩年の状況が具体的にわかる貴重な史料で、
家臣らを気遣う人となりもうかがえる内容という。
如水軒(号)、円清(法名)の後に、自筆の花押があり、宛先は「黒田筑前守」(長政)。
11月18日付で、内容からら慶長8年(1603)のものとみられる。
2013年7月7日まで公開された。


(注1) 慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。 59歳。 

原文及び読み下し文の全文は下記のサイトで見れます。

http://museum.city.fukuoka.jp/blog/news/1680/

黒田官兵衛が有馬温泉を温泉の効用を信じこよなく愛していたのだなということが判る文章でもあります。

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