「山尾三省 第三詩集 『新月』」(くだかけ社)と三省さんの追悼ともいえる「アニミズムという希望」のDVD(山尾三省生誕70年祭)をイトウさんが貸して下さいました。
今日ようやくDVDを見ることができ、詩集もめくりました。
詩集を手渡されたとき、「この詩集が三省さんの中で私の一番好きな詩集です」とイトウさん。生前の三省さんに何度もお会いしたことがあるというイトウさん。
この中には私も好きな詩がたくさんありました。
◎台所で
台所で ふきんを洗いながら
ふきんでも洗わねば汚れる
まして 人間の心はと ふと思った
人間はなにで心を洗うのか
山を眺めて心を洗う
雲を眺めて
水を眺めて
椎の実が実る 椎の木を眺めて心を洗う
赤まんまの 赤い花を眺めて洗う
そしてまた
ふきんを洗うことによって心を洗っていたのだった
大変うれしくなって
洗い終わったふきんをよくしぼり
丁寧に四角にたたみ
そっと額に当ててみた
◎カッコウアザミ
初冬の庭に
百千のカッコウアザミが 咲いていた
静かな 青い花である
大静寂 という言葉を持たれた 尊敬する方は
高齢に到り
明るいガラス戸越しに 終日 その庭を眺めておられた
甘いものとお茶を好まれると聴いた
またあるとき ある人が訪れ
先生は一日そうしていらして 退屈なさいませんか
と尋ねると
退屈とは何か
と逆に尋ねられたと 聴いた
茶をすする ずどんという音も聴いた
初冬の庭に
百千のカッコウアザミの花が咲いていた
青い 静かな花であった
言葉から伝わる日々の営みの中に在る自分を発見し、静かに満たされている平凡な生こそがかけがえのないものと気付かされます。
他にも心に沁み込む好きな詩にたくさんめぐり合いました。
1938年生まれの山尾三省さん。2001年に屋久島で没、62歳でした。

第3回「松下会」を開きました。(私は事務局担当者)。
(写真は出版された「豆腐屋の四季」)
松下竜一氏が作家としてデビューするきっかけともなった代表作「豆腐屋の四季」をどう読み解くかを中心に、今回も熱を帯びた議論が交わされました。
今回の参加者は6名。他に当日になって風邪のため不参加表明をされた方が1名。
3回を重ねてひとりひとりが強い個性を発揮する大切で欠かせないメンバーとして定着してきたことを参加者全員で喜びあえる貴重な会として育っていることをとてもうれしく思います。
意見はバラバラの様を呈しつつ、しかし、それを尊重しながらひとりひとりが自己主張して譲らないというスタンスを持ちつつも、それぞれの参加者が他者の意見に真剣に耳を傾け、そこから新たな気付きを与えられたり、感動を受けたりのユニークで面白い、そして飽きることのない尽きない議論を本音で交わしあえる信頼できる仲間を得た素晴らしさに、私は酔いしれています。
資料を用意して下さる人、ひとりひとりの意見を引き出し、誰もが納得する方向性へと導いて下さる人など、異なる仕事や生活の背景を参加者それぞれが持ち、その背景をも触れ語り、一見議論は錯綜するかに見えつつも、ここは松下竜一氏がその著作を通してきちんと扇の要として参加者ひとりひとりの中に喰い込み重鎮していることが、この会を支えてくれているのだと、会のたびに思います。捉え方の角度はそれぞれに違っても熱さは同じです。それがいい!!!
