2019年5月6日、奈良薬師寺に来訪した時に撮った佐佐木信綱と會津八一の歌碑を
写真紹介します。
本来なら薬師寺東塔の落慶式が今頃、行われる予定であったが新型コロナウイルス
の影響で延期され何時実施されるか判らない状況になっています。
そこで本日は薬師寺東塔をテーマとして詠まれたと思われる歌を紹介します。
お二人とも超有名な人物です。
上の2枚の写真は佐佐木信綱の歌碑と現地説明板
ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲 佐佐木信綱
佐佐木信綱についてWikipediaより引用紹介します。
佐佐木 信綱(ささき のぶつな、1872年7月8日(明治5年6月3日) -
1963年(昭和38年)12月2日)は、日本の歌人・国文学者。
正三位。勲六等。文学博士。学士院会員。芸術院会員。文化勲章受章。
三重県鈴鹿郡石薬師村(現鈴鹿市石薬師町)にて歌人佐々木弘綱の長男として生まれる。父の教えを受け5歳にして作歌。
1882年(明治15年)上京。1884年(明治17年)、東京帝国大学文学部古典講習科に進む。
1890年(明治23年)、父と共編で『日本歌学全書』全12冊の刊行を開始。
1896年(明治29年)、森鴎外の『めざまし草』に歌を発表し、歌誌『いささ川』を創刊。また、落合直文、与謝野鉄幹らと新詩会をおこし、新体詩集『この花』を刊行。
歌誌『心の花』を発行する短歌結社「竹柏会」を主宰し、木下利玄、川田順、前川佐美雄、九条武子、柳原白蓮、相馬御風など多くの歌人を育成。
国語学者の新村出、翻訳家の片山広子、村岡花子、国文学者の久松潜一も信綱のもとで和歌を学んでいる。
『思草』をはじめ数々の歌集を刊行した。
1934年(昭和9年)7月31日、帝国学士院会員。
1937年(昭和12年)には文化勲章を受章、帝国芸術院会員。御歌所寄人として、歌会始撰者でもあった。
その流れで貞明皇后[5]ら皇族に和歌を指導している。1952年(昭和27年)には上代文学会の設立に関わり、学会誌『上代文学』創刊号に祝辞を寄せている。
1963年(昭和38年)、急性肺炎のため死去。墓所は東京谷中霊園の五重塔跡近くにある。
三男の佐佐木治綱も歌人だったが、父に先立ち1958年(昭和33年)に病没。孫の佐佐木幸綱も歌人で活動している(元編集者で、治綱の息子)。
1944年(昭和19年)から1963年(昭和38年)までの晩年の19年を過ごした熱海市西山町の邸宅
「凌寒荘」は、2003年(平成15年)に熱海市が取得して以降、ボランティアによって管理・公開されている
また薬師寺について概要を記しておきます。
薬師寺の基本情報
住所:奈良市西ノ京町457 TEL:0742-33-6001
宗派:法相宗大本山
御本尊:薬師如来 開基:天武天皇9年(680)天武天皇勅願
公式HP:http://www.nara-yakushiji.com/
薬師寺は1998年ユネスコの世界文化遺産に登録されています。
南都七大寺の一つです。
南都七大寺は下記のとおりで天平勝宝元年(749)に定められた墾田の
地限の数値も併記しました。
興福寺(奈良市) 1,000町歩
東大寺(奈良市) 4,000町歩
西大寺(奈良市)
薬師寺(奈良市) 1,000町歩
元興寺(奈良市) 2,000町歩
大安寺(奈良市) 1,000町歩
法隆寺(生駒郡斑鳩町) 500町歩
天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を願い天武天皇9年(680)に建立。
藤原京に建てられ本薬師寺と呼ばれ現在も橿原市城殿町に東西両塔と金堂の基壇(土壇)が
残っています。持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、
飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。
平城遷都(710)に伴い現在地(平城京右京六条&七条六坊)に移されました。
薬師寺縁起に養老2年(718)に伽藍を移すとの記載があります。
今回、佐佐木信綱が「夏は来ぬ」の作詞者であることを初めて知りました。
作曲は小山作之助 1896年5月に唱歌として発表されたとのこと
歌詞を添付しておきます。
1.卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ
2.さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ
3.橘の 薫るのきばの
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌むる 夏は来ぬ
4.楝(おうち)ちる 川べの宿の
門(かど)遠く 水鶏(くいな)声して
夕月すずしき 夏は来ぬ
5.五月(さつき)やみ 蛍飛びかい
水鶏(くいな)鳴き 卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ
上の写真は会津八一の歌碑と説明板
すゐえん の あま つ をとめ が ころもで の
ひま にも すめる あき の そら かな
(水煙の 天つ乙女が 衣手の
ひまにも澄める 秋の空かな)
東塔の水煙に彫られた天女たち、音楽を奏でて
飛翔する彼女たちの衣の袖の間にさえ、
美しく澄んだ青い秋の空が見えるではないか。
上述の歌に関連する写真を添付しておきます。
上の2枚の写真は修理中に一般公開された薬師寺東塔 撮影:2019-5-6
上の写真は水煙の飛天(天女)
上の写真は水煙 奏楽天人
上の写真は昭和42年(1967)8月1日から昭和47年(1972)1月31日まで発行された
官製はがき。料額印面の図案は飛鳥園の写真から郵政省技芸官 渡辺三郎氏が
デザインしたものです。
この頃の郵便はがきの料金は7円だったのですネ
郵便番号も現在とは異なっていました。
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