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始皇帝陵と兵馬俑

2023年02月28日 04時41分41秒 | Weblog
本日は30年以上前に訪問した中国西安市の郊外にある「始皇帝陵と兵馬俑」をテーマに
書いていきます。この両者は1987年に世界遺産に登録されています。

中国における世界遺産のリストは下記サイトで確認できます。

本題に入る前に中国で最初に統一国家を築いた秦の始皇帝について簡単に記載しておきます。
BC221年中国全土を初めて統一した始皇帝はBC259年2月18日秦の王子として生まれた。
父は荘嚢王、母は趙姫。
名(諱)は「政」または「正」。当時の中国は「春秋戦国時代」と呼ばれる戦乱の時代で
秦の他に魏、趙、韓、楚、燕、斉の合計7か国が争っていました。

「政」は秦王の一族であったが父が人質で送られていた趙で生まれ育った。
政の家族は趙で肩身のせまい思いをしながら、つつましく生活していたという。
その後、秦に送り返された「政」は、王となった父が亡くなった後、わずか13歳で
秦王となった。最初は宰相の呂不韋(りょふい)と共に力を合わせて政治を行っていた。
「政」が成長するにつれ呂不韋の存在が邪魔になり追放した。
自ら政治を行うようになった「政」は、法律を整え、経済を発展させ、軍隊を増強した。
そして16年かけて他国を次々と滅ぼし、BC221年、初めて中国統一を成し遂げた。
「政」は中国を統一後、王ではなく新しい位である「皇帝」をつくり子孫に受け継がれる
位とした。そして自分は最初の皇帝であるから「始皇帝」と名乗った。
BC210年9月10日、5度目の全国遊説中に49歳(数え年だと50歳)で急死するまで、
秦の始皇帝として大改革を断行し現在の中国の基礎を創った。
始皇帝の死後には大規模な反乱(BC209年陳勝・呉広の乱など)が起こり秦王朝は
わずか3代15年で滅びた。しかしこの体制を上手く引き継いだ漢王朝は約400年続いた。


始皇帝陵
秦の始皇帝を埋葬した始皇帝陵は陕西省 西安市(昔の長安)臨潼区(りんどうく)の
東5Kmの驪山(りざん)北麓にあります。
英語で始皇帝陵はThe Mausoleum of the First Qin Emperor 
この陵はBC246年始皇帝が13歳で即位し、その翌年から造営が開始された所謂「寿陵」である。
上の写真は2021年5月29日(土)、Pm11:00~Am0:00にNHKEテレで 放送
された「誕生 ヤマト王権〜いま前方後円墳が語り出す〜」で紹介されていた
秦の始皇帝陵の規模を図示したものです。
秦の始皇帝稜は世界でも最大級の墳墓で世界の三大墳墓の1つです。
(他の2つはエジプトのピラミッド、仁徳天皇稜)
墳丘の大きさは東西345m、南北350mの規模です。

始皇帝陵の全体規模は東西数Kmで陵内は墳丘、陵園、寝殿、便殿、陪葬区、兵馬俑坑、各種陪葬坑が造営されています。配置図は下記(下の写真)

 出典:飯島武次 著「中国考古学の手引き」同成社(2015)Page102
上の写真はGoogle地図に始皇帝陵と兵馬俑坑の位置を示したものです。
北側には謂河が流れています。

兵馬俑
兵馬俑は1974年井戸を掘っていた農民により偶然発見された。
兵馬俑は始皇帝陵の1.5km東に位置し、その規模は2ha程である。
3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で
8000体近くあり、みな戦闘態勢で東を向いている。



上の2枚の写真は30数年前に西安を訪問した時に入手したものです。
今でも長身178cmの兵士俑が多数陳列されている姿が圧巻であった事を鮮明に憶えています。
兵馬俑坑は秦の始皇帝陵の東側1.5kmに位置する陪葬墓である。 
3基の兵馬俑坑と文物陳列庁とから秦始皇兵馬俑博物館は構成されています。
第1号兵馬俑坑は東西230m、南北62mの範囲に5mの深さに掘られた地下坑道で、
総面積1万4,200㎡の中に約6,000体の陶器製兵士俑と陶馬が陣形を組んで並び、
中国を統一した秦軍の威容を現在に伝えています。
さらに東の門道内側に3列×72体=216体の武人俑が東を向いて並んでいます。
上記、武人俑の背後西側にさらに武人俑(1,700体以上)と戦車を曳く馬(88匹)、
木製戦車(22輌)があります。
第2号兵馬俑坑は1号俑坑の北側20mの地点にある東西96m、南北84m、総面積6,000㎡の地下坑道。
ここの兵馬俑は正方形に布陣した弓を持った歩兵隊、正方形に布陣した戦車隊、
長方形に布陣した歩兵と戦車の混成部隊、長方形に布陣した騎馬隊の4つの組織からなり、
その総数は戦車89両と馬336体、歩兵562体にも及ぶ。
第3号兵馬俑坑は1号俑坑の西側25mの地点にある東西18m、南北22m、総面積520㎡の地下坑道。
兵馬俑の最高指揮部隊に当たると考えられている場所である。

秦の始皇帝の治政

治政としては重臣の李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行した。
その内容を箇条書きで纏めてみました。
(1)全国支配の制度改革
  「郡県制」の開始 全国を36郡(のちに48郡)に分け、郡の下に県を設置
  官僚統治制度の開始。郡と県に「郡守」「県令」を任命
  この制度は清王朝まで継続しています。
(2)始皇帝の統一政策
   1)「度量衡」の統一
   2)貨幣の統一
   3)文字の統一
   4)車の「車軌」を統一
   5)交通網の整備
   6)民間の武器の没収
   7)焚書坑儒(ふんしょこうじゅ )による思想統一
     法家を重用して法による統治。儒家・方士は弾圧された
 (3)大規模な土木工事の実施
    阿房宮、始皇帝陵、万里の長城、運河の建設
 (4)始皇帝の全国巡行
   
全国統一の過程
上の写真は秦の始皇帝がいかに全国統一を成し遂げたのか図示したものです。
最後に斉を滅亡させ全国が統一されました。
出典:渡邊義浩監修「中国戦国時代」 昭文社(2022)Page81
上記書籍の表紙に兵馬俑の写真が掲載されているので添付しておきました。

さらに秦の時代の支配領域の地図も添付しておきます。

出典:グローバルワイド最新世界史図表 五訂版 第一学習社(2022)Page109

展覧会「兵馬俑と古代中国」
日中国交正常化50周年記念「兵馬俑と古代中国~秦漢文明の遺産~」の巡回展が東京の
上野の森美術館で上記展覧会が2022年11月22日から2023年2月5日の会期で開催されました。
この内容については時空旅人2023年1月号「中国王朝と皇帝」でも一部紹介されていました。
表紙のみ添付しておきます。(下の写真)


展覧会の公式サイトにリンクしておきます。

Youtube動画
3分で学ぶ!世界遺産vol.016『始皇帝陵と兵馬俑坑』  

「世界の8番目の奇跡」、秦始皇帝陵兵馬俑坑  



関連サイト






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