あらたに文庫本として出た「豆腐屋の四季」(2009年・講談社文芸文庫・1600円)。
ここには、「ある青春の記録」とあり「貧しさを、恋の歓喜を、短歌と文に綴った、永遠のベストセラー」と帯に謳われています。
しかし、「豆腐屋の四季」で世に「模範青年」の“烙印”を押されてしまった松下氏の苦悩とその後の孤独な闘いを私たちは知らなければなりません。
かっての模範青年が、闘いを挑んだ「豊前環境権裁判」を皮切りに様々な変革の思想を松下氏はノンフィクション小説を通して遺しています。
変革の思想と、生活の思想の両方を著した松下竜一氏。
その相反するふたつの思想を松下氏は自身の生きざまをさらけ出しながらつないで行くことにより、多くの読者の共感を得続けていることを、私たちはもっともっと深くみつめなければならないと語り合いました。
松下氏に寄り添い表裏の人生を歩いたともいえる梶原得三郎氏は松下氏亡きあとの2005年3月「西日本文化」で「松下竜一が遺したもの」を寄稿しています。(参加者のIさんよりの資料提供)。
その中で梶原さんは「松下さんが後事を私たちに託したことはすべて、人が人らしく生きようとするときに忘れてならない大切なものばかりである」。「(思想の)底流にあるものは『弱者が安心のうちに生きる権利の確保』である」と語っています。
「豆腐屋の四季」をはじめ、「吾子の四季」「歓びの四季」の「松下竜一四季三部作」は一見柔らかで心打つ生活の些事が私小説風エッセイに丁寧に綴られていて読者を惹きつけてやまないけれど、その底に流れる松下氏を生涯にわたり貫く思想の芽が各所に発芽していることを私たちは読み継ぎながら、深く知っていかなければならないし、引き継げるものがあれば引き継いで行くのが遺されたものの役目との思いでは参加者は共通認識を持っています。
うまくまとめられないし、このまとめが適切かどうかもわかりませんが、これが私の「第3回松下会」の感想です。
1次会ではみっちり3時間筋立て(H氏提案)に添って語り合い、恒例となった2次会ではまた違った角度からお酒を飲みながら懇親を深めるというスタイルも定着してきました。
参加して下さった皆様に感謝。次回もよろしく~~。
次回は2月21日に開催予定です。

本屋さんはたくさんありますが、頻繁に立ち寄っても、眺めて通り過ぎるか立ち読みするくらいで、ほとんど買うことに結び付かない本屋さんと、ここに行くと必ず何かしらの本を買ってしまうという、まるで書棚を眺めていると魔法にかけられたように消費行動に結びつく本屋さんと言うのがあるものなのですね。
私にとっては、竹橋のパレスサイドビルの中にある「流水書房」に行くと、雑誌も含めて何かしらの本を買って店をあとにすることになるのですからまるでマジックが働いているのではないかと思うほどです。
「流水書房・パレスサイド店」は、こじんまりしていてそんなにたくさんの本が並んでいるわけではないのに、ついついそこにある一冊を手にとってレジに歩いて行くのです。
先日も気になっていた「コスモスの影にはいつも誰かが隠れている」(藤原新也著)があり、思わず買ってしまいました。
地下鉄に置かれている「メトロミニッツ」に掲載されたものを改定して出版されたもので、人生の機微を感じさせるいくつかのショートストーリーが織り込まれているのですが、その一遍一遍を読みながら、知らず知らずのうちに封印してしまっていた琴線がえぐりだされるかのようで、微妙なしかし大切な部分に触れてくるのですねぇ。瑞々しさというかたおやかさというか、そんな感性を呼び戻してくれる本で、淡々とした文とストーリーなのに、嗚咽したくなるほど揺さぶられてしまいました。
「ネットではなく本屋さんとの出会いの中で買ってよかった!!」というのが感想。
小さくても好きな本が置いてある本屋さんは、洋服選びのときのブティックと同じで、数は少なくてもそこに行けば何かしらお気に入りのものが必ずあるということでもあり、うれしいことですね。

藤原新也氏が6日夜NHKハイビジョンの「私が子供だったころ」に登場!!(録画ですが)。
映像で新也氏を拝見したのは2度目くらい。
かっこよくて写真でよりうんと渋くてお洒落、声も素敵で参りました。
今年になって掲載された「朝日新聞」の「ネットが社会をしばる・コミニケーションと社会」の藤原新也氏の記事も友人にコピーをいただくことになっています。(我が家は「朝日」をとっていないので)。発信される内容にはいつもいつも深く共感。
私が「藤原新也が好き!!」と言い続けていると、新也氏の写真集「少年の港」を下さった方がいます。深く深く感謝!!!
今日の番組構成は、その「少年の港」がベースのようで、「メメントモリ」や「日本浄土」の中の出来事などを新也氏がたどる……と、そんな感じの番組構成でしびれました。
私は新也ファンになって、もう数年前になりますが、門司港を訪ね、門司港ホテルに泊まり、門司の街を散策までしてしまいました。もちろん新也氏おすすめの「ラーメン屋」さんにも行き、ラーメンも食べました。一人旅でしたが、そのときもワクワクのし通しでした。
そして、9日からは渋谷の「ユーロスペース」で「渋谷」(藤原新也著)の映画化上映が始まります。レイトショウなので夜9時10分の上映。行けるかしら???
私が「追っかけ」もいとわないただひとりの人は「藤原新也」。目が離せません。

「豆腐屋の四季・ある青春の記録」(松下竜一著)が発売になりました。
待っていた「豆腐屋の四季」の再版です。
私の手元にはまだ届いていませんが、皆さんにぜひ買っていただきたいお勧めの本です。
まるで今の時代を予測していたような松下竜一氏の著作の数々。
その中でも、松下文学の中で一番最初に手にして読んでいただきたい代表作が「豆腐屋の四季」です。
家業の豆腐屋を継いだ松下青年が、その暮らしのあまりの孤独と寂寥に指を折って短歌を作り始めたのは1962年25歳のころでした。
「朝日歌壇」に投稿して選ばれた松下氏の短歌を中心に編まれた「豆腐屋の四季」。
その中に短文の日々のエッセーも編み込まれています。
「瞳の星」「眼施」などは、何度読んでも心を打たれます。
松下氏は生後間もない急性肺炎で右目を失明、子供の時、同級生たちにいじめられる弱い松下さんにお母さんが語った言葉は、「竜一ちゃんの心がやさしいから、お星様が流れてきて止まって下さったのよ」。泣き虫の松下氏に向かって「お星様が(涙で)流れて消えたら、竜一ちゃんのやさしさも心から消えるのだよ」と。そんな素敵な言葉の数々が綴られています。
「母はただ一度だって強い子になれとはいわなかった。ただ、やさしかれ、やさしかれと語りかけるのだった。」とあります。
◎我が愛を 告げんには未だ 稚きか 君は鈴鳴る 小鋏つかう
◎草敷きて 君と倚る土手 風荒く 土筆の花粉 かすかに立ちゆく
「豆腐屋の四季」で松下氏に詠われた妻洋子さんも還暦を過ぎました。
◎泥のごと できそこないし 豆腐投げ 怒れる夜のまだ明けざらん
生活苦と世の中のしくみの矛盾に目覚めて行く松下さんは、社会派ノンフィクション作家として世に自身の作品を問うて行き、2004年67歳で没します。

松下さんを偲び、毎年6月に大分県中津市で行われる「竜一忌」。
その「竜一忌」に首都圏から今年集まったメンバーを中心に先月から立ち上げた「松下竜一を読み語る会『松下会』」の2回目を20日に持ちました。
今回の参加者は8名。那須から駆け付けて下さったカメラマンのイトウさんをはじめ、映画を作り主演の松下を演じたいと動いている影虎氏、そして影虎氏を通して初参加の編集者クサナギさんなど、ほんとに「松下好き」が集まって、よい会が持てました。
集まった人は、平凡な私の他にはユニークな経歴の持ち主ばかり。
「松下さん、きっと草場の陰で喜んでいますよね」と松下に惚れる面々はいかに自分が松下さんを深く敬愛しているかという一点を強調。
2時半から始まった会は場所を変えて夜の10時過ぎまで延々と続き、それでも語りつくせない話題にそれぞれが濃密に酔い知れた時間でした。
参加を希望しながら時間の都合がつかなかった方々も、口々に「大切にしたい会」と言って下さり、これからの展開が楽しみです。
次回は1月17日(日)の予定です。
新也さんの本も古本でかなり溜まりました。
最近のものは、もちろん礼を尽くして新刊本で買っています。
写真集なども再版されることがないため、古本屋さんで見つけた時など買うようにしています。これはなかなか見つかりません。
もちろんブログ「Shinya talk」も読んでいます。
「黄泉の犬」が文芸春秋から出た時も、新也さんのブログで知り、すぐに買いました。
すごく面白く読みました。友人にもすぐに買うように勧めました。
2006年12月04日にこのブログ内にも「『黄泉の犬読了☆』」と書きました。
ところがここにきて羽月雅人氏から送られてくるメーリングリスト「乱動通信」でも「この冬お勧めの本」というシュショウナタイトルで、新也さんの「黄泉の犬」の文庫化のことが書かれていました。羽月氏はいつもメールの最後に「アートをなめんなよ!」と赤文字斜体で記しそのあとに「★世界で唯一の羽月雅人(アントニオ・ダス・モルテス)と名乗っていて、私にとってはちょっとオソロシイヒトなのです。
その羽月氏も「黄泉の犬」が良い本だと書いていて、少しほっとしています。
「黄泉の犬」の文庫化のことは「Shinya talk」12月14日に詳しく新也氏自身が書かれています。最後に書かれている旅についての言葉も意味深いですね。
私ももう一度この本を読み直そうと思います。
「黄泉の犬」がひとりでも多く読まれるといいなと思っています。
高田馬場で小さな会を持ちました。
「松下竜一を語る会」(仮称)で、私は事務局的な役割を勝手に担うことに決めました。
初回立ち上げに集まった人たちは6人。それぞれの「顔」を持つユニークな人たちで共通テーマは「松下竜一」。話しは松下を基軸にしながらあちこちに飛び、これからどんな風に展開するのか楽しみです。
第2回目は12月に開くことで予定も立ち、少しずつ新しい参加者を募る作業に入りたいと思います。
それにしても……。
高田馬場の「ビックボックス」前の広場に「古本屋」さんが店開きしていました。
私は前日もこの前を横目で見ながらあくせくと通り過ぎ、2日続けてこの店前を通ったにもかかわらず、寄れずじまい。
ところが、参加者の方から、「下で、松下さんの本が数冊出ているの知ってる?」と訊かれ、瞬時に目の色を変えました。(集まった場所は9階レストラン)。
そして私が手に入れたのが、「風成の女たち」と「ありふれた老い」(写真)。
熱烈松下ファンを名乗る若者は、「松下さんの本を20数冊集めました」と私に語っていたことから、彼も目の色を変えたひとりでここで3~4冊を買ったようです。
こんないい本がなぜ売れない……と、松下竜一著作集を眺めながら、今は松下の本は古書でしか買えず、嘆かわしい限りです。
(「豆腐屋の四季」は復刊が決まったそうですが)
「風成の女たち」は、もちろん持っていたのですが、誰かに貸し出したのかずいぶん前から行方知らず。
手に入れることができてよかった!!!
「週刊金曜日」11月6日号では、「ルポの時代」を特集。その中で、「編集委員がお薦めする必読!のルポルタージュ」で、各編集委員の方がお薦めの本を三冊ずつ挙げています。
「週刊金曜日」の社長、佐高信氏が挙げた3冊は、「風成の女たち」(松下竜一)・「鞍馬天狗のおじさんは」(竹中労)・「妻たちの二・二六事件」(澤地久枝)。
ヤッタァ!!!さすが私の憧れの佐高さん!!!。
他にも「東京・神田神保町古本屋おやじが独断と偏見で選ぶ傑作ルポ30選!」の中にも「狼煙を見よ」(松下竜一)が入っていて、うれしい!!。
「松下の会」をスタートすることができ、おまけにネットでしか手にいれにくい「松下センセ」の本を古本とはいえ、買うことができてよい一日でした。
沖縄への旅に出かける前、「毎日新聞」に記事が紹介され目にした「原始の神社をもとめて 日本・琉球・済州島」(岡谷公二著・平凡社2009年9月刊)の本のこと。
その本が届きました。
息つく暇もなく読んでいます。
そこかしこに、沖縄の「御嶽(ウタキ)」のことなどが書かれていて、ワクワクしながらページをめくっています。
本当はとても難しそうな内容と敬遠するところを、実際に「御嶽」などの聖地を訪ねたばかりの私には、書かれている内容のひとつひとつが納得でき、読みながら実際に歩いた場所が文字を追うことにより、より鮮明に理解を伴って甦ってくるのです。
柳田国男や折口信夫が書き記した神社などにまつわる文献などにも触れながら、実際に岡谷氏が歩いた場所がわかりやすく解説されていて、心に沁み込む文は情感豊かに迫ってきます。
ほとんどが神社化してしまった祈りの場。その中で「大方の御嶽は古代からのありようを保ち続けている。それは決して偶然ではない。私は何もない小さな森の持つ、いや、そうした森を信じ続けてきた人々の持つ、ある底知れない力を感じないではいられない」と岡谷氏。
人々が依り代とする空閑地に神さまは常在されるのではなく、祈りの儀式のときにやってくる、そのために場を神聖に保ち、樹木や岩や砂浜など自然のあり様と深く共存しながら守り続け大切にする……。信仰が暮らしとともにあり、祈りの原点が残る場所が懐かしさを感じるのは、日々の生活のとなりにされげなく深い畏れとともに神域が存在しているからかもしれませんね。
「その清らかで、透明で、静かな空間に私は強く惹かれた」と書かれ、ほんとに同感しています。
ビロウ(クバ)やアコウ、ガジュマル、アダンなど亜熱帯の植物が明るく繁る森や海までの道。ビロウは中でも神木とされています。
沖縄の斎場御嶽の聖所「三庫里」は久高島への遥拝所でもあり、他にも知念城跡の拝所など各所から久高島は望めます。
久高島は琉球の創生神アマミキヨ降臨の地として知られていることも、この本では詳しく触れられています。
済州島の堂(タン)と沖縄の御嶽(ウタキ)がとてもよく似ていることや、社殿を持たない日本各地の神社のことなども書かれていて、「原始の神社を求めて」のこの本を、よい時期に手にすることができ、ほんとうにうれしく思います。
本の最後には「付章 神社・御嶽・堂 谷川健一氏との対話」(21年7月17日)も収められていて、とてもとても面白いです。
自分の中に神さまがいると信じている私。もちろん私だけではなく、ひとりひとりの人の中にも神さまはいらっしゃる。
古代からの長い歴史や民族学的由緒などのことになると知識のない私はいつもちんぷんかんぷんです。
でも、自分が感じる心地よい場所、心地よい自然。心地よい人々などのことを思うことから神さまにつながれると信じています。
何かに触れたとき、そっと手を合わせる、そんな生活を身近に置きたいと思います。

松浦弥太郎さんの本「軽くなる生き方」(サンマーク出版)を書店でみつけました。
松浦さんの本を買ったのは、私にとっては「今日もていねいに。」(PHP研究所)に続き2冊目です。
わかりやすい言葉で軽やかに書かれた深い内容の本です。
悩んだり、詰まったりしているときに、松浦さんの本の中に書かれた言葉の力に勇気づけられるステキな本です。
どの章もなるほどと頷くことばかりで、どこを開いても「そう、そう」と納得の行くことばが綴られています。そしてそれは松浦さんが体験してきたり、実際に日常行っていることなのでとても説得力があります。
私は、ややもするとその当たり前に思えるとても大切なことが信じられなくなり自分に自信を無くしたりすることもしばしば。人間ですものね。そんなときに、まるで蘇生されるように元気をもらえる本だと思います。
河出書房新社より2002年に刊行された「松下竜一その仕事」全30巻のうちの24巻が、私の書棚に並んでします。
(なぜ24巻かというと、思い切りの悪い私は全集が配本になった当初買いそびれ、おもむろに数冊ずつまとめて買っていたのですが、最後の方は今度は本のお世話をして下さっていた「丸善」の方がリストラされて便利に入手できなくなったという単純な理由によります。当時はネットで買うなどの方法もありませんでしたし)。
「松下竜一」大好き人間でありながら、不出来な読者である私は、松下氏の著作をすべて読破するには未だ至らずといった感じですが、ここ数日かけて、書棚に“飾ってあった”著作集の中から、ようやく「狼煙を見よ」を手にし、読み始め、読了しました。
どうして、松下氏の著作の中からノンフィクションの「狼煙を見よ」を読み始めたか、そしてなぜ今まで一度も読んで来なかったのか、それは恥ずかしいことですが、この本は私の日常にあまり関係ないし、興味も持ち得ない世界だったからです。ところが、この本に影響を強く受けた、とっても優れたノンフィクションですよという数人の松下ファンに出会って、読んでいない私は話題について行けず。
そんな事情から読み始めてみると、松下氏の取材力や筆力の凄さと、「東アジア反日武装戦線“狼”」を名乗る大道寺将司氏を核に編まれた「狼煙を見よ」の本のとりこになってしまいました。(そもそも、私は狼煙をノロシと読めずに、ずっとロウエンと読んでいたのです)。
(写真は在りし日の松下竜一氏・1999年12月・市川にて)
松下氏の著作エッセイ「豆腐屋の四季」を獄中で読んだ大道寺氏から手紙を受け取ったことから著者と交流が始まり、彼らが起こした「三菱重工爆破事件」などの内情がこの「狼煙を見よ」には書かれています。
この本の文中には、取材者であり書き手としての松下氏の、自身の“小市民”としての生活の軸に目をやりながら、葛藤や逡巡も垣間吐露されていて、爆撃犯と向き合うそんな作家の心の揺れに読者である私は非常に大きな共鳴を覚えます。
それは、松下氏が多く描いた社会派ノンフィクション小説にも、日常を綴ったエッセーにも全く同じ思想性や視点が流れていることを知ることでもあり、そこら辺が私は松下氏が大好きな理由なのかも知れません。この「狼煙を見よ」にも同じことが言えます。
あるサイトに「極楽蜻蛉の読書ノート」というページを見つけました。
ここに、松下氏の著作が数冊、「狼煙を見よ」も含め、紹介されています。
私も、読後感はほぼ同じ感想を持っています。
「その仕事」には全巻を通して、山口泉氏が激烈な書評を書いていますが、「週刊金曜日」などでも時々みかける山口泉氏の文。生前の松下氏はもちろん、「草の根の会」の人たちも山口泉氏に会ったことはないらしく、根拠を持たない思いつきの私の貧弱な推理から、「竜一忌」にも顔を見せない山口氏は、もしかしたら著名評論家のもうひとつのペンネームではないかしらなど、単純な想像を楽しんでいます。
(こんなところがミーハー読者から脱却できない所以かもしれないけれど)
これから、まだ読んでいない松下竜一氏のノンフィクション数冊を、本腰を入れて読んで行きたいと思っていますが……。
私はどうやら次から次に本を読んで行けるタイプではないらしく、一冊読むとしばらくはそれを自分の中で醸成する作業にとても時間がかかります